禹のまとめ情報

』の解説

(う、紀元前1900年頃)は中国古代の伝説的なで、夏朝の創始者。名は文命(ぶんめい)、諡号、別称は大禹夏禹戎禹ともいい、姓は(じ)。姓・諱を合わせ姒文命(じぶんめい)ともいう。夏王朝創始後、氏を夏后とした。

概要

父は(こん)である。

鯀の五世の祖は五帝の一人である帝顓頊であり、禹は黄帝の雲孫(八世の孫)にあたる(禹は舜の族父)。

また、鯀の父は帝顓頊である。従って、禹は帝顓頊の孫にあたる。また、帝顓頊は同じく五帝の一人の黄帝の孫である。禹は黄帝の玄孫(四世の孫)にあたる(禹は舜の族高祖父、堯の同輩、堯は舜の族高祖父)。

塗山氏の女を娶り、という子をなした。

禹は卓越した政治能力を持っていたが、それでいて自らを誇ることはなかったという人徳を持ち、人々に尊敬される人物であった。

禹の治水事業

の時代に、禹は治水事業に失敗した父の後を継ぎ、に推挙される形で、黄河の治水にあたった。『列子』楊朱第七によれば、このとき仕事に打ち込みすぎ、身体が半身不随になり、手足はひび・あかぎれだらけになったという。しかしこの伝説は、どうも元来存在した「禹は偏枯なり」という描写を後世に合理的に解釈した結果うまれた物語のようである。『荘子』盗跖篇巻第二十九には「堯は不慈、舜は不孝、禹は偏枯」とあり『荀子』巻第三非相篇第五には「禹は跳び、湯は偏し」とある。白川静は『山海経』にみえる魚に「偏枯」という表現が使われていることから、禹は当初は魚の姿をした神格だったという仮説を立てた。実際「禹」という文字は本来蜥蜴の姿を描いた象形文字であり、禹の起源は黄河に棲む水神だったといわれている。

そしてこの「偏枯」という特徴を真似たとされる歩行方法が禹歩であり、半身不随でよろめくように、または片脚で跳ぶように歩く身体技法のことを言う。禹歩は道教や中国の民間信仰の儀式において巫者が実践したやり方であり、これによって雨を降らすことができるとか岩を動かすことができるとか伝えられている。日本の呪術的な身体技法である反閇(へんばい)も『下学集』などの中世の辞書では禹歩と同一視されているが、必ずしも同じであったわけではないらしい。

『太平広記』の中に記載する「神(瑶姫)は禹に鬼神を召喚する本を贈る」。

『山海経広注』に記されている禹による無支祁孫悟空の原型)との交戦の描写には具体的な竜としては応竜が禹に加勢しており、最後に捕らえられた。

夏王朝創始

禹は即位後しばらくの間、武器の生産を取り止め、田畑では収穫量に目を光らせ農民を苦しませず、宮殿の大増築は当面先送りし、関所や市場にかかる諸税を免除し、地方に都市を造り、煩雑な制度を廃止して行政を簡略化した。その結果、中国の内はもとより、外までも朝貢を求めてくるようになった。さらに禹は河を意図的に導くなどしてさまざまな河川を整備し、周辺の土地を耕して草木を育成し、中央と東西南北の違いを旗によって人々に示し、古のやり方も踏襲し全国を分けて九州を置いた。禹は倹約政策を取り、自ら率先して行動した。なお中国が1996年から1999年に掛けて実施した「夏商周年代確定プロジェクト」に依れば、禹の夏王朝創始は紀元前2071年、王朝滅亡は紀元前1598年であったとされる。ただし同プロジェクトは、4千年前の年代確定には数年の誤差は避けがたいため、切りのよい数字を取って夏は紀元前2070年から紀元前1600年まで、と定めた。

竹書紀年によれば、45年間帝であったという、今本竹書紀年によれば、8年間帝であったという、史記によれば、10年間帝であったという。浙江省紹興市会稽山に大禹陵がある。

