意味論のまとめ情報

意味論』の解説

意味論(いみろん、: semantics)とは、言語学では統語論に対置される分野、数学(とくに数理論理学)では証明論に対置される分野で、それらが中身(意味)に関与せず記号の操作によって対象を扱うのに対し、その意味について扱う分野である。なお、一般意味論というものもあるが、言語の使用に関する倫理を扱うものであり、ありていに言って無関係である。

言語学

言語学において意味論は、語・句・文・テクストといった記号列(文字列)の構成について論じる統語論と2大分野として対をなす、その記号列が表す意味について論じる分野である。また、実際の発話や文脈に依存した記号の使用に関わる語用論とも対置される。

統語論と意味論の切り分けについてよく示す具体的な文例がある。

Colorless green ideas sleep furiously.

という文は、「非文」ではない文、すなわち名詞や動詞がおかしな所にあったりはしない、統語論的には問題ない文であり(詳細は対象の記事を参照のこと)、実際にたとえば Big furious bears ran quickly. という文は普通に意味をとれるだろう。それに対し問題の文は「色の無い緑」「緑のアイディア」「アイディアが眠る」「猛り眠る」など、どれもまともに意味のあるように意味をとるのは難しいわけだが、この違いがどこにあるのか、といったようなことを議論するのは(統語論ではなく)意味論の側ということになる。

意味は、大きく次の二種類に分類されることが多い。第一に、記号が対象や状況に対して持つ関係。 第二に、記号がほかの記号(特に概念と言われる心的記号)に対して持つ関係。前者は指示的意味(reference)、後者は内包的意味(sense)などと言う。

これら二種類の意味に加え、意味論は伝統的に、真理条件項構造主題役割談話分析などを研究してきた。これら全てと統語論を結ぶことも意味論の課題である。

数理論理学

言語学における統語論は、数理論理学では証明論に対応する。同様にして言語学における意味論に対応するのが数理論理学における意味論である。証明論では対象を単なる記号として扱い、その記号の操作のみによるものとして証明をおこなう。たとえば「点A」というものがあっても、それが図形的な点である必然性などといったことは扱わず、与えられる公理に現れる単なる記号として扱われる。それに対し、もっぱらモデル理論と呼ばれる分野であるが、たとえば幾何学にあっては実際の図形といったような具体を扱うのが意味論である。

言語学における意味論との関係

これに対して言語学においては、言葉とは何かが曖昧であり、文法についての意見の一致もなく、「意味とは何か」ももちろん定まらず、従って当然、数理論理学におけるような厳密な意味論も行ない得ない。自然言語の意味論をどのように行なうかは、極めて困難な問題である。言葉の意味というものは「意味とは何か」を学術的に定義するまでもなく我々が直感するものであり、また例えば機械翻訳などの分野では「意味とは何か」の問題を回避して工学的成功を得ることも可能なので、そもそも自然言語の意味論というものに存在意義があるのかということも問題になる。

自然言語の意味論におけるそういう困難を解決する一つの方法は、言葉の表層ではなく、言葉に対応する脳神経系内の存在物を抽象化して形式言語と捉え、数理論理学的に研究することである。

それは、もはや言語学というよりは数理心理学的の研究態度である。例えばモンタギュー意味論は、そういう問題意識によるものと解釈できる。

コンピュータ科学

コンピュータ科学で「意味論」の語がある分野としては以下がある。

やはりこれも言語学における意味論と同様のものだが、その対象がコンピュータプログラミング言語で、また数理論理学と関連が深い特に形式的なものを指すことも多い。なお、この分野では統語論を指して「構文論」という語を使うことが多いが、特に区別は無い(自然言語の言語学の場合にも「構文論」と言うこともある)。

意味論の課題

  • 意味とは何か
  • 意味論の方法論
  • 言語理論における意味論の位置づけ
  • 表現に正しく意味を与えるための条件
  • 意味の
  • 語彙素間の関係
  • 認知と意味の関係
  • 字義通りの意味と比喩的な意味の関係
  • 多義の構造

主な意味理論

上記のモンタギュー意味論の発展したものである。言語を構成的なものと捉え、意味の断片を定められた関係に従って結合することで文(ないし談話)の意味が演繹できるとする枠組み。意味の構成や解釈の仕方は恣意的でなく、形式的に行われる。自然言語の研究だけでなく、上記のように数理心理学や数理論理学とも密接に関係している。
語や形態素の意味構造を扱う意味論の下位領域である。 その研究方法には大きく分けて二つの接近方法がある。一つは同じ意味場に属する二つ以上の語の関係を明らかにしようというものである。この方法では語彙の体系におけるある語の価値が確定される。もう一つはある語を、それより原始的な要素によって分析する方法である。成分分析や語彙分解がこの方法に属すものであり、語彙概念構造(LCS)の分析はその近年の発展である。なおこれら二つの接近方法は互いに相容れないものであるというよりも、同じものを求めるための出発点の違いということができる。
認知主体である人間が、客観世界をどのように捉え、それをどのように言葉にするのか、という課題に着目した理論。日常言語の概念体系のかなりの部分は、実際は世界の客観的な解釈によって構築されているのではなく、そこに言語主体の身体的経験や言語以外にも見られる一般的な認知能力が反映されていると捉える。そこにはメタファーイメージ形成、イメージスキーマ変換、カテゴリー化などの主体的な認知プロセスを介して構築されているという事実がある。この種の能力・認知プロセスによって、通時的意味変化、多義性、構文の拡張などが動機づけられている、という観点に立つ。「水が半分も残っている」と「水が半分しかない」「半分残った水」はどれも同じ客観的な世界を捉えた言語表現であるが、それを認知主体である人間がいかなる認知プロセスを反映して、客観世界をどのように捉えるかによって、このような言語表現の差異が生まれるのである。アプローチは多岐にわたるが、共通しているのは形式意味論のような人間の主観や認知を廃した形式的な枠組みに対するアンチテーゼとなっている点である。語用論談話分析などのほか、ゲシュタルト心理学認知心理学発達心理学脳科学などとの親和性も高い。
生成文法の意味論部門。レイ・ジャッケンドフが推進している意味理論で、意味構造概念構造というテーゼに立脚する。認知心理学との相互交流も盛んであり、音楽の理論や視覚の理論などとも結びついている。表示のモジュール論に立ち、意味構造解釈部門と捉えず、生成的と仮定している。意味役割の理論、照応の理論、量化の理論など、様々な領域で提案が出ている。
アメリカ構造主義の意味論。語彙素の意味である意義素を、ちょうど音素弁別素性で規定するように、意味成分によって規定する。親族名称の分析はもっとも成功したと言われているが、何がもっとも原始的な要素かを確定する基準がなく、また関係性に特別な地位を与えず意味成分として扱ったため、相対的に意味が確定する語として成功しているとは言いがたい。しかし意味の体系を捉える理論としての端緒としての価値は重要であり、現在の意味分析でも何らかの形で採用されている。
厳密には統語論の一理論と見なすべきもの。標準理論の仮定「変換は意味を変えない」を強く解釈し、深層構造を唯一の意味表示として、それに適用される変換によってが導出された。量化語彙分解など重要なテーマを提起し、重要なデータを多く提示したが、次第に扱う領域が膨大になりすぎたこと、変換が無制限に立てられたこと、大局的制約という理論的負荷の大きい装置を持ち出したこと、論理学や心理学への還元主義的傾向が見られたことなど、様々な問題が生じていた。一般には解釈意味論が理論的に優位に立ったことで、失敗したプログラムと見なされることが多いが、1990年代の研究からイデオロギー的な問題から研究者が少なくなった、と見られている。ミニマリスト・プログラムの中では再評価する向きもある。

