岩波新書のまとめ情報

岩波新書』の解説

岩波新書(いわなみしんしょ)は、1938年(昭和13年)11月20日岩波書店が創刊した新書シリーズである。

概要

古典を中心とした岩波文庫に対し、書き下ろし作品による一般啓蒙書を廉価で提供することを目的に創刊され、新書と呼ばれる出版形態の創始となった。

第二次世界大戦後、いわゆる新書という出版形態が定着するに伴い、1962年(昭和37年)に創刊された中公新書1964年(昭和39年)に創刊された講談社現代新書とともに教養新書御三家新書の御三家とも称された。海外で岩波新書に対比されるのは、フランス文庫クセジュ、イギリスのペンギンブックスドイツローヴォルト百科全書がある。広く時代が必要としている啓蒙をコンパクトなサイズと適任の実力執筆者が提供することにより、岩波文庫と並ぶ岩波書店の公共的資産となっている。

サイズは縦173mm、横105mmである。縦・横の長さの比率は(1:1.6476)であり、黄金比(1:1.6180)に近い値になっている。

赤版として創刊

創刊の作業は、当時の編集部の吉野源三郎が担当し、吉野が目にしたイギリスペーパーバックであるペリカン・ブックスを参考に判型が決められた。装幀は吉野の依頼を受け、美学者美術史学者である児島喜久雄が担当。2006年(平成18年)まで長く用いられた表紙のランプや、部分の四隅でを吹きかけあうギリシャ神話風神を描いた。また創刊当初の表紙の色を赤一色にしたのは岩波茂雄の指示による。

この赤版は戦争による一時中断を経て、101点刊行された。

岩波新書創刊第一冊目は、矢内原忠雄リンカーンエレミヤ日蓮新渡戸稲造などの伝記を『余の尊敬する人物』と題して構想しており、岩波の了解も得ての予定だったが急遽変更となり、1938年(昭和13年)赤版1、2の上・下二冊としてクリスチーの『奉天三十年』(上・下)を翻訳で発刊した。発刊の辞は「今茲に現代人の現代的教養を目的として岩波新書を刊行する」としている。

1944年、苛烈な戦時下にあって、岩波新書は刊行点数98点を以て中絶のやむなきにいたり、超えて1946年、3点を発行したのを最後に赤版新書は終結した、装いを新たに表紙を青(いわゆる青版)に変更した。この青版は、「国民大衆に自立的精神の糧を提供すること」を願って再出発するという意味合いが込められている。

この叢書の果たすべき課題として、「世界の民衆的文化の伝統を継承し、科学的にしてかつ批判的な精神を鍛えること」「科学的な文化のくびれを投げ捨てるとともに、日本の進歩的文化遺産を蘇らせて国民的誇りを取りもどすこと」「在来の独善的装飾的教養を洗いおとし、民衆の生活と結びついた新鮮な文化を建設すること」の三つを設定している。

1950年代までは、小説作品が収められることもあった。(横光利一『薔薇』(赤版)、趙樹理『結婚登記』(青版)など)

1960年代まではひもしおりが貼付されていたが、岩波文庫と同様に、1970年代からは紙しおりのはさみこみ(片面が新刊案内になっている)に変えられた。

黄版への転換

1977年(昭和52年)4月に青版の刊行が1,000点を越え、岩波新書創立40周年を迎えるのを機に黄色に改められた(黄版)。時代の様相は「戦争直後とは全く一変し、国際的にも国内的にも大きな発展を遂げながらも、同時に混迷の度を深めて転換の時代」を迎えていた。日本は「アジア民族の信を得ないばかりか、近年にいたって再び独善偏狭に傾くおそれ」の方向に向かいつつある。三たび装を改めたのは、「新世紀につながる時代に対応する」ことを願ってのことである。

1982年(昭和57年)からの新刊・重版は、赤版・青版も含めてカバーがかけられるようになり、今までの表紙・裏表紙の装丁はカバーに引き継がれた。

新赤版へ

1988年(昭和63年)1月に、岩波新書創刊50年・総刊総数1,500点をもって新赤版に改められた。1990年代中盤までは新赤版の裏カバーは赤地一色であったが、この頃裏カバーのデザインが白地に変更され、中心には赤い線でナンテンのマークが描かれるようになった。また、これまで細字だった書名と著書名が太字に改められた。