治水の神としての崇拝

後代、治水の神として中国だけでなく日本でも崇拝された。神奈川県開成町在住の郷土史家・大脇良夫が全国調査したところ、禹に関連する碑や像が、水害が多い地区を中心に107カ所見つかった。大脇らは2010年以降「禹王サミット」を開催し、2013年「治水神・禹王研究会」を発足させた。

「禹」の字源

「禹」の字は、古代文字の「九」と「虫」とを合わせた文字である。「九」は、伸ばした手の象形。「虫」は、もともと蛇や竜などの爬虫類の意味で、雄の竜の象形。即ち、「九」と「虫」とを合わせた「禹」は、雄の竜を掴むの象形で、洪水と治水の神話の神と伝えられる「伏羲女媧」を意味する。

日本に遺る「禹」の紋の法被

大きな「」の紋が背に縫い付けられた法被が、慶長宗論慶長法難で知られる法華宗不受不施派の僧・日経の故郷(現在の茂原市)に遺っている。その法被を着る祭には、黒戸の獅子舞がある。

沖縄県の禹王遺跡

沖縄県には、以下の13件の禹王遺跡が確認されている。

  • 国王頌徳碑(1522年)那覇市首里 首里城石門之東
  • 浦添城の前の碑(1597年)浦添市仲間2丁目 浦添グスク前
  • 安里橋之碑文(1677年)那覇市泊1丁目
  • 金城橋碑文(1677年)那覇市繁多川 安里川
  • 宇平橋碑(1690年)南風原町山川 長堂川
  • 勢理客橋碑(1691年)浦添市勢理客2丁目 小湾川
  • 重修石火矢橋碑文(1697年)豊見城市豊見城 饒波川
  • 重修真玉橋碑文(1708年)豊見城市真玉橋 国場川
  • 中山孔子廟碑記(1716年)那覇市久米2丁目
  • 報徳橋記(1732年)糸満市照屋 報徳川
  • 大清琉球国夫子廟碑(1756年)那覇市久米2丁目 旧孔子廟
  • 琉球国新建国学碑文(1801年)那覇市首里当蔵町1丁目 国学
  • 改造池城橋碑文(1821年)北谷町北谷 白比川

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太極拳理論の要諦―王宗岳と武禹襄の理論文章を学ぶ

福昌堂がなくなってしまい、入手をほぼ諦めていた一冊です。
太極拳のいわゆる『座学』のところ。邦文ではテキストと呼べるものがなく、
幸い中国語が読めることもあり今まで原書に頼っていました。とはいえ先人の手による文章となると、
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本書を入手したことにより母国語での理解が上積みされ大変助かっています。
日本人には難解な「開」「合」の説明など、長年のモヤモヤが晴れつつあります。


全ての太極拳愛好者がバイブルと称する「太極拳論」「太極拳経」「十三勢歌」等の解説が
日本語で書かれている(しかも比較的分かり易く)、ということは特筆すべき点です。
太極拳をより深く学びたい人は手元に置いて損はしないと思います。
ただ、著者も触れているように翻訳で得られるものは近似値であり原文のニュアンスを100%伝えることは不可能、
という点は念頭に置く必要があると思います。

おせっかいかもしれませんが・・・
需要が少ない(と思われる)ので重版し続けるとも限りませんし、在庫があるうちに買った方がいい気がします。

太極拳に関する本は、トンデモ本を含めて沢山あるのですが、『太極拳論』の文章を基本に、伝統的な太極拳理論を明快に示した名著です。 これを読んでおかしいと思ったら、間違った太極拳をやっていると思うべき。 分からなかったら、修行が足りないと思うべし。 一時絶版で手に入りにくくなっていましたが、求めやすくなりました。 今のうちに買わないとまたなくなってしまうかも。

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爪 基礎から臨床まで 改訂第2版

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