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君が生きる意味 人生を劇的に変えるフランクルの教え

5つ星のうち 2.0微妙

(参考になった人 6/10 人)

微妙だな、と思います。
気になったのは3点。
1.フランクリンの思想と現代の良識の矛盾
2.単純に下手な物語
3.所詮キャラクターの言葉遊び

内容は、「夜と霧」の思想を現代社会を舞台にした物語仕立てで
解説していくという本。
なので、フランクリンの教え自体はとても面白く読めますし、
「夜と霧」に興味があっても億劫な人にとっては良いでしょう。

が、現代の良識との矛盾を感じざるを得ませんでした。


ブラック企業から逃げるのは悪いことですか?
悪くないならその場で満たすべき創造価値の意味って?
と、疑問というか矛盾が目に付きます。

あと、物語風にして、飲み込み易くしてるのは良いのですが、
それがとても下手で辛いところ。
現代の苦しむ社会人のステレオタイプを描いてるんですけど、
リアリティがなさすぎて共感しづらい。共通するところがあるにも
かかわらず、共感できない。
これなら物語風にしなくて良かったんじゃないかなぁ。

最後に、やっぱり所詮空想のキャラクターだな、と思ってしまいました。
辛い時に空を見上げれば、辛さがなくなりますか?
朝日を浴びれば幸せになれますか?
両親に感謝すれば、満たされますか?
恋人を思い返せば頑張れますか?
ラジオ体操すれば元気になれる?

このキャラクターは何となくこんなことで元気になって、
色々クリアしていきますが、現実に苦しむ自分は
何一つ解決しません。

都合が良すぎます。
本当に、この本のキャラクターの様に辛い自分には
助けとなりませんでした。

この構成,どこかで読んだような・・・・思い出しました。『夢をかなえるゾウ』です。像の姿形をしたインドの神様ガネーシャ(何故かコテコテの関西弁)が出てくる自己啓発本ですね。構成としてはよく似てます。でも,『夢をかなえるゾウ』がキャリアアップをテーマとした本だったのに対して,こちらはメンタルをフォローするというのか,自分との正しい向き合い方を教えてくれる1冊です。
人生には,試練というにはあまりにも酷いと感じる時期が誰にもあります。さらに現代はストレス社会にして,競争社会,格差社会。「どうして自分ばっかりこんなひどい目に?」「一生懸命やったのに何で報われない?」「自分には生きていく価値がない」・・・・そう悲観的,絶望的に感じることもあるでしょう。


そんな辛い境地をどう受け入れ,人生の意味をどう考えるか――フランクル心理学の理論を,苦悩する青年と,コミカルな扮装ながら核心を突いた教えで諭すコロボックル族のオジサンの会話でわかりやすく説いています。
心理学というと,まず思い浮かべるのがフロイト。それに最近ではアドラー心理学が流行っていますが,その2人と同じく心理学の世界に偉大な足跡を残したと言われるフランクル心理学のヴィクトール・E・フランクル。人間がどうしてネガティブ思考にはまりやすく,そして一旦ネガティブになると,悪循環に陥りやすいのか。一方で,人間が清々しく前向きな気持ちでいられるのはどういう時なのか,びっくりするぐらい明瞭に解説しています。それもそのはず,フランクルは『夜と霧』の著者なんですね。学のない僕はあとがきで解説されるまで気づいていませんでしたが。
自分自身もメンタルで苦しんだ経験があるので,そんな時にこの1冊があったら,ひょっとしたらもっと早く立ち直れていたかもしれません。そんな意味で自己啓発というよりは,心の健康のために是非お薦めしたい1冊です。

「夜と霧」「意味への意志」だけしか読んだことのない完全なフランクル初心者が読んでみた
初心者のため、フランクルの教えがどれだけきちんと盛り込まれているのかは分からない
ただ、専門書ゆえか翻訳本ゆえか「意味への意志」を読んだときは理解できない部分が多々あったが、この本では文章的に理解できない部分はなかった
日本語で噛み砕かれた入門書だからであろう
読者側に生じる疑問点を先取りして主人公自身が文中で疑問を呈し、それについて小さなおじさんが答えるという形式も理解を助ける
物語形式で文章的に読ませる流れになっているのも初心者には良かった

小さなおじさんの繰り出すギャグには賛否両論あるだろうが、主人公も文中でつまらないと言い切っているし、それほど気にはならなかった
この本での理解を基に、他のフランクルの原著にも挑戦したいと思う

最後に、一般的にはフランクルの知名度はフロイト・アドラーに比べて高くない
フロイト・アドラーに続く第三の巨匠という点をもっとアピールすれば、この本ももっと売れるのでは?

