自明のまとめ情報

自明』の解説

自明(じめい)とは、

こういった問題においては、主観的視点(客体)という部分を含み、何が自明であり何が自明でないかは、個人の感覚によって差があるため、より客観的な記述が求められる場合に於いて、より厳密な定義を必要とする。

自明の理

自明の理」という言葉がある。推論論理学の範疇であるが、説明しなくても当然至極の結論として導き出されるものが「自明の理」である。

具体的な例を挙げると、「自動車の運転をしている際、前(進行方向)を見ていないと危険である」は、自動車の性質の上で、運転免許を持つ者には、説明の必要が無いくらい当然の理屈である。同時に、「運転中によそ見をすることは危険である」も同じく、自明の理であり、「運転中に携帯電話でメールの遣り取りをすることも危険な行為である」も、やはり説明する必要もないくらいに、当然至極の結論といえる。

自明と真

しかしながら、自明であることは、それがであることを保証するものではない。例えば、常識は文化に依存する。文化が異なれば判断は異なり得るが、このことは往々にして忘れられ、文化の異なる集団の対立の元となる。

科学の分野でもそうである。ガリレオ・ガリレイ以前には、重いものほど速く落ちるのは自明と考えられていた。実際に空気中ではこのことは往々にして間違いではない。したがって、これが物理法則ではないことを示すには多くの努力を要した。

また、数学では、ユークリッドは、いくつかの公準公理の下に、その幾何学の大系を築いた。その際、彼はこれらを自明のものとして取り扱ったが、それが本当に自明であるかの判断を追求することから、非ユークリッド幾何学が発展した。現在では、公理や公準は、その理論を成立させるための仮説であると考えられる。

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〈学級〉の歴史学 自明視された空間を疑う

5つ星のうち 5.0「学級」の盲点

(参考になった人 23/25 人)

本書は「学級」や「学校」の起源を探ることから議論をはじめ、現在の日本の学級についての問題を考察している。この点では教育史的な部分と臨床的な部分の両面性を含んでいると言って良いであろう。教育病理についての歴史的なアプローチと言ってもよい。
ルターやペスタロッチの児童中心的な思想、それまでの教授法とは異なったモニトリアルシステムと呼ばるモニターと呼ばれる生徒が分業して行う教授法、教科主義、ファーストフードチェーン、パックツアー、日本の教育の歴史など数々の項目を取り上げ、非常に説得力のある文章構成で自明視されている「学級」について言及している。

日本の事象だけでなく、海外の事象も関連させて述べられており、私にとって新しい革新的な一冊であった。

「良い教育と悪い教育」「子ども中心と大人中心」などの二項対立図式にとらわれず、教育のハードウエアである「学級」「学校」に焦点を当てた点では評価に値するように感じる。現代の流行的な意味で、病理の背後には家庭の事情や、電子メディアの影響などが語られる事が多くなった近年の動向に対する挑戦的な著作であったが、やはりここでも十分な説得力をもって編まれた文章であるように思う。
データや、心理的な分析が加われば更なる強みになるのではないだろうか。やはり教育病理を扱うのであれば、「学級」だけでなく他の可能性も視野に入れた方が良いと考えたからである。また抽象的で私にはわかりづらい部分も少なからずあったが、その点に関しては私の読解力不足でもあると思う。本当に色々と考えさせられる著作であった。

著者自身、あとがきで触れてているとおり、教職課程で教鞭をとる者の著作としては異端です。
教職課程では、どのように「学級」を経営していく(学級づくりしていく)かがあらゆる講座の前提となっています。
児童生徒の内面の健康を尊重すべきスクールカウンセリングの講座とて、その例外ではありません。

しかし、著者もいうところの「学習共同体」「生活共同体」「感情共同体」としての学級の暑苦しさは、少し異常かもしれない。
このような懐疑をもつ者が、学級内にいても不思議ではないし、違和感をもつ教育学者はもっといてもいいでしょう。


著者は、この違和感を、近代イギリス教育史から始まる歴史的アプローチによってふるいにかけています。

やや冗長な記述も目立つなと感じましたが、それでも著者ならではの口ぶりは、妙に醒めてて、かつ熱く、好感が持てました。

イジメ報道が過熱すると「教師の力量」が問われるのはお決まりのパターン。
でも、そもそも一人の教師が30〜40人の子どもを相手にあっぱれなマネジメントを展開できるという前提がそもそも怪しいのではないか?
硬質の学級制度そのものを疑うべきではないか?(「学級王国」の主として君臨したがる教師は、今日びかなりの絶滅危惧種でしょう)

