棄権のまとめ情報

棄権』の解説

棄権(きけん)とは、何かの物事に対する自分の権利を放棄・破棄すること。主に、選挙において有効な投票を行わないことや、大会などの行事に参加を表明した上で開始前・開催中に参加を取りやめる場合をいう。

選挙・政治

選挙権は一般に有権者が行使可能な権利とされており、権利としての性質から行使しないことができる。選挙における棄権には、そもそも投票に参加しないことのみの狭義の棄権と、投票に参加しつつ意図的に白票などの無効票を投じる場合を含む広義の棄権がある。

議会のうち日本の国会などでは、法的には議長にも投票権があるにも拘らず、慣例として議長は投票しない(可否同数の場合は議長決裁権を行使する)。

公職選挙においては投票を義務とする義務投票制を設け、狭義の棄権に対して罰金や一定期間投票権停止などのペナルティを課している国も存在する(例、オーストラリア)。また一党独裁制ヘゲモニー政党制の社会では、反対票を投じることと同様に棄権も体制への不服表明とみなされ、棄権者が当局や社会から不利益な扱いを受ける恐れがあることから、法的な投票義務があるか否かを問わず100%に極めて近い投票率が記録される。

スポーツ

スポーツなどで棄権というと、よく陸上競技採点競技などで使われる。例としてフィギュアスケートなどでショートプログラム出場後、怪我や体の変調などにより、競技を取り止めることを棄権と表記またはアナウンスされる場合が多い。チームで争う競技では、参加権を持っているのがチームであり、選手交代によって試合継続が可能なため、アクシデントによる棄権というのはあまり見られないが絶無ではなく(選手が規定人数を割ってしまう、たとえば野球なら9人ぎりぎりのチームに故障者が出た場合など)、判定に対する不満などから試合続行を拒否する場合もある。詳しくは放棄試合の項を参照のこと。

陸上競技の場合、トラック種目では競技中に突然故障を発生し、ゴールラインを越える手前で、競技員や関係者などに手をかけられた瞬間に、棄権となる。いくら故障を発生しても、ゴールラインを手をかけられずに越えた場合は棄権とはならない。マラソン駅伝の場合、よく「沿道の人が選手に手を触れたらその選手は即棄権となる」と言われるが、必ずしもそうとは言えない。一般的には、公道レースで、かつ競技場内に入っていない(または競技場を使わない)場合、マラソンや駅伝を主催する団体の競技員と記録員、及び当該選手の関係者(例えば、オリンピックの場合はその国のコーチや監督)の合意がなされた時点で棄権となる。もちろん、マナー上沿道から選手に触れることは競技妨害であるので、絶対にしてはいけないが、たまたま運悪く選手に触れてしまったとしても、その選手は棄権となることはありえない。なお、明らかに選手に有利に働くような触れ方(例えば手助けなど)をした場合は、主催者の判断で棄権(というよりも失格と言った方が正しい)となる。

モータースポーツの世界では、クラッシュしたあと、マシンが走行不能ないし、ドライバーが競技続行不可能とチームが判断した場合は、大体リタイヤと言われる。もちろん広義の上では棄権だが、日本語では区別するためかリタイヤと表記される場合が多い。但し、レース前にマシンやドライバーに何らかの異常が発生した場合は、棄権と表記されることが多い。レース中の悪質な違反行為や、マシンの違反改造などが発覚した場合は棄権ではなく、失格である。

スポーツの世界でとかく棄権ということがクローズアップされるのが、団体競技、日本では特に駅伝競走である。正月恒例の東京箱根間往復大学駅伝競走(箱根駅伝)では、棄権するまでの過程がテレビ中継されることが多く、棄権校が出た大会後は選手への健康管理について議論される。駅伝の場合、途中で棄権してしまうと、そこで記録が途切れてしまうため、選手は故障を起こしても何とか記録だけは繋ごうと、中継所ゴールを目指して痛々しく向かう。監督やコーチなども選手を必死に止めようとするが、選手側はここで自分が棄権してしまっては、を繋いできた前の選手やこの後襷を引き継いでいく後続の選手達のことを考え、絶対に棄権するとは言わない。大概の場合は、主催者や記録員、所属チームの関係者3者の合意の上で選手を止める。駅伝の棄権に関し、世論的に盛り上がったのは、1996年1月2日、第72回箱根駅伝往路4区で神奈川大学の選手と山梨学院大学の選手が棄権した際、特に後者の場合は中継車が選手の異常発生から棄権までを完全に追っていたため、「何故早く止めなかった」と論争を呼んだ。監督はすぐに止めようとしたが、先の理由から選手の意志が固くなかなか止められなかった。

ボクシングなど、一部格闘技にも、あまりにも一方的な展開でレフェリーから試合を止められそうな場合、アクシデントで重傷を負った場合などは陣営からタオルを投入する、インターバル中に降参、または試合続行する意思がないことをレフェリーに伝えるなどして棄権し、試合を終わらせる権利を認められているものもある。しかし、これらの行為を行うとノックアウト負けにより試合終了となってしまうため、原則として最後の手段で用いられる。