あなたがここにいることの意味

理論理屈や成功法則を語りたがるスピリチュアル本の対局を行く、ハートで感じる熱い本です。 たくさんに散りばめられたショートエッセイの一つ一つに魂が込められ、血が通っているのを感じました。 心にストレートに入り込んでくる言葉に出会った時は、ドキドキしてきて、じっくり噛みしめる時間が欲しくなります。 この本を読んだ時の自分が置かれている状況や心の在りようによって、108篇ものエッセイの中から響いてくるものが、その時々により変わってくることでしょう。 あったかくて大らかな言葉たちにひとり、心を震わせたくなったら、何度でも手に取りたい本です。

1〜2ページにわたる短い文章が108篇収録されています。 ページごとに美しい色が差してあり、開くだけで華やかな気持ちになりました。 豊かに生きていくためにはこういうことをやっていくべき、というメソッドではなく、「どんな状態のあなたでもいい」という優しい視点から書かれた、地に足の着いた言葉に心を動かされました。 「今この不完全な私でもいい」と思わせてくれるような、そして、そこから踏み出す勇気も同時にもらえるような一冊。 自己肯定感について悩んだり、今のままの自分ではダメなんじゃないか…、という自分を抱えている人におすすめです。

著者の講座に参加して、価値観が変わったことがきっかけに生き方も変わったものです。 もし、こういう考え方の学校があれば、個々人がもっとゆるやかに、才能を発揮して、豊かな世界になるだろうな。 と感じます。 自分でいいんだという 肯定感を感じたり、なるほど人は悪いもんじゃないぞ。 っていう氣にさせてくれます。 わたしは、最近 パッと見開いたページを 開いて✨ビンゴなメッセージが来るという読み方しています。 何かに挑戦したいが、勇氣が出ない時。 ちょっとわけも分からず、動けない時。 重宝しています。

絶歌

5つ星のうち 5.0よかった

(参考になった人 88/162 人)

モト・エーさんへ

知り合いからきみが書いた本が出版されると聞いたときは、正直あまりいい気分にはならなかったな。昨日たまたま本屋に並んでいたのを見かけて、手に取って読み始めてみたけれど、最初は詩的な言い回しや文体が、どこか悦に入っているように感じてしまい、いくらか抵抗があった。事件の詳細はざっくりと読み、社会に出てからの生活について書かれた部分や、きみの好きな作家たちについて書かれたところを読んだ。それからあとがき(というか遺族への謝罪)を読んで、もう一度本文を読み直した。正直に言って、すごくよかった。

いや、そういう言い方は正しくないかもしれない。なんというか、『コックと泥棒、その妻と愛人』を観たときに似た気分になった。「え!これB級ホラーじゃないの?」みたいな。きみが弟たちと面会をしたときの話は、ぼくには他人ごとには思えなかった。あの本のなかで、いちばん好きなところ。ぼくはけっこうたくさんの本を読む方だと思う。少なくともここに酷評を書いている人たちよりかは真剣に本を読んでる。退屈な本も、素晴らしいと思える本もたくさん読んできた。それでも、泣いてしまった本に出会ったのはずいぶん久しぶりだった。ぼくにも弟たちがいて、そしてきみみたく後ろめたさを感じながら日々を過ごしている。仕事はまともと呼べるものではないし、友だちだって少ない。年齢だって微妙だし、なのに未来についてろくに考えてもいない。弟たちにとって立派な兄ではないんだろうな、そう思うこともある。でも、彼らはそんなぼくを非難することもなければ、馬鹿にしたりもしない。きっと、「お兄さんて何してるの?」って聞かれることもあるだろうけど、「ああ、まあなんとかがんばって生きてるよ」とでも笑って答えてくれているんだと思う。顔を合わせるときは、いつだってぼくのことを兄として(情けない兄としてかもしれないけど)昔と同じように接してくれている。そういうルール無視の愛情って、きっとそこまで多くないものなんだろうね。それを、再認識したよ。他にも、好きな作家について語るときのきみの文章は読んでいて気持ちがよかった。トニー滝谷はぼくも好きな短篇。あれは映画にもなってるよね。実をいえばあんまり覚えてないけど。個人的には、村上春樹の短篇では「午後の最後の芝生」がいちばん好きだな。特に何かが起こる訳でもないんだけど、でもやっぱり「何か」が起こってる。あの作品のことを考えると、いつも「なんだか大事なことを忘れている気がする」っていう気分になるね。三島由紀夫は、まだあんまり読めていない。自衛隊に入隊したときのエッセイは好きだな。やさしさが滲み出ていて。ふたりとも作品と作家自身に矛盾がないように思う。だから、ぼくは彼らの作品が好きだ。ぼくはあと、カポーティやアーヴィング、ニコルソン・ベイカーやニック・ホーンビィなんかも好きだ。最近はジェイムズ・クラムリーやボールドウィンにはまってる。すごくいい作家だよ。まだ読んでいないなら、ぜひ読んでみるといいよ。それでさ、ここのレビューだけど、すごいことになってるね。 作品を読んだうえで書いているのならまだ理解できる。つまらないと思う人はたくさんいておかしくないと思うし。ただ、一文字だって読みもせず、ネット掲示板かよって思うくらいに批判中傷罵り悪口。まるで自分が神さまか何かのように、制裁報復償印税っていう言葉が飛びかってる。ここまで心ない言葉を浴びせれるのかと笑ってしまう。それは仕方のないことなのかもしれないけど、彼らのような人たちも、子どもがいる人もいれば、いつかは子どもを持つ人たちなんだよね。他のところでも書いている人がいたけど、ほんと、影から二次元の石ころを投げつけているだけに思えてしまう。ぜったいに安全な場所から、心を抉るような言葉を豪速球で投げつけている。死ね!死ね!っていう感じで。彼らは自分たちの子どもに罪というものをどう教えるんだろう。「悪いことをしたやつがいたら、徹底的に痛めつけてやれよ。もちろん、影からな!」とでも言うのかな。問題となっているのは、罪の大きさなんだろうか? それとも本を出版したという行為の問題なんだろうか? きみの犯した罪は人生すべてを償いに捧げ、やりたいことはひとつとさえせずに死んだように生きなくてはいけないのだろうか? 「本を書くことなんて言語道断、ましてや読むことさえ許されない!普通の生活ができると思うな!」ほんとに? じゃあ誰かを好きになってもいけないの? 好きな人と映画を見たり、それについて話をしたりすることも? たまに料理を作ってあげるということも? ステーキのミディアムレアも? 安いハンバーグプレートも? ささやかな誕生日ケーキも? いちごが三つは贅沢なの? 晴れた日の散歩も? 寝る前の妄想も? 寝ているときの夢さえも? それらみんな、許されざることなの? ここに悪評を載せている人たちは、本気でそんなことを考えているようにぼくは思う。それはそれでひとつの考えなのかもしれないけど、ぼくはまったくそうは思えない。いい人を演じようなんていう気はまったくなくて、ただ、きみの書いたものを読んで、ぼくはきみに生きてほしいと思った。言葉を綴ってほしいと思った。事件に関してのことははっきり言って聞きたくも読みたくないけども、小説なり詩なりを読んでみたい。それできみがいくら稼ごうがどうでもいい(ドイツ車を乗り回してたりはいやだけど)。ひとりの読者として、きみが書いたものを読んでみたい。そう感じたということを、きみに伝えたいと思った。そう思っている人がここに少なくともひとりはいるんだぜってことを、どういう形でもいいから知ってほしかった。きっとたくさんいると思う。だからこれからもたくさん本を読んで、コーヒーも飲んで、おっぱいのことも想像して、やさしさを保ったまま、文章を書いてください。