そろそろこのような議論が、今よりもう少しでも盛り上がってもいいな。
そう思えた一冊でした。

今では自明の存在になってしまっている「学級」という空間の成り立ちを歴史社会学的に検討した本。
パックツアーやチェーン・システムと学校を比較しながら、学級という空間が読み書きそろばんを貧民に効率よく詰め込むために、イギリスで誕生したことを明らかにしている。
ところが、こうしたある意味ドライな合理的仕組みとしての「学級」は、日本に持ち込まれると過剰に共同体的な意味づけをされ、いろいろなクラス対抗イベントなど(運動会や合唱コンクールみたいなやつ)で教師まで含めた一体感の醸成が重視されることになる。


果てには当初の合理的目的そっちのけで「学級王国」づくりに励みだすことに
どうしてそうなったのかは、本書を読んでほしいところだが、こうしたベタベタした「仲よしクラス」にいまいちなじめなかった人(評者のこと)にとって、本書はその違和感の根っこを明らかにしてくれると思う。
ついでに言えば、こうした過剰な共同体的性質をもった閉鎖的学級は、いじめの温床にもなるだろう。
とはいえ、学級という仕組みは不特定多数の子供に読み書きそろばんを教えるには、確かに効率的な面もあるのだろう。
そうした「学級」という仕組みの功罪を踏まえて、よりよい教育の在り方を考える上で、本書は貴重な視点を提供していると思う。

フッサール心理学宣言 他者の自明性がひび割れる時代に

「自我体験」というのを
心理学の授業のアンケートに書く一人の架空の学生として
「アイ」という女子学生が出てくる。
その学生は、財界人が子女を入学させたがる、外国の絵葉書に出てくるような
レンガ造りの綺麗な建物が並ぶ名門大学に入学するのだが、
両親は、「両方とも学校教師という地味な家庭」に育ったという設定だ。
両親とも教員で知的に恵まれていて、私立の大学に入れるという、
経済的に恵まれていることを、「地味」と表現するのには驚いた。


この著者は1946年生まれなので、周りにいくらでも戦中派、戦前派が
居ただろうに、それらの人々からは、戦争体験や、戦後の混乱期の、
満州、朝鮮半島などからの引き揚げに伴う様々な体験を、聞かされ無かったのだろうか?
単に、学校に行って、輸入物の授業の内容だけを憶えて行ったのだろうか?
この著者自身の育った時代というと、今より治安が悪く、その為、犯罪被害者も当然多く
格差、差別も今より大きいのに、そのようなものを見ずに、
ひたすら学校の中だけを見ていたのだろうか?
前の戦争があまりにも米軍に対して、一方的に負けたので
戦争体験者は、自分たちの家族、親族などに対して
体験を語らなさ過ぎたのではないだろうか?
この著者のように、社会的視野の狭い方が、思想について語る大学教員で、
左翼なども、大手企業の組合と大手メディアなど、経済的、知的に恵まれた層が中心だったので、
ソ連の崩壊、北朝鮮による拉致などで、信用を失ったのだろう。

本書は有名無名を問わず豊富な事例(学生への調査、文芸作品、著名人の自伝など)をもとに、心理学的現象学の方法論を用いて独我論的な世界観を描き出す。同時に、一見独りよがりとも思える世界観が必ずしも特異なものではなく、発達の一段階として位置付けられうるものであることをも明らかにする。現象学というと、フッサールの抽象的で難渋な文章を思い浮かべる方も多いことだろう。しかし、本書は独我論的体験や世界観という具体的な事例を取り上げることによって、現象学の方法論やその可能性を初学者に対してやわらかく開示してくれる。