新赤版リニューアル

2006年(平成18年)3月で新赤版の刊行が1,000点を迎え、同年4月の1,001点目の刊行となった柄谷行人世界共和国へ』から、装幀がリニューアルされた。書名と著書名を横書きから縦書きに改め、右上に風神Notusをあしらい、左下に「岩波新書 数字で何点目」、つや消しにするなど、長く用いられた児島喜久雄のデザインが改められ、「21世紀の教養新書」として新たに出発することとなった。キャッチコピーは「変わりますが、変わりません」だった。この時、裏カバーのバーコード、ISBNコード、定価の下にランプのマークが描かれるようになった。

分類

岩波新書の赤版(初代)、青版、黄版、新赤版の4種類の分類は以下の通りである。

赤版(初代)

以下、発行部数順に記す。発行部数は1997年8月時点のものを使用した。

ほか

青版

ほか

黄版

ほか

新赤版

以下、発行部数順に記す。

他の新書レーベル

  • 岩波ジュニア新書 - 岩波新書のジュニア版として1979年に発足。中学生・高校生を主な読者対象としているが、啓蒙書として一般人でも読めるものが多い。
  • 岩波アクティブ新書 - 「新鮮で確かな情報をコンパクトに提供」する目的で、2002年1月に創刊されたが、2004年12月に終刊になった。

岩波新書』に 関連する人気アイテム

原民喜 死と愛と孤独の肖像

失礼ながら、原民喜さんの作品はおろか、お名前すら存じ上げておりませんでした。あの「狂うひと」の著者・梯久美子さんが書かれたものなので、興味を覚えて本書を手にしました。
正直、ここまでナイーブ過ぎて生きていくのもやっと、というタイプの人は、理解し難い部分もあるのですが、友人や伴侶に恵まれていたということは、直接付き合ってみないとわからない良さがある人だったのでしょう。
少年時代に父と姉を病気で失い、まだ若かった妻にも病気で先立たれますが、「愛するものがみな死者になってしまった原にとって、死は悲しくはあるが忌むべきものはなく」「病みついてから死までの日々を見守ることができた」。


そんな原さんが、妻の死後、戻った広島の実家で原爆に遭います。頑丈な実家の、トイレに入っていたことで、自身は奇跡的に怪我らしい怪我もせずにすみますが、町の惨状を目の当たりにし、「このやうに慌しい無造作な死が、『死』と云へるだらうか」。そして書かれた作品が「夏の花」なのだそうです。
作家の竹西寛子さんという方が、「被爆した広島を言う言葉」と「被爆した広島が言わせる言葉」を自分は区別しているが、「夏の花」は「広島が言わせた言葉の原典としての重みをもつ」と評されているそうです。

もちろん、原さんの作品は被爆や戦争体験のものばかりではなく、そこだけをクローズアップするのも不適当かと思いますが、広島の原爆の日を1週間後に控えたこの時期に、原民喜さんという方を知ったのも、何かのご縁かと感じました。

著者の梯久美子氏は、私が今、もっとも注目しているライターのひとりである。とにかく、氏の堅実でウソのない仕事ぶりが大好きだ。ハズレはほぼない。だから、本書も書店で見かけて、内容を確認することもなく、速攻で買ってしまったわけだが、読み終えてみて、まったく後悔はなかった。それどころか、また氏にやられてしまったという感じだ。
氏が本書で取り上げているのは、原爆詩人として名高い原民喜。だが、私自身もまったく知らなかったが、この人は「原爆詩人」から容易にイメージされる社会派・行動派とは真逆の「コミュニケーション障害」だった。

しかも、いくつになっても、人とまともに挨拶すらできなかったというのだから、相当に重度の障害者だったと言える。加えて、個人的にビックリさせられたのは、『幼年画』や『死と夢』などという初期に書かれた作品の幻想性と不気味さ。本書で断片的に引用されているが、まるで水木しげるか楳図かずおが描いたホラーマンガを髣髴とさせてくれるのだ。
いったい、そんな人物がいかなる経緯で、原爆をまんま取り上げて、自身の名を後世に残した『夏の花』を書くまでに至ったのか。梯久美子氏は、まるでミステリーの謎解きのように、原民喜の実像に迫っている。本書は新書ながら、原民喜を読むための格好のガイドブックだと思える。もちろん、すでに原民喜ファンの方にもお勧めできる。

5つ星のうち 5.0取材力

(参考になった人 3/3 人)

広島にいたことがあり、「夏の花」に打ちのめされました。 ゆえに、文学者の生きざまの追求に強力な取材力と練達の筆で迫る梯久美子さんが、いかなる文を読ませてくれるか、楽しみにしておりました。 まだ読了はしていませんが、原民喜氏にかかる作品、文章をすべて当たったと思われる綿密、膨大な取材に、ため息をつきながらページを繰っています。