追記ーーー

他の方の書き込みを読まさせてもらいました。たぶん自分のことだと思ったものがあったので、ここに書き込まさせていただきます。その方のお気持ちは察します。気持ち悪いですか。はあ。そうですか。気分を害してしまい申し訳ないと思います。出版する必要があったか?と何度もおっしゃっていますが、ないと思います。多くの小説やエッセイ、というかほぼ全ての本は誰かが「必要」としているから出版するのではないとぼくは思います。出版後に、「必要か否か」は問われることはあると思いますが、その社会的な判断というのはまだ先のことではないでしょうか。個人的な意見としては「必要」です。今は、99%の人にとって必要ではないのかもしれません。でも、1%の人間は必要としています。それでいいじゃないですか。これだけ否定的な意見で溢れているのだから、わざわざ1%に攻撃しなくても。だって、ほとんどの人が忘れていたじゃないですか。この事件のことを忘れていなかったのは、被害者の方たちと、彼だけです。彼が本を出し、マスコミが騒いで話題になり、思い出して火がつき、大勢の人が「不謹慎だ!」「遺族のことを何も考えていない!」と騒いでいます。そういう考えを持つのは自由です。発言に規制がないことはいいことだと思います。ですが、彼の本を読んで率直な感想を述べることも、同等に自由であっていいのではないでしょうか。彼の本に賛辞の言葉をかけることも、また読みたいと思うことも、それは個人の自由だとぼくは思います。そして、この本を肯定的に捉える人たちを生理的に受け付けないのと同じで、ぼくもそういった「影から石を投げる正義の味方」が大嫌いなのです。単に「いい本だな」と思うだけだったら悪口の嵐にわざわざ飛び込み、書き込みをしません。ひどい言葉を浴びるのは苦手です。あなたのコメントを読んだときでさえ、ちょっと足が震えましたし、今だって、文字を打つ指が震えています。ぼくは決して、彼の犯した罪に対して賛辞を贈っているわけでありません。一冊の本として「読んでよかった」と思い、優れた本を書いた作者に個人的な感想を述べただけです。純潔で立派で、社会的地位が高い人であっても、つまらない本だと感じたら「つまらない」と言ってしまいます。この本は、単純にいい本だったのです。素直にそう思った人たちが、人格を交えて非難されるのはおかしい。たとえ「優れた本」を書いた作者が罪を背負っていてもです。自分と違う意見は認めないというのは、いささか傲慢とも思えます。少数派には少数派の、それなりの考えというものがあります。好評価を付けることが、他人事として考えていることに結びつくというのが、よく理解できませんでした。他人事として考えている人たちというのは、付けた評価が高いか低いではなく、広い視野を持たず、想像力も働かせず、蔓延した不確かな情報と沸騰した湯のような感情のみで、ひどい言葉をぶつけたり、無責任な発言をすることではないでしょうか。たしかに、ぼくが彼に対して言葉をかけることは、少なからず被害者の方たちを傷つけてしまうかもしれません。もし、黙っていることで死者が蘇るのであれば迷わずそうします。彼に対しての一万の中傷が命を救うのであれば、力を込めて非難の言葉を書き込む。けれど、中傷と沈黙で生まれるのは、今では作者が死ぬ可能性だけです。そのことは、想像することができると思います。もし彼が死ぬことを望むのであれば、素直にそう書けばいい。彼が生きているのがいやならば、それなりの行動をとればいい。そういうこともせず、安全な場所から、遠回しに、間接的に、決して自分の責任にはなりえないような言葉で、彼を「抹殺」しようとしている。大多数のそういった人たちの行為が、ぼくは気に食わないのです。言葉は、想像以上の暴力になりえます。けれども、ときには救いにもなることもあります。だとするならば、ぼくは彼の命を救いたい。ひとりの友だちとして、これから先の彼の未来にそっと手を貸してやりたいと思いました。これまでぼくが読書から得てきたものの多くは、間違いなく後者です。彼の書いた本に「暴力」はありません。過激な箇所はありますし、読んでいて気分が悪くなるような箇所は散らばっています。けれど、本当に不思議なぐらい、とてもやさしい文章なんです。仮に国民すべてが彼を非難したとしたら、それこそ恐ろしい世の中です。はっきり言って、気違い沙汰です。そういう社会が素晴らしいとはまったく思えない。沸騰したやかんがお湯をぶちまけようとしている街のなかなんて、怖くて歩けやしない。それに、この先、未成年者たちが誰ひとりとして犯罪を起こさないとは言いきれない。そうであればと望みますが、1936年以降の統計を見る限り、未成年者の殺人が0だったという年はありません。近年では毎年80人近くの未成年者が殺人という罪を犯しています。少年法に関してはよく分かりません。ただぼくが思うのは、罪を犯してしまった人の中には深く反省し、更生し、良心を持つことができた人もいるのではないか、ということです。著者はそのひとりだと思っています。そして彼の本は、いずれ生まれてくるかもしれない「非難の対象者」、あるいはその可能性を持つ子どもたちにとって、救いの本となる可能性があると思っています。それだけではなく、孤独で、生きる意味や理由もよくわからず、ただ怒りだけが溜まり、どのように処理していいかわからない「多感」な人たちにとっても、ヒントになる一冊だと思います。そればかりは、分かる人にしか分かりません。分からない人にとっては、一生分からないことだと思います。すべての本には問いかけがあります。本が問いかけてくる場合もあるし、ぼくらが問いかける場合もある。そのピントがうまく合わない本は、うまく理解できないものです。本を読もうとしない人たちは、理解しようとする意思すらない。まあ、それはそれでいいのです。必要としていないのだから。ただ、身勝手な言葉の暴力は慎むべきです。率直に、ぼくは彼の本を読み、やさしい人間であろうと誓いました。ひたむきに、不平をもらさず、誰に対してもやさしい人間であろう、そう思いました。彼が信頼を裏切ったと判断するのにはまだ早すぎます。もう少し、様子を見ましょうよ。お金をどう使うのか、それに関しては何が正しいなどと言う立場にいません。それは日本の法律と個人の良識に従うしかないはずです。ただ、こうは言いきることができます。彼はこれからも罪を背負い、人の目を気にし、街ですれ違うすべての他人に恐怖を感じながら生きていくのです。行動にも細心の注意を払い、遺族の方たちを傷つけないよう息を止める覚悟で生きていきます。この本で得たお金が私利私欲のために使われるということを、ぼくは想像することができない。彼は作家になることを志したわけでもなければ、それを職業として生計を立てていこうと考えたわけではありません。断言できます。彼にとって文章を書くことは「生活」のための手段ではなく、「生きる」ために不可欠だったからです。本を書くことと、出版することはイコールではありません。彼が文章を綴ったのは、そこにしか居場所がなかったからです。そういう稀な人間というのがごくたまにいます。言葉の持つ美しさや力強さ、あるいはやさしさに惹かれ、自分だけのジグソーパズルを組み立てることだけが生きる希望となる人です。彼はたまたまそうだった。そして、たまたま罪を背負っていた。それだけです。繰り返しますが、彼は作家となって儲けようなどとはこれっぽっちも考えていない。元犯罪者が手記を出した、つまり金を稼ぐために本を出した、そういう安易で浅薄な考えは退屈です。なんのひねりもない、ユーモアの欠如した小学生以下の回答です。