そういう意味では、現象学入門や心理学的現象学入門の役割をも果たしていると言えるのではないだろうか。

以下、章立てとともに本書の構成を示しておきたい。

プロローグ
第一章 世に棲む独我論者:究極孤絶を生きる人々
第二章 「私はなぜ私なのか」:六歳にして自分を神とする教義を発明した「エミリー」
第三章 日常世界の構造の自明性の裂け目:日本での「私は私だ!」体験調査と木村敏の現象学的精神医学
第四章 ここで念のため、現象学超入門
第五章 フッサール心理学への道:『ブリタニカ草稿』から「事例エミリー」の現象学的分析まで
第六章 ブランケンブルク、自閉症スペクトラム、発達性エポケー
第七章 幼少期に心理的に実在した「フッサール世界」:哲学的フィクションでも精神病理的妄想でもなく
第八章 フッサール世界からの世界観発展:エックルス、稲垣足穂、オウム元信者、シュレーディンガー
第九章 第二の誕生・現象学的反抗・自己事例W・T:人と人との間の世界を現象学はそれ以上遡れない?
エピローグ:いつかボクらみんなが独我論者になる日

ブックガイド
あとがき:他者の自明性がひび割れる時代に

個人的には第八章が非常に興味深かった。独我論的な世界観はともすれば身勝手で社会的にも好ましくないと思われがちなものだが、ある種の「成長」の一つの契機であるというのがよく示されているような気がした。独我論的な世界観を経由した節がある物理学者シュレーディンガーがヴェーダーンタ思想の梵我一如の境地にたどり着いたその直観的かつ具体的な描写は感動的ですらある。

「確かにあした大地が君を呑み込むとしても、あらたな奮闘と苦悩に向けて大地は再び君を産み出すことであろう。それはいつの日にかということなのではなく、いま、今日、日々に大地は君を産み出すのである。それも一度のみならず幾千回となく、まさに日々君を呑み込むように、大地は君を産み出す。なぜなら、永遠にそして常にただこのいまだけがあるのであり、すべては同じいまなのであって、現在とは終わりのない唯一のいまなのであるから」(pp.206ー207)。

イメージとしてはプロティノス的な「一者」への回帰の途上に独我論的な世界観の出現が位置付けられるという感じだろうか。未分化な状態から分化してしまい、また未分化な状態へと戻っていくというような。シュレーディンガーの場合、その「一者」とか「未分化な状態」が等根源的な「大地」と言表されているのだろう。私見だが、そういう意味で独我論的な世界観や体験というのは一種の「意図せざる通過儀礼」とでも言うべきものなのかもしれない。そして、それはいくつになっても訪れうるものなのだろう。色々な分野あるいは様々な形で変奏され尽くされた問題かもしれないが、そこに独我論が絡んでくるというのは私にとって新たな発見だったような気がする。

本書は優れた問題意識、今までに無い着眼点、丁寧かつ鋭い分析などに貫かれている良書だ。非常に密度が濃い。しかし、あまりに野心的であるがゆえか今後に向けていくつか課題も積み残しているようにも思えるのだ。以下、私から三点ほど指摘させて頂きたい。

まず第一に、独我論者や独我論的体験についての言及が多いが、「普通」と言い換えてもいいかもしれない「非独我論的なもの」がどう定義されるのかが具体的には曖昧であるという点が挙げられる。木村敏の「常識的日常性」の定義に依拠している部分もあるが、やや抽象的で具体性に欠ける感が否めない。また、もしかしたら独我論者/非独我論者という二項対立ではなく、もう少しグラデーションがあるという可能性もありうる。本書ではどうしてもやや強烈な独我論者の事例が多く取り上げられているが、非独我論者として括られた事例を挙げたうえでの比較や対照をもっとすべきだったように思う。「『普通』とはこういうものだ」という事例についての言及が不足しているような気がするし、グレイゾーン的な事例をもう少し示してほしかった。意外にも難しい問題かもしれないが。なぜなら、「自明性がまったく一度も揺らがずに徹頭徹尾ごく普通に生きて来ました」という人々が本当に「定型」なのだろうかと私は疑わしく思ってしまうからだ。素朴過ぎる「定型」の方がかえって異常に思えてしまう。そう思うのは私だけだろうか?