戦国大名と分国法

「分国法」といえば、多分ほとんどの方が教科書で目にした記憶があるだろう。しかし、歴史ファン、戦国ファンでも分国法について詳しく踏み込んで知ろうという人は少ないのではないだろうか。法律というと、どうにも難解でつまらない印象があり敬遠される。
そんな分国法をテーマとした希少な一般書であるが、難解でつまらないどころか、大変に読みやすく面白い。

そもそも、法をなぜ作るのか?その法で扱われる案件が現実に問題になっているからだ。ということは、分国法はつまらない法律条文の羅列ではなく、当時の実態を読み解く重要な手がかりだったのだ。


そこからは、大名の言うことを聞かない身勝手な家来たち。やられたらやりかえせ、喧嘩上等、絶えない紛争。大名の介入を拒む種々の特権等々。世の中、戦国大名にとって頭の痛いことだらけ。戦国大名も楽じゃない。そうした戦国自体の社会の実態と、それに四苦八苦しながら立ち向かう戦国大名の苦悩がひしひしと伝わってくるのが分国法だったのだ。
そうして、代表的な分国法を読み解いていき、最後に戦国時代にとって分国法はどういう意味があったのか?という核心に迫る。

戦国時代の社会の実態を知る面白さのみならず、法制史を学ぶ意味とその面白さまで分かりやすく実感させてくれる良著といえるだろう。

非常に柔和で読みやすい文体・まとまった内容構成で読みやすいかった。また、新書であるから仕方ないが、それでも史料の訳文が嬉しい。分国法の目的が大名による権力維持や上長というのが先年の研究であるが、実は法に縛られる戦国大名もいる。清水氏はそういう法に縛られた戦国大名(六角・武田・今川)が早くに没落の一途を辿っていったとしている(逆に織田・後北条・上杉などは分国法を定めていない。)
実は戦争こそが訴訟上最も効率的な統治方法であった。喧嘩両成敗法による自力救済社会の否定とアジール権(不入権)の否定こそが、戦国大名への権力の一円化に繋がる。分国法とは既存の慣習・古法を、権力の中枢にまとめた「国家法」である。

冒頭のvii頁で参考文献として『中世法制史料集 武家家法 III』(岩波書店)が挙げられているが、本書で採り上げられた5家法の全てが収録されているのは『中世法制史料集 第三巻 武家家法 I』である。 あるいは、「すべての分国法を網羅した」という意味であれば、『中世法制史料集 第三〜五巻 武家家法 I〜III』とすべきであろう。 誰が校正したのか知らないが非常にミスリーディングであり、レベルが低すぎる。

現代社会はどこに向かうか――高原の見晴らしを切り開くこと

この本は、無数の小さい幸福たちや大きい幸福たちが一斉に開花して地表の果てまでをおおう百花繚乱の高原のような新しい社会を
美しく現実的に描いています。

副題は「高原の見晴らしを切り開くこと」 まるで山岳冒険探検記のようなロマンチックな副題に興味を持ちました。

厚い雲と霧に覆われている高原のような現代社会では、どこにいるのか自分の位置さえも自覚しにくい若者たち。
むやみに動けば崖から下へ転落してしまいそうな不安を感じながら。

見晴らしを切り開くことができるのは、神か仏かも分からない。



著者の見田宗介さんがいま立っているこの高原は、丸い地球。無限であるようで有限な地表を国家が細かく領土化、国境化した世界。
見晴らしどころの騒ぎではない。一寸先は闇、の疑心暗鬼。醜い、汚い、卑怯な、卑劣な世界とも思えそうな混沌たる世界。

この本を読めば、神風が山々の霧を一気に吹き払うように、きっと見田さんが現代の日本社会を覆う暗雲や濃霧をフーと吹き払って、
新しい見晴らしを切り開いてくれるのではないか、と美しい高原の展望を期待して読みました。

この本の六章の最後は、
「人によろこばれることが人のよろこびであるという、人間の欲望の構造である」(141頁)

あらあら、この本は、人間の欲望の構造について、ただ解説するだけの教養の書だったのでしょうか。
いえいえ。すぐ後に、大事な「補章」が続いていました。「世界を変える二つの方法」というタイトルで。現実的な対応策。