また「気持ち悪い」と思われるかもしれませんが、ぼくは彼の本を読んで、彼という人間に好感を持ちました。もっと正直に言えば、今では彼のことを、ひとりの友だちだと思っています。ぼくが書き込みをする理由は、はっきりと言ってしまえばそれだけです。法律もルールも、正直もうどうでもいい。友だちがひどい言葉を浴びているのに、無視はできない。これはこの前読んだ「ノリーの終わらない物語」の影響です。いい本だったな。つまり、理屈もへったくれもないです。「むかつくから」のひと言に尽きます。今でも被害者の家族が苦しんでいることは、理解しています。けれども彼だって、ぼくらなんかよりもはるかに多くの時間そのことについて考えているだろうし、実際、彼は毎年被害者家族に手紙を書くとき、仕事のとき以外は家から出ず、淳君のお父さんと彩花さんのお母さんが書いた本を読み、過去に撮り溜めた事件に関するドキュメントを繰り返し視聴し、被害者のことだけしか考えない日々を三ヶ月続けるといいます。死刑になる夢を見て、眠るのが怖くなり、食欲を無くし、吐くこともある。手紙を出し終えてからはメディアから出る被害者家族の反応を彼は待つ。彼はこう言っています。「自分のしたことを、自分が生きていることを、遺族の方が決して許してくれた訳ではないのは重々わかっている。ほんの一言二言であっても、肯定的な言葉をメディアを通じて正式に発表することが、遺族の方達からしてみればどえほど辛く、苦しく、勇気のいることか、それを思うと、僕はただただ頭を下げざるを得ない」と。もちろん、被害者家族の辛さは彼のそれ以上だと思います。けれど、孤独ではない。見えない何かに怯えて暮らすということも、少ないと思います。彼の罪が消えるということはこの先ありません。ですが、ひっそりと死んだように暮らし、恐怖に怯えながら生活をする彼の側に立つことは、許されてもいいことだとぼくは思います。ぼくはそうしたい。彼に声をかけてやりたい。「コーヒーでも飲みに行こうぜ」って誘ってやりたい。おいしいコロッケでも食べながら、好きな本や映画、音楽や色々なことについて話したい。それがぼくのひとつのちょっとした希望です。純粋に彼の楽しみになるのであれば、それはぼくの楽しみにもなります。それも「悪」だと罵られるのでしょうか。まあいいか。