第二に、「現代においては独我論者への『淘汰圧』が弱まり、独我論者が増えるのではないか」という著者の認識は本当に妥当だろうかという疑問が湧く。むしろ、SNSの隆盛とリア充やコミュ力などへの過度な圧力で、人と人との親密な繋がりを希求する傾向が近年はむしろ強いような気もする。コミュニケーションの頻度が乗数的に膨れ上がり、まったく独りになって考え込む時間が短くなり、世界観の相対化や均質化が進み、独我論も退潮する方向に進んでいるのかもしれないとも考えうる。いわゆる再帰性の増大の問題とも絡んでくるだろう。つまり、独我論に絡め取られるほどの暇も余裕も無くなっているのではないかということだ。「一人で考え込む時間が多かった時代の方が独我論が幅を利かせやすかったのではないか?」とも疑えなくはないだろう。著者の主張とは裏腹に独我論への「淘汰圧」はむしろ強まっているとも言えなくはない。その点において、定期的に量的かつ質的な調査を継続してみる必要があるような気がするのだ。時系列で通時的に観ることによってこそ、漸く独我論の盛衰について言及できるようになるのではないだろうか。また、現象学的社会学をご専門にされている方と共同で研究するのもこういった問題を考察する場合には有効かもしれない。「過剰な再帰性に晒されるがゆえに、防衛機制として独我論的世界観や体験が発動されるのだ」という結果になるかもしれないし、「実は社会的なコンテクストと独我論というのは相関性が乏しいかまったく無関係だった」という結果もありえなくはないだろう。

第三に、本書でも引用されている木村敏は統合失調症だけではなく離人についても言及が多いが、離人と独我論はどのような関係にあるのだろうか?離人的な体験もよく「自明性の喪失」を特徴としたものとして語られるうえに、独我論的な体験をしやすい時期とその好発期がややかぶる。哲学的な思考や問いが伴いうる点や「ある日突然」が多いという点も似ている。是非、今後の探究課題として取り組んでみてほしい。ただし、離人的な体験の場合、他我のみならず自我をも喪失したようになる場合が多いようだから、やはり独我論とは対照的なのだろうか?また、本書ではレイン『引き裂かれた自己』からの引用が無いが、あそこに出て来る他者を石化するような統合失調気質的な人々も独我論的な世界観の持ち主に入って来るのだろうか?もし入るとするならば、程度の問題はあれ、独我論的な世界観を持つ人は通時的にかなり多く見積れる可能性が出てくるような気もする。それとも、やはり可逆性が無いと見做されて統合失調症性の方に括られてしまうのだろうか?少し私の個人的な興味に寄ってしまい、申し訳ないのだが。

最後になったが、「こういう変な(独我論的な)世界観や体験の持ち主は自分だけなのではないか?」と思い悩む人々には是非とも本書をお薦めしたい。平易で親しみやすい文体及び言葉遣いなので、高校生以上なら充分に読めるようになっている。また、現象学に興味を持つ大学生や一般の方にもその入門書として、これ以上ないくらいの一冊となるだろう。著者も訳者として参加しているラングドリッジ『現象学的心理学への招待』も入門的なものではあるが、抽象度も難易度もやや高いので、入門という意味では本書の方が相応しい気がする。本書の巻末にあるブックガイドも優れているので、本書を読み終えた後に読むべき文献リストとして活用してみてほしい。

2013年に発行される意義は無いと思いました。 およそ現代に通用するものでは無いでしょう。 かと言って、そんな時代も知りません。 複数の偉人の思想を都合の良いように解釈している点が見受けられます。

現象学という思考: 〈自明なもの〉の知へ

「既知になってしまった術語は、それが流れる現象の『形』を切り取ったものだということがわかっていても、そういうものが実体的にあるかのように誤認することを誘発する。それゆえ本書では、そのような術語が表しているものを、もう一度流れゆく現象のなかに還して、受け取り直すことを試みた。それらの術語で言われているものが、最初からどこかにあるかのように語るのではなく、読者がまず自分で自分の眼の前に展開している現象に向き合えるように工夫したつもりである。現象学においては、すべてはそこから始まるのである」(p.262)。



本書は「現象学入門」というよりは「現象学への入口(誘い)」といった色彩が濃い。強いて言えば、ほとんど術語を使用しない吉田章宏『絵と文で楽しく学ぶ大人と子どもの現象学』と初学者にとっては術語があまりに多く用いられている概説書的な竹田青嗣『現象学入門』との中間くらいの位置づけだろうか。現象学の術語にまったく触れたことの無い人でも面喰らうことなく読み通すことが可能だ。(良い意味で)現代文の教科書や入試問題に使いたくなるほどの明晰かつ流麗な文体で綴られているし、適切な比喩も随所に散りばめられている。ハブ空港、なかなか開かないドア、鳴り続けるブザー音。それでいて、フッサール本人の文章を引用するタイミングも絶妙だ。