大相撲で、取組中の怪我等により物言い取り直しや水入り後の再開の相撲を棄権することがあるが、この場合は棄権しなかった側に不戦勝が付く。1939年昭和14年)1月場所11日目の鏡岩磐石の一戦では、水入り二番後取り直しの大相撲になったとき、疲労から棄権の申し出をした鏡岩(当時36歳)に対して、磐石も不戦勝を承諾せず、両者棄権となって不戦敗が記録された。

競馬においては競走中に落馬・故障が発生して棄権した場合、「競走中止」となるが、競走前の故障や放馬カンパイでの疲労による棄権は「競走除外」となる。なお、競走中止が発生した場合、審議が発生する。2001年ダービー卿チャレンジトロフィーにおいてシンボリインディがスタート前に発馬機のゲートをくぐってしまい骨折、競走除外となりそのまま予後不良となった。2008年エリザベス女王杯にてポルトフィーノがスタート直後落馬となり競走中止になったにも関わらずカラ馬の状態で1着入線しており、史上初のGIでカラ馬が1着入線という出来事があった。

なお、スポーツ競技での棄権には「DNS」(Did Not Start、棄権、欠場)、「DNF」(Did Not Finish、途中棄権、または記録なし)、「DSQ」(Disqualified、失格)といった略語・略号が用いられる。競馬の場合は競走中止の場合「中止」・「止」、競走除外の場合「除外」の略語・略号となる。

囲碁・将棋

囲碁将棋においては、敗北を認めて対局を終わらせる投了という手続きがあり、病気等での対局不能の際も自分の手番であれば投了するため棄権の例は少ない(たとえば将棋棋士真部一男の絶局は不利でも何でもない局面での「考えている手を指した場合に予想される相手の長考に自分の体力が耐えられない」という理由での投了であった)。ただし絶無ではなく、1982年の囲碁名人戦リーグの坂田栄男-島村俊廣戦で、坂田の手番で島村が脳出血で倒れる(復帰できないまま1991年死去)という事件があったときの立会人の裁定は「坂田が次の手を打ったところで島村の棄権負け」であった(秋山賢司「囲碁とっておきの話」文春文庫、1994年)。

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ゲンロン0 観光客の哲学

普段レビューかかないんだけど、これはスーパーよかったから、オススメ。
以下かなりネタバレる。
一部は現代社会の理論構成って感じ、二部は実践編かなあ。
ツリーとリゾームって概念があって、ツリーは体系的でものを考えて行動するやつ、リゾームは体系では説明できない外ね。
普通の存在論とかは、基本一つの体系(構造)内についてしか説明できてなくて、その外は比喩的にしか説明できてないんだけど、これは外部としてのリゾーム=マルチチュードを概念的な意味をまとめたことがまずスーパーすごい。

カントとかヘーゲルとかハイデガーとかはツリー=円環(体系)が一つだからその外を考えて、さらに体系で説明できないことに概念的な意味を与えたってことだよ、やばいよこれ、
さらに、これまでのマルチチュードは否定神学的なので、説明できない=ある、ということでしか言えてなくて、手触りのないものだったんだけど、そこからもう一歩踏み込んだのはマジやばい。外については沈黙していれば良いってことじゃない。
アクロバットな議論なんだけど、存在論の歴史を総ざらいしちゃう感じで、しっかりと哲学史的に裏付けされている。(哲学はすっごい概念的に微妙なちがいを考えるもんだから、他の哲学者の話が多いのは全く悪いことじゃあないからその手の批判は意味わかんない)
観光客=郵便的マルチチュードは、シールズとかの中身のない連帯=否定神学的マルチチュードに意思の概念をある程度(しかも人々の側から)導入した概念。

実践編の二部も、郵便的マルチチュードとしての立場が嫌なら嫌で良いんだけど、理論的に否定できるもんじゃないとおもう。じゃあどこの立場にに立つかはもっと考えて生きたいっす。

前半の不気味なものは一部の2層構造を曖昧にしちゃうみたいなシミュラークルまみれの世界での世界の見方かなー
ドストエフスキーのやつは、登場人物を現代社会のリベラル(ツリー側)リバタリアン(リバタリアン)とかと重ねつつ、じゃあどこらへんの立場で生きる?って感じ。
去勢されたことの比喩ってのはツリーにイデオロギーが抜けちゃった否定神学的マルチチュードと重なるんだけど、そこの動機に家族を導入することで郵便的マルチチュードになっちゃうわけですよ、
家族=自分の偶然による誤配で生まれちゃった場所で、自分の愛せる人、のために建設的に考えようぜみたいな感じ。
東浩紀さんは、自らをリベラルと称してるから、こいつ右傾化してるなって見えるかも知んないけど、別に御国のためにーとか言ってんじゃなくてさ、もっとちっちゃい自らの範囲で愛せるツリーのことを考えてみろ、そのためには欲望だけに動かされるんじゃなくてさ、長期的な視野もいるべってはなしだと思いました。
感動しました。とにかく、感動しました。
こりゃやべえっす!!