発売当時にレビューを書きましたが、理由もわからず削除されたため再度投稿しました

普遍的であったり、何てことない日常を幻想に昇華する試みであったり
そういった独り善がりでどうしようもない無邪気な心情を小説にするなど、素人が描き出す作品の中でも
目を見張るものは数多く存在する、実際に自分も書いたし、物凄く手ごたえを感じましたが
この絶歌は正直つまらなかったです、展開であったり情景が手に取るように読めてしまうからです
例えば少年Aが実在する人物ではなく、架空の人物だったとしても、読み物として単純につまらないです
実体験を文字に起こすだけなら、純粋無垢な小中学生でもできます、同じ土俵で語る事すら汚らわしいですが
これをマイノリティの心情だとか、あるいはインスピレーションを与える代物みたいな扱いを受けているとすれば
それは大いに履き違えていると強調したい、少年Aは複雑な家庭環境や教育制度といったトラウマに埋没した、単なる恵まれない人間の一人に過ぎない(あえて厳しく言わせてもらう)仮に彼がモンスターだったとしても、相当レア度は低そうです(ポケモンじゃねーんだよ)いわばくすぶった不良みたいなもので、そこに価値を見出すかどうかは、まあ個人の勝手なのかもしれないけど、例えば自分も機能不全の家庭に生まれ、父親から精神的虐待を受け、ゆ●り世代と呼ばれ、挫折を経験し一時は自閉症まで疑われ通院もしていたので、トラウマに埋没しているという点については少年Aと共通している部分だと思うが、厳密に言うと自分にも先天性の疾患があり、まるで自分の生き写しのような、このデリカシーの欠片も感じられない男(少年A)には心底腹が立つのです、しかも彼が描き出しているものは陳腐で滑稽だ、既存概念の打破や破壊、自己否定、自ら犯した過ちの考察など、そんなものは誰だって時間さえあれば書けるのです、僕は掃いて捨てるほどの、恵まれない、報われないと嘆く少年少女達の作品を趣味で見てきました、ただ、それを赤裸々に語られたところで、芸術的価値を見出そうとは思わない、子供のお絵かきに値段をつけるような事はしたくないのです、人としてどうかと思う、僕はそれをただただ肯定するだけなのです、誰にだって才能を開花させるチャンスがあり、裏を返せば既にサイコパスの資質をも持ち合わせているという事なのです、問題は自由と自分勝手を履き違えないモラルにあるのです、結論として、この「絶歌」は残念です、周囲が残念にしてしまった、というのが適切かもしれない、中二病こじらせ日記だと思います、金の為なら恥すら捨てる出版社には虫唾が走ります、僕はこれを肯定する理由が見つからない、見いだせない。


1997年~から、全く成長していない彼の生き様には心底ガッカリさせられる、湯水のような時間を割き、自分自身と真剣に向き合った結果がこれだとすれば「2015年にもなってこの程度か」というのが本音だ、彼はサイコパスでも何でもない、単なる本能赴くまま生き長らえている惨めな人間じゃないか。
ツタヤで買いましたが、正直言って金返してほしい、少年Aよ、太●出版よ、君らは本当の狂人を知ってか知らずか・・・世間知らずにも程がある、こんな戯言ばかりの駄文を量産する暇があったら星の数でも数えてた方がよっぽど有意義だと思わんかね?(これは僕の思い上がりで恐縮ですが、僕が2~3年前に某サイトに残した詩の断片を彷彿とさせる表現には思わず失笑してしまったよ、本当にオリジナルなのかな~これ)
このクソガキ(自分より年上なのに)は自分に足りないものや、実態を持たないもの、例えば、愛や真実などを追求する事の難しさを知らないのだろう、壁にぶつかった事がないのだろう、先天性という言葉で誤魔化し嘘で塗り固めたような卑劣な人間であり、真実を放棄したまがい物ですね、何度だって言いますがこんなものに価値はないです。
彼が手を下した少女は真実を彩っていたと思います。
少年Aよ、酒鬼くんよ、野生のポケモンよ!僕は純粋だし失うものがないから、全てを語ってしまいがちだが、他人の痛みは分かる、大切な人が陰で流す涙の尊さだって身に染みて分かる、大局を意識している、年に2回ボーナス貰ってサラリーマンもしている、けど、アンタは表現者でも何でもない売れ残りみたいな存在という事を自覚したほうがいいよ・・・時代が証明してくれるかもしれない・・・そんな八方塞がりな君に出来る事と言えば、せいぜいデスクトップ越しから世間に喧嘩を売る事くらいなのだろう、思考がありふれてんのさ、あの世で「他人の痛み」を教えてやってもいい、彼が「優しい」だなんてレビューもある、どこがさ・・・履き違えているよね、惨めな現実と対峙しながら夢すら語れない、何も肯定できない、する資格のない引きこもりが軽々しく「優しさ」を語ってはいけないと思うよ、それを矛盾っていうんだからさ。
まがい物は言えば言うほど恥になるだけ、簡単に分かるんだね・・・アナタ達さ、ファッション感覚で出しゃばりすぎなんだよ。
盲目な人達がただただ気の毒でならない、まあ、時間の浪費が趣味という人もいるからしょうがないけど、僕をあんまり怒らせないほうがいいよ、フェードアウトしてほしい、それが世の願いでもあるからね。
そんなに現実が苦痛なら、自分が裁判員候補者に名乗り出て楽にしてやってもいいんだよ
そして、アンタが吊られた後に、こう言うのさ「彼は僕だったのかもしれない・・・」
・・・感動的だろ?やろうよ^^前向きに検討して頂きたい、平成最後とか言って風化させる気もないし、気付いてしまったからね。
>>そして彼の本は、いずれ生まれてくるかもしれない「非難の対象者」、あるいはその可能性を持つ子どもたちにとって、救いの本となる可能性があると思っています。
なるのかな?僕はならなかったです、何故ならユーモアを微塵も感じられず筆者の世間知らずがただただ身に染みるからです、何度も言わすな、お前らは目の前で嘆き悲しむ人1人励ました事すらないだろう、見え見えなんだよ。
自分を完璧だと思っていた驕り、他人の生き血を啜り、一歩も退けない(大人げない)、エゴイスト共
このポケモンは、こんな本を出版しているのだから認めているようなものだ、彼は進化もできずに30代でしょう?
被害者面するなと言いたい、むしろ被害者はこっちの方だ、これが平成最後の警告だと思った方がいい、ワ●ブックスさん辺りで少年A-神戸連続児童殺傷事件-解体新書-でも出すんだ、実は少女は生存しており病気の治療費を捻出するための自作自演でした、とか何とか言えばいい、小説みたいな回りくどい方法は誰も望んでいない、それが真実であろうがなかろうが、世の中の人は皆時間がなくて分厚い本なんか興味ないの、ただ、それを読ませるのが表現者としての責務(仕事)ではあると思う(そういう意味で村上春樹氏や三島由紀夫氏は天才なのでしょう)オリンピックですよ、腰抜け政府の汚名返上はこれしかない、とにかく日本国民全員に「ごめんなさい」するんだ、そうする事で僕は幻のように消える事ができる、このレビューも、見返りなんか求めていない、惨めな現実をエンジョイし続けるだけです、ボランティアもしますよ(勿論フルタイム)皆の意思がそうさせるだろう、時間は限られており地獄は迫ってくる、メキシコを見てごらん、あの国は死体になっても労働を強いられている。
欠落した感情を補うのは自己を正当化するくだらない本の切れ端や不可解な文字の羅列ではない、取り巻く連中もだ、ホームラン級の馬鹿共、お正月返上で勤めていただきたい、3億円事件の犯人よりもこっちが先だろう。