本書の構成は以下のようになっている。読み方としては最初に「終章」から読むと、全体的な流れが掴みやすいのではないだろうか。

序章 「確かさ」から「自明なもの」へ
第一章 「確かである」とはどういうことか?ー「あたりまえ」への問い
第二章 「物」ー流れのなかで構造をつかむということ
第三章 本質ー現象の横断的結びつき
第四章 類型ーわれわれを巻き込む「形」の力
第五章 自我ー諸現象のゼロ変換
第六章 変様ー自我は生きた現在に追いつけない
第七章 間主観性ー振動する「間」の媒介
終章 回顧と梗概
あとがき
参考文献・文献案内

私にとって特に印象的だったのは、第二章の「構成」と「構築」の違いについてのくだりだ。この端的な指摘に私はハッとさせられた。

「現象学が主題化してゆくのは、物ではなくて物の『構成』と呼ばれるものである。(中略)われわれが主題的・反省的に意識することなく、絶えず変化する現象のなかで、さまざまな相関関係の織り成す多様な構造が生成してくるが、『構成』と呼ばれるのは、このような構造の生成のことであると考えてよい。現象の流れが、流れのなかで、一定の形をとるということと言ってもよい。(中略)能動的な作用者なしに、現象が『おのずから』形をとることを言い表わす表現であるといってよい。(中略)これをフッサールは主体的・能動的な『構築』(Konstruktion)と術語的にも明確に区別しているのである」(pp.101ー102)。

初歩的だが重要な問題だ。違いがよく分からずに使っている方も意外に多いのではないかと思う。学生時代、私は友人から「『構成』と『構築』の違いが何なのかイマイチよく分からないよね」と言われ、即答するのに窮した思い出がある。今からでも遅くないから、その友人に本書を薦めたいものだ。何気ない一節の中にもこういった本質的な問題が凝縮されているのも本書の魅力だろう。平易な文章にもかかわらず、まったくもって気が抜けないほどの密度の濃さなのだ。

現象学に興味のある大学新入生には是非とも一番最初に手にとって欲しい1冊だ。いや、現象学のみならず「自明性」へとメスを入れる学問全般に向き合う心構えのようなものを本書は教えてくれる。

追記
著者自身は読むべき入門書として、ダン・ザハヴィ『フッサールの現象学』とクラウス・ヘルト『20世紀の扉を開いた哲学ーフッサール現象学入門』を挙げている。

5つ星のうち 4.0身体がつくる心

(参考になった人 2/2 人)

他者について、明快に論じている。
わたしたちは、モノやコトと区別して、心ある他者を知ることができるのは、なぜか、どのようになのか。
この存在論的な疑問に、フッサールを足場に、確かに答えている。

他者は身体として現われ、自己も身体として他者の前に現れる。
そのとき、他者の身体と自己のそれとを同一視する。
そのため、そこには身体を媒介とする「響き合い」が起きる。

また、身体は外部と内部との変換装置でもある。
そのため、身体的な「響き合い」の経験は、内部へと変換される。


そこでは、自己と他者の心は一つになる。

こうして、心は、自己だけのものではなく、自己と他者とが共同で構成し、共有するのである。
このような心の構造と生起が、他者を存在させる。
自己と同じように、他者が心ある存在として現れるのである。

このような他者論は、ハイデガーの「共同存在(Mitsein,Being-with)」の概念による場合と似ている。
ただし、ハイデガーの議論が異なるのは、他者との身体的な出会いがなくても、共同存在としての他者の心は透明だという点にある。
やはり、フッサールよりも、「世界内存在(In-der-Welt-sein, Being-in-the-world)」を論じるハイデガーの現象学が徹底しているのだろう。