高原の見晴らしの、美しく具体的なイメージが現実的な対応策と共に提起されていました。

「新しい世界の胚芽となるすてきな集団、すてきな関係のネットワークを、さまざまな場所で、さまざまな仕方で、いたるところに発芽させ、増殖し、ゆるやかに連合する、ということである」(155頁)

このイメージは、原子力の連鎖反応と、反核運動の雑誌名「連鎖反応」からヒントを得ているようです。
さらに、論理的な思考実験に基づく現実的な考察を経て、真実の変革である<肯定する革命>を著者は着想しています。

自分の周囲に小さいすてきな集団やネットワークが胚芽としてつくられたその時にすでに、それだけの境域において、
<肯定する革命>は実現しているのだ、と著者の見田さんは考えます。

この本で著者が提示した、世界を変えるイメージは、美しくありながらも、かつ過去の失敗を踏まえ現実的であるように感じます。
百花繚乱する高原の花たちは、なんと肯定的で、なんと多様で、なんと現在を咲き誇って楽しんでいることか。

一つの花が開くとき、一つの小さな細胞がまず充実すると、他の細胞も触発されて一つずつ充実して、さらにその隣の細胞も充実していく。こういう「充実の連鎖反応」によって、一つの花全体が大きく開くのだという、植物学の科学的知見に基づいたイメージでしょう。

こうしてたどりついた結論が、この本のすばらしい最後の一行となって実を結んでいました。
「今ここに一つの花が開く時、すでに世界は新しい」(158頁)

この一粒の実は、
「本論の理論の実証とは独立に、エクスクラメーション・マークの本体から少し切れたところに、けれども本体の力の方向線上に、打たれる小さいピリオド」(v頁)
でしょう。大きな花を開かせる一粒の種のように感じました。
自分は死んで命をつなぐ一粒の麦ではなく。

この本を読んで、東日本大震災のときに何度となく流れて来た歌声「花は咲く」の歌を思い出しました。
震災で流されて何もなくなってしまったけれど、
次の年、荒野の上に花が咲けば、復興の新しい命がきっとやって来るという希望の歌でした。

<備考> 本書の文中から「高原」という文字が現れた箇所を引用してみます。

「永続する幸福な安定平衡の高原(プラトー)」(17頁)
「永続する現在の生の輝きを享受するという高原が、実現する」(18頁)
「『高原期』に入った社会の新しい世代の精神の変化」(70頁)
「高原期の青年たちの『幸福』のリアリティについて」(70頁)
「高原期フランスの『非常に幸福』な青年たちの、幸福の内容について」(90頁)
「人間の歴史の第Ⅲの局面である高原は」(91頁)
「無数の小さい幸福たちや大きい幸福たちが一斉に開花して地表の果てまでをおおう高原である」(91頁)
「世界の高原期に達した社会」(131頁)
「共存のルールをとおして、百花繚乱する高原のように全世界にひろがりわたってゆく」(154頁)
「六章『高原の見晴らしを切り開くこと』と補章『世界を変える二つの方法』は、初めからこの本のための書き下ろしである」(161頁)

見田宗介氏(1937年~)は、現代社会論、比較社会学を専攻する社会学者。真木悠介の筆名でも多数の著書がある。東大の著者のゼミは抜群の人気を誇り、その出身者には、大澤真幸、宮台真司、小熊英二、上田紀行といった、現代日本を代表する思想家・社会学者がいるのだという。
本書は、初出2011年の序章のほか、いくつかの著作、学会やシンポジウムでの講演内容に加え、本書のための書下ろしをまとめたものである。私はこれまで見田氏(真木氏)の著作に縁がなかったのだが、本書の題名と上述のような構成から、著者のこれまでの論考のエッセンスがまとめられたもの、即ち「集大成」と考え、手に取った。