H30/12/16
この事件を解決済みだと主張する方と出会いましたが、僕はそう思いません
何故ならこの忌々しい事件は未だ間接的に多くの被害者を出し続けていると思うからです。
統合失調症でもありませんよ、まあ、その資質はあるのかもしれません、既にノイローゼですし、腑に落ちない事件が多すぎますからね。
今更隠し事をしたって、時代はいずれ全てを明瞭にしてしまうのだから、微妙な利害関係に気を配る必要もないと思いますよ
僕は悪人のまま逝きたくはない、地獄を味わいたくない、自分だけが背負おうとすればするほど
それは運命共同体というもので、迷惑がかかるわけです、全員に降り注ぐような気がする、僕はそれを伝えているだけです、一銭の金にもならない善意でやってる。
脅しではなく摂理の話ということをご理解いただきたい。

H31/01/01
感情の欠落した、道化にもなれない、ただただ血の香り漂う、責任を放棄した非常識な人間
そこにある「面白さ」「興味深さ」などを追求して何の意味があるのか、僕にはわかりません
これは自制と自由を履き違えた愚行でありエゴです、多数派に群がるのも大概だが、少数派の誇張表現も同じようなものだ、こういった輩が心の豊かさを奪い、全てを短絡的にし、勧善懲悪と己の安っぽさを振りかざす、価値のない人間になっていくという事を知るべきだ、つまり子供のするイジメや駄々っ子と一緒なのですよこれは、こんなものが認められるわけがない。
遠まわしに、純粋な若者や障害を抱えつつも社会に順応しようと努力している人達を、馬鹿にしているとしか思えないんですよ。
「絶歌」この安易なタイトルも邪魔くさいな「後悔しかない人生」とでも表記するべきだ、僕は絶対に許さない。

全部読みました。個人的に私はこの本を面白い(興味深いという意味で)と思いました。ただメチャクチャってわけではないので☆4くらいかと。

しかしレビューを見て驚きました。☆1が多いこと。ただこの☆1レビューのほとんどはあてにならないものと思ったので私もレビューをします。

・まずあてにならないと思った理由について
私は本は面白さを求めて読むものだと思います。だから私にとって彼が反省しているかどうかは関係ありません。反省しているかどうかを確かめるために読むのも人それぞれの読み方でしょうけど「本を出すなんて反省してない」などは論外でしょう。

読んでから言う感想ではありません。また、なぜそこまで顔写真と実名と住所にこだわるのか。顔写真と実名はまあいるかもしれませんが住所を自分の著書に公開している人を私は見たことがありません。せいぜい県くらいですね、漫画家ですけど。それにそんなことをしても自分が余計に苦しくなり周りも気分が悪くなるだけです。誰も得しません。自分で自分をわざと苦しめ、さらに周りをも不幸にすることがあなた方にとっての贖罪なのでしょうか。また少年法の管理下からは彼自ら逃げました。出所後も国からしばらくは管理されたそうですがこれではいけないと思ったとのこと。

少なくとも私は彼が反省していないとあの文章では読み取れませんでした。彼は後悔していると述べています。これが本心かどうかは本では分かりかねるかと。彼の言うことを信じるしかないでしょう。「なぜ人を殺してはいけないか」という有名な問に対し彼なりの答えも出していました。

・本の内容について
このレビューを書きたいと思った動機は他のレビューがあまりにもあてにならないと考えたことです。なのでこの部分は弱いかもしれません。☆4てのもなんとなくですし。

なぜ彼があんな事件を起こしたかが気になって読みました。youtubeで偶然知った事件で「二人の子供を殺し一人目の首を切り取り校門の前に飾り挑戦状のようなものを添えた」とききました。時系列はおぼろげで二人目を殺した後に挑戦に臨んだのかは定かではありません。殺した理由も謎だったし、なぜそんな自分で自分を苦しめるようなことをしたのか。実際これが理由で捕まっています。また警察は何をしていたのだろう?2人目は止めれたのでは?周りは気づかなかったのか?などの疑問もありました。これらの疑問のだいたいにはこの本は答えられてるかと。ただ警察が気付けなかったのは特に理由はなかったですね。彼もそれで調子に乗って挑戦に到ったそうです。あと家族にはちゃんと愛されていました。事件後も家族は彼のことを応援しています。なぜそんな環境にいて罪を犯してしまったのかというところも見どころでしょう。