5つ星のうち 5.0対立軸を超えるために

(参考になった人 1/2 人)

ナショナリズム政治「国家」とグローバル「帝国」経済の対立の二重構造。
”複数の頭をもつ、身体がひとつの怪物”
に今の世界をたとえる現状分析は卓見であり、
議論のたたき台としては最上のものである。
だが、その二重構造に対する実際の処方箋としてはどうか。

やまたのおろちを退治するのに、勇者マルチチュードには
「観光の剣」と「家族の盾」が必要だと著者はいう。
だが、昭和的な意味での「観光好きな家族」以上のことが具体的にはイメージしづらい。


たとえそれらが広い意味での抽象概念だとしても、
それがどのようにして現実の問題解決に結びつくのか、というあたりの論理が曖昧で釈然とせず、
著者の自己肯定ではないか、という穿った批判まで可能である。

国民国家と「帝国」のあいだに入り込むには
たとえば、両方の良さを取り入れる必要がある。
管理者不在で自由にアクセスでき(=帝国の良さ)、
ローカルで秘匿性のある(=国家の良さ)諸活動を作り出し、
民衆主導のマルチチュード性をもつ現今のものといえば、
やはりブロックチェーン技術だろう。
国家や帝国に一切介入されずに、経済活動を含めたあらゆる活動を
自律的に回せるようになれば、たしかに有効な解決策となり得る。

また、著者の提案の路線でいえば、単に観光客と家族が「合体」し、
「観光客(=外国人)」を「家族」にするのもいいかもしれない。
つまりは、国際結婚だ。
誤配、という意味では、旅行では済まないレベルの
このうえなく予想もつかない(”不気味な”)生活や思考様式の変化が訪れるだろう。
そういった形態が大多数の当たり前になったとき、次世代に思想や制度の革命が起きて、
国家や帝国の支配が転覆する、というのなら想像できなくもない。

いずれにせよ、誤配とは、ある程度は気の進まないことでも受け入れろ、という概念だ。
上述に極端に沿えば「自分、あるいは自分の子供がビットコイン長者の中国人移民と結婚」というような
シチュエーションでも平然と受け入れられるかどうか、
そのような劇的な変化を政治信条的にも心情的にも許容できるか、どうか。
対立軸を超えるための今世紀の変革はそのあたりにかかっていると思われる。

このゲンロン0を読んで、東浩紀さんがデリダ研究で登場した哲学者だったということを再認識させられました。
現代政治を貫くリバタリアンの哲学とコミュニタリアンの哲学(文中の分割では資本主義とナショナリズム)の二元論をすり抜け、そしてヘーゲルの国家観を乗り越える試みとして、『郵便的マルチチュード』という新しい概念を提起する。
これは東さんによるデリダ哲学(抽象的かつ哲学に留まってしまったデリダ哲学!)の具体的な進展なのだと思いました。

それと、最終章の『ドストエフスキー最後の主体』では、亀山郁夫さんの想像する〈カラマーゾフ第二部〉を手引きに一つの共同体である家族について論じられますが、個人的には、自分の想像していた〈カラマーゾフ第二部〉と違っていたので、まずそこが興味深く感じました。



(私は第二部では、ニコライの名(スタブローギンの名でありロシア皇帝の名)を持つコーリャがテロリストになり、ロシア皇帝=父を暗殺しようとして失敗し、アリョーシャは彼の関係者として共に捕まり、コーリャは死刑。アリョーシャはドストエフスキーのように減刑されシベリア流刑となり、その経験を経て、アリョーシャは思想的(ロシア正教的)にドストエフスキーに同一化する・・・というシンプルな想像)

この一冊を読み終えてから私は、まず、亀山郁夫さんの新書『〈カラマーゾフの兄弟〉続編を想像する』と、バフチンの『ドストエフスキーの詩学』を読んだあと(さっそく買いました)、亀山郁夫さんの絶賛する作家・中村文則さんの代表作『教団X』を読む直してみようと思いました。

最新事例解説 すぐわかる選挙運動 ―ケースでみる違反と罰則―18歳以上選挙権・インターネット選挙対応

はじめて選挙運動にかかわる人にとっては、良いアドバイスになると思います。 ニュアンスで何となく理解していてもどこまで良いのか、不透明な部分が少し見えてきます。

5つ星のうち 4.0まとまっています

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全くのド素人にも、わかりやすくまとまっていると思います。 しかし、難しい内容には変わりないのですが・・

棄権』の解説 by はてなキーワード

選挙に有効票を投じないこと。日本の選挙制度では、棄権は「政治の現状になんの不満もありません」との意思表示として、事実上扱われている。

具体的は、下記のような方法がある。

(1)投票しない

(2)白票を投じる

(3)「該当なし」などと書いた意図的な無効票を投じる

(4)「(候補者の名前)君がんばれ」などと、余計なことを書いた票を投じる

(5)投入すべき投票箱を間違える

棄権』by Google Search

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