本書の論旨は以下のように明快である。
◆人間は、地球という有限な環境下に生きる限り、生物学でいう「ロジスティック曲線」から逃れることはできない。人間はこれまで、原始社会<定常期>から、カール・ヤスパースのいう「軸の時代」(古代ギリシャで哲学が生まれ、仏教や儒教が生まれ、キリスト教の基となる古代ユダヤ教の目覚ましい発展があった時代)<過渡期>を経て、文明化による人口増加<爆発期>を経験してきたが、近代はその<爆発期>の最終局面だったのであり、現代はその後に訪れる<過渡期>、即ち未来社会<定常期>への入り口にある。
◆それは、人間は、「軸の時代」以降、貨幣経済と都市社会の勃興を前に、世界の“無限性”を生きる思想を追求し確立してきた(その究極の姿が資本主義であろう)が、現代において、グローバル化が極限まで進み、環境的にも資源的にも、人間の生きる世界の“有限性”を生きる思想を確立しなければならなくなった、ということである。
◆そして、その思想とは、経済成長を追求しない、生きることの目的を未来に求めない、他社との交歓と自然との交感によって「生のリアリティ」を取り戻すことである。
◆その思想は、シンプル化、ナチュラル化、素朴化、ボーダーレス化、シェア化、脱商品化、脱市場経済化という現象として現れつつあり、価値観調査における若い世代の幸福感の増大のような結果も併せると、新たな世界が広がりつつあると言えるのかも知れない。
これは社会学者・広井良典氏のいう「定常型社会」と共通するものであるが、私はこの思想に深く共感を覚えるし、人類の進むべき方向はこれしかないと考えている。しかし、現実に目を転じると、政治家は「一億総活躍社会」などとぶち上げて「経済成長」を錦の御旗にし、少なからぬ人々が「経済成長」の呪縛に捉われたままである。現在の課題と進むべき方向が明らかな今、どのようにしてそれを実現するのかにこそ、人類は知恵を絞る必要があるのだと思う。我々に残された時間は多くはない。
(2018年9月了)

「今なんてどうだっていい。 大事なのは未来」。 私たちは誰もが、少なからず、そう思っているのではないでしょうか。 しかしそれでは大事な「今日」を、いや「今の自分」を大切にはできません。 「現在」から目をそむけ、「未来」に思いを託す(未来への疎外)。 しかしその「未来」からも受け入れられないならば(未来からの疎外)、いったい私たちはどうしたらいいのでしょう。 今、そんな「二重の疎外」に私たちは囚われているのではないかと警鐘を鳴らします。 図星です。 今を大事にしながら、どう明日につなぐか。 「二重の疎外」を克服する一歩を本書は教えてくれます。

モモ)

5つ星のうち 4.0まあ児童文学

(参考になった人 0/0 人)

灰色の男たちがだんだんとモモたちの生活に迫ってくるのはドキドキしたし
友達を失っていくモモの苦しみ、特にジジを想うが故に「一緒にいてくれ」という懇願を涙を流しながら拒絶するところはドラマとして最高だった
しかし人間たちの時間についての問題は、あくまで問題提起で終わっていて。作中での解決は児童文学的な物語に過ぎないからねぇ

作中ではニコニコハッピーエンドだけれど、現実には時間泥棒はいないわけで。時間貯蓄銀行をぶっ壊せ!な物理的解決なんかできないんですよね
しかし世界の現状は作中で書かれてるのとなんら変わらない。

この絶望
作中でいくらニコニコ良かったねされても、読んでるこっちとしてはやってらんねえよですよ

灰色の男たちは恐ろしい恐ろしいって書かれて、実際それなりに強大なわけですが
目に見える明らかな「敵」がいるという幸福がそこにはあるんですよね
現実は小説よりも恐ろしい

何十万年もの間、人間が狩猟と採集で生きていた時代は、一日のうち働くのは数時間だけだったといいます。 現在では、雨風や飢えに困ることもなく生活が便利になった代わりに、人生の大半を仕事に費やしています。 果たして豊かさとは何か、今読み返すとモモはそう問いかけているような気がしました。

この本は子供向けなのでしょうけど、これがどこまで子供に分かるだろうかと思ったりもしました。 内容が深いです。 またAI時代の今を見通したような驚くべき洞察力です。 私はこれを読んで良かったのですが、お勧めできるかどうかは迷います。 この本はまさに毒にも薬にもなる本なのです。

日本軍兵士―アジア・太平洋戦争の現実

ああ、戦後に生まれてよかった。
保守屋さんが「日本で生まれたことに感謝しろ」と押しつけがましくおっしゃるが、だれが感謝などするか。
今の日本が豊かになったのは父母の世代が頑張ってくれたおかげだ。おまえの手柄じゃねえわ。

本書を読むと、戦前・戦中に生まれなかったことには心から感謝したくなる。日本の軍隊というのは地獄だな。
当時の後進性に加えて、日本人の持つ悪い部分を濃縮して煮詰めたような環境だったらしい。
筆者は膨大な証言から淡々と事実を抽出するだけで、声を荒げて拳を振り上げたりはしない。