現象学の解説本をいくつか読んだことがありましたが、いまいちピンと来なかったのですが、本書を読んで段々わかりかけてきた気がします。
現象学特有の難解な専門用語を極力避け、必要に応じて紹介するというやり方をとる本書で、「現象学はどのように考えるのか」が言葉に惑わされずに考えられるようなりました。
また現象学の本によくありがちな「フッサールがこういってるんだからこうでいいんだ」というようなのを本書はしないで、むしろ、フッサールの言葉選びが誤解をまねきかねないことなどの欠点も率直に認められていて、かえって本当に「自分で考える」というフッサール精神を継承しているのかもしれないと思わされました。
著者の次の本も楽しみに待っています。

自明性と社会―社会的なるものはいかにして可能か

5つ星のうち 1.0つまらない

(参考になった人 0/0 人)

本当につまらなかった。 星1も付けたくない作品でした。

人にすすめられて読んでみましたが、いままで あたりまえだと思っていた社会が、 あたりまえではないことを考えさせてくれる本。 具体的な事例が多用されており、かみ砕いて わかりやすく書かれていて、とても丁寧に 考えようとしていると思いました。 二回目に読むと前とは違う発見がありました。

リーマン予想とはなにか 全ての素数を表す式は可能か

数学的な内容に特に問題がある訳ではなく、記述も” 標準的な教科書+丁寧な式の意味の説明 ”で、じっくり式を追えば、より深い理解に進んでゆくと思います。ただし、高校の数学レベルではトラッキングは難しいでしょう。複素函数論に慣れていない人にはあまりお薦めできません。

内容ではなく、叙述の形式に関して、問題点が少なくとも二つあります。

数式の証明過程がほとんどの場合、(未定義の定数や関数を含めて)結論を先に述べてから、詳しい内容を後述するという書き方をしていることです。

このやり方には勿論メリット/デメリット両面ある訳ですが、読むときにページ間を行きつ戻りつすることが頻繁になり、私はとても煩わしいと感じました。式の説明が著者の理解の過程を(逆に)なぞっているような記述で、ユニークで面白いとは思いましたが、かなり強引な解釈も散見されてます。初学者には、標準的な説明と著者独自の解説を併記する方がより親切だったでしょう。

第二の点は、こちらが私が持った最大の違和感なのですが、新聞広告や本書カバーのキャッチ・フレーズで繰り返されている、リーマン予想と「全ての素数を完全に知る」ことが同等であるかのような誇張した表現(比喩)です。
しかし、このテーマは、本書19ページに” ■π(x)がわかることと全ての素数がわかることは同じ ”という項目があって、わずか4行の短い記述だけ。ここでπ(x) は、ある数x未満の素数の個数を表す式。もっとも基本的で鍵になる関数だと注意書きがあります。ここ以外にテーマの詳しい説明が無いのです!驚きました。
小学生の常識で考えても、ある集合の要素の個数を知ることと、その中味を具体的に知ることの間には大きな違いがあります。xまでの素数の個数がわかることとxまでの素数を具体的に全て列挙することが何故(どういう意味で)同じになるのだろうと疑問が湧いてきます。その疑問には最後まで本書では正確には答えられていません。π(x)の漸近的な振る舞い(素数定理その他)が分かったとして、それがxまでの素数を完全に知ることになるのでしょうか?
第5章で述べられている「リーマンの素数公式」がその詳細な意味ですよ、と著者は言われるかも知れませんが、本質的な差は無いでしょう。

これは元々のキャッチ・フレーズの表現が誇大ないしは間違っているわけで、大きな誤解を生じる恐れがあるといって過言ではないと思います。あたかもリーマン予想等に依ってπ(x)あるいはゼータ関数の非自明零点が完全に分かれば、xまでの素数がホイホイと具体的に(全て?)リストアップされるような式が簡単に得られるかの如く吹聴するのは、いかがなものでしょうか? 大袈裟に言えば、解析的整数論に対する誤解や幻想をばら撒くようなものだと思います。

数学的内容は悪くないだけに、このようなキャッチ・フレーズでの宣伝は少し残念です。

[2015年9月22日追記]
p170 2行目 「図6.2で、実部のとても大きな零点」は「虚部」の誤記ではないでしょうか?
p217 4行目 ゼータ関数の前に log が抜けてるような気がしますが?