さらに、本を出した理由についても述べてます。追い込まれた末に出した結論が本を書くことだったそうです。追い込まれたのはお金ではありません。これは彼が反省しているからこそ起こるものだと思います。それに彼は物欲がなくお金はすぐ貯まったそうです。仕事場にいづらくなっては仕事を辞め、貯まったお金でやり過ごしお金が尽きたらまた働くを繰り返してるとか。仕事場にいづらくなる理由も彼が反省してるからこそのものだと私は思いました。

こんなところでしょうか。また、最後の方で彼は反省していても許されることは決してないことを認めてました。反省してるのは結構なことだが償えると思っているのであればそれは傲慢だという被害者のご家族の方が仰っていたこと述べていて、それを認めていたからです。ただこれに対して「厳しい現実」と綴っていたような、もしそうだったらそれは心構えとしては間違えでしょう。

彼がこれからどう生きるべきかはちゃんとわかっているでしょうし事件に無関係な私に言う権利はありません。ただこのレビューはあなたを肯定するものではありません。このレビューを読んだ方全員に申し上げます。勘違いはしないでください。

それでも人生にイエスと言う

5つ星のうち 5.0失われた時を求めて。

(参考になった人 0/0 人)

この本を読んでいたとき、私は当時自分が受けていたものが虐待であるとは知らなかった。
だから、大学の授業で虐待について先生が話していたとき、他人事であった。
当然、ニュース番組で虐待による事件が報道されるのを見て、何も感じずにいた。
「お前の人生をめちゃくちゃにしてやる。」と言われ、十年近く虐待を受けた。
私は様々なストレスにより、精神疾患の一種である躁うつ病になった。
メンタルクリニックに通っている中で、
自分の過去に受けたものの一部は虐待であることを知った。


当時私は今まで周りに原因があると感じていた。
そんなことを考えていた私は二重の意味で引きこもりだった。
「ニート」、「フリーター」という言葉が流行したが、私もその一人だった。
また、自分の殻に閉じこもっていた。人は信頼できないと感じていた。
そして、当時自分が嫌いだと感じていた。
今も病院に通院していて、
これからも私は「こころの傷」を完全になくすことは出来ないかもしれない。
タイトル「それでも人生にイエスと言う」。
このタイトルの意味が最近になって少し理解できるようになった。
私自身のこの大変だった人生経験を活かして、生きていたいと思うようになった。
そう思うようになるまでには、長い月日が経過した。
「PTSD」、別名「心的外傷後ストレス」は有名だ。
「PTG」、別名「心的外傷後成長」。
フランクルは過酷な環境を生き延びた経験を元に本書を書いた。
彼の人生は私の人生とは比べものにならないくらい大変だっただろう。
本書にはこの経験を話すこと自体つらいことだが、伝えたいと書いてあった。
私は以前「こころの傷」によって、失われた時を求め続けた。
私はある意味運がよかったのかもしれない。
人生をある程度肯定し、成長できたのだから。
そして、この大変だった人生を社会のために活かそうと考えることができたのは幸運だ。
精神疾患を患っている人は「逃げている。」と非難されやすいことを知っている。
私も何度も周りから言われてきた。
だからこそ、私はアドバイスはできないと思う。
最後に本書の内容は、一読で理解できる本ではない。
内容もほとんど忘れてしまった。よって、本書について、詳しくは語れない。
しかし、フランクルの「夜と霧」や本書などのたくさんの書籍は自分の人生の財産となった。
読んでよかったと思った。

フランクルと言えば、ナチス強制収容所の体験をつぶさに記録した『夜と霧』で知られる精神医学者である。本書は、現場の医師として経験したさまざまな出来事を踏まえ、壮絶な収容所体験に基いて語る人生論。いわば『夜と霧』の続編とでも言えようか。

現代は、生きる意味や人生の価値を見失いがちな時代である。そのため快楽の追求に身を委ねる人も多いが、フランクルによればそういうのは誤り。「私は人生に何を期待できるか」ではなく、「人生は私に何を期待しているのか」を問うべきなのだ。日々の生活の中で経験する具体的なこと、たとえば重い病気で苦しんでいるあなたが、今ここにおいてどう行動すべきか。

人生のほうから問いを突きつけてくる。あなたはそれに応答しなくてはならない。意味や価値はそこに発生するのである。

死と背中合わせの環境を生き延びたフランクルの言葉には、机上の空論ばかり語る職業的哲学者にない説得力がある。自分のポケットからお金を出して囚人に薬を調達していたナチス親衛隊員の話や、自分の死期を悟った患者が医師の安眠を妨げないよう気配りする話など、本書には真実だけがもつ重みがある。自分の生きる意味がわからず迷っている人には、ぜひ一読をお勧めする次第である。きっと得るものがあるだろう。

この本は 私の通っている キリスト教会の、牧師さんに、勧められたものです。「聖書以外で『この一冊は!』という本は、何ですか?」と、お尋ねしたところ、この本を勧めて下さったんです。最初は難解さに(言葉は平易なんです。しかし、内容が重いです)泣きながら読んだんです。どうしても、読破せねば!トこのカスタマーレビューの、気に入ったものを、ノートに写していったんです。すると!2回目は、すんなり理解が出来ました。内容は、言わずもがな、解説が 秀逸です。解説のおかげで、人生58年培ったものがガラリと 崩れ コペルニクス的変化を、してしまいました。まさに 牧師さんと、同じくわたしの「この一冊!」になってしまいました。天国までも、持っていきたい本です。

意味論』の解説 by はてなキーワード

【semantics】 「セマンティクス?

  1. 意味を言語学的に解釈すること≪言語学
  2. 意味を数学的に解釈すること。≪数理論理学

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