だから信用できる。
貧弱な補給が原因の飢餓や疫病、隊内の残酷なリンチについては知っていたが、本書で初めて知った事実が多かった。輸送船の中で死ぬ「海没死」が莫大な数に上るそうだ。
大半は撃沈による溺死だが、蒸し暑い船倉に閉じ込められて熱中症で死んだ兵隊も多かったとか。
味方に蒸し殺されても名誉の戦死になるのか。
いわゆる神風特攻は、ふつうの爆撃より効果が無かったという話には唖然とした。
爆弾が加速による貫通力を期待できるのに対して、
特攻は飛行機がエアブレーキの役を果たすので威力が減じるそうだ。
旧軍はどこまでもマヌケで非合理だったんだなあ。
直接命に関わることではないので見過ごされがちだが、虫歯や水虫や装備の劣化(特に靴)も蔓延していた。
名誉の虫歯に名誉の水虫か。うわーー、ゾッとするな。

鳥の目で高邁な理想を語っても、虫の目(現実)はかくのごとし。
先の戦争を美化したがる連中がはびこる昨今、一人でも多くの人に読んでほしい本だ。

著者の吉田 裕氏は、とにかく通常の資料はもちろんのこと多くの内外の論文や埋もれた資料を発掘し、膨大な資料をよみこなし、分析研究する研究者、学者として一目置かれる存在である。
さて、今回の新書は、日本帝国陸海軍指導者たちのものの考え方、すなわち、戦略なき(歯止めなく)進軍をし、対ソ連、対中国、対連合軍と三方睨みおよび広大な範囲を対象にしたため、兵の配置は「高度分散配置」(小兵力の多数の部隊を広範な地域に分散配置し、警備、防御、攻撃にあたらせる態勢)となり、過酷な長期泥沼の状態に配置することになった。

このこと自体が現地の兵隊にとっては先の見えない過酷な状況に置かれたことを意味する。
そして、著者はその兵士のおかれた状態を「兵士の目線」「兵士の立ち位置」から、凄惨な戦場の現実を再構成してみるということから、日本帝国陸海軍の思考、体質、軍事的特性を浮かび上がらせるという手法で書き進めている。
第1章 死にゆく兵隊たちとして、膨大な戦病死と餓死、海没死と特攻、自殺と「処置」を取り上げ、第2章は、身体から見た戦争とし、兵士の体格・体力の低下、遅れる軍の対応ー栄養不良と排除、病む兵士の心ー恐怖・疲労・罪悪感、被服・装備の劣悪化、そして一気に第3章で無残な死、その歴史的背景とし、異質な軍事思想、日本軍の根本的欠陥、後発(後進性)の近代国家、と進めていく。そしてまた、最終章で、深刻な戦争の傷跡で締めくくられている。
非常に卓越した視点と手法で、見事に戦場での兵の真の姿に迫っていき、小本なれど充実した「新書」となっている。読まれるべき優れた入門書となっている。

従軍日記や米軍の記録など丹念に調べ、食糧不足、最前線の無謀な闘い、長期間の軍隊生活、特攻など、様々な形で死に至った日本兵の姿を浮き彫りにする労作。
死因として、戦争末期の餓死や体力低下によるマラリア感染がいかに多かったか。兵站を無視したインパール作戦。ルソン島では軍隊から集団離脱した日本兵ゲリラが自軍の食糧を襲い、カルバニズムも行われた。
日本も調印した国際条約で傷病兵は捕虜として生存権を保証されていたのに、東條の戦陣訓「虜囚の辱めを受けず」以降、多くの兵士が自決、あるいは自軍によって殺害された。

軍医は身体に良いと偽って、傷病兵を注射で毒殺したという。
戦争を継続する国力など残っていない中、起死回生の一手として人命軽視の肉弾戦が採用される。特攻は突入する際、機体に浮力が働くため、爆弾をそのまま投下するよりも、戦艦の破壊力は小さかった。
長期の戦闘で精神を病む兵士、憂さを晴らすためにベテラン兵士は執拗に新兵イジメ。
日本兵を無残な死に追いやった歴史的背景として、異質な軍事思想(短期決戦・作戦至上主義、極端な精神主義、敵の過小評価)、日本軍の根本的欠陥(統帥権の独立と両総長の権限、多元分権的政治システム、軍内改革の挫折、私的制裁、軍紀の弛緩と退廃)、資本主義の後進性を挙げている。
読後、改めて、戦争の犠牲になった英霊の鎮魂を祈り、無責任な戦争指導者に対する怒りの感情が溢れてくる。
筆者が最後に述べている通り、戦争の記憶が薄れる中で、歴史を安易に美化する風潮は慎まなければならない。

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