リーマン予想に関する一般書は既に多数存在するが、その多くは数学者のエピソードを中心としたもので、リーマン予想の数学の中身まできちんと解説してある本はなかなかない。
本書は逆に、リーマン予想の数学的な内容と位置づけを理解することだけを目標として、コンパクトに書かれた本である。

本書の構成は、最初に「x以下の素数の数を与える関数π(x)」の定義と性質を簡単にみて、途中少しだけバーゼル問題とオイラー積に触れるが、あとはひたすらゼータ関数の議論である。
複素関数のコーシーの定理と留数積分、メビウス変換など、かなり高度な内容まで踏み込んで説明が行われている。


この薄さの本でゼータ関数についてここまで細かく書いてあるのはなかなかすごい。
しかしそこまでやってくれているので、「ゼータ関数の非自明な零点の実部が1/2のみ」というリーマン予想の意味と、なぜリーマンがそれを予想するに至ったかまでは、本書を読めばとりあえずは分かるところまではいけるだろう。

ただ、内容を絞りすぎているので、いささか細部に入りすぎてゼータ関数や素数の分布に関する俯瞰的な視座は本書では得られない気がする。
リーマン以前の重要な結果にして出発点でもあるバーゼル問題が結局どう解けるのかは明快に書かれていない(ゼータ関数の特殊な場合については付録にあるが、ベルヌーイ数を使ったこの議論を経るのはかなり遠回りな気がする)し、肝心の素数定理がどうなったのか、どう示されるのかもよく分からないままである。
しかもリーマンが証明したかった素数定理は結局「リーマン予想なしでも素数定理は証明できる」のだから、ではリーマン予想の現代的意義とは、というのは誰もが思う疑問であろうが、本書ではその答えも書かれていない。。

逆に、慣れていない人にとっては恐らく「議論が早すぎる」と思う。
他のレビュワーの方で「なぜπ(x)が分かればすべての素数が分かったことになるのか、よく分からない」という趣旨のことを書いている人がいたが、確かにその点についての説明は「分かっている人向き」に見える(π(x)の値が1増えるとき、その時に限りxは素数なので、π(x)の挙動を完全に知っているのならば、すべての素数を知っていると言える)。

なので「ある程度知っている人向き」ではあると思うが、逆に他の一般書を読んで「肝心のリーマン予想はよく分からない」という人には、本書は非常に役に立つと思う。

5つ星のうち 5.0説明が抜群にうまい!

(参考になった人 9/27 人)

以前 タケシの番組でよく見かけていた先生の著作。
数式の説明なども、まことに巧妙に組み立てられ、読者としては「なるほど!」とスムースに合点がいく。

たとえば、合成数(素数でない数)の並び、2個連続する8、9と3個連続する26,27,28から
n個連続する合成数の例を作る数式をうまく導いて見せるのだが、
実際には合成数の並びは 8,9,10 24,25,26,27,28 と奇数個なので、ちょっとばかり違う。
これを、誤りだとか厳密さに欠ける、とみなすのか、
素人相手の説明上、多少端折っただけの方便とみなすのかで、意見が異なるかもしれない。



まあしかし、
何事につけ、説明があまりに上手すぎると、
さんざん説明を受けた揚句、大して理解できていないのに、
「そんなのは当たり前だ、俺が思った通りだ」などとのたまう御仁が、何故か必ず出てくる。
そんなヤツが上司だったりすると、苦労がたえないことになる。
(秋山仁先生も、たしか似たようなご経験を・・・指導教授が・・・)

中村先生の御苦労や如何に・・・などと余計なお世話をしてしまいました。
サンドイッチ売りの中国人イータン氏が57歳を過ぎて大学講師になった逸話も
数学書には普通ないような、何か味わい深いものを感じました。(^_^)v

で、この世の中、小難しいことを言って煙に巻くヤツラ、実際、分けの分かっていない連中が羽振りを利かすことに・・・(^_-)
大丈夫か?? 今の日本!
この社会は、あたら得難い才能を無駄にしているんじゃないのォ ?

NHKは○○白熱教室などと称して、外国人講師を使った、海外番組の二番煎じばかり放送しているが、
中村先生を講師に、学生生徒を含む一般人を対象にした数学番組を企画して欲しいものだ。
NHKさん、よろしゅ~う 頼んまっつせぇ ・・ <(_ _)>

自明』の解説 by はてなキーワード

証明する必要がないくらい明らかなこと。

自明』by Google Search

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