小泉純一郎のまとめ情報

小泉純一郎』の解説

小泉 純一郎(こいずみ じゅんいちろう、1942年昭和17年〉1月8日 - )は、日本政治家

衆議院議員(12期)、厚生大臣(第697081代)、郵政大臣第55代)、内閣総理大臣(第878889代)、自由民主党総裁(第20代)などを歴任した。

概要

福田赳夫秘書を経て、1972年第33回衆議院議員総選挙で初当選し、以来12期連続当選。自由民主党では清和会(福田派、安倍派、三塚派、森派)に所属した。また、山崎拓加藤紘一と「YKK」を結成し、経世会支配からの脱却や党の世代交代を訴え「グループ・新世紀」を旗揚げした。

竹下政権にて厚生大臣として初入閣、宇野政権、橋本政権でも厚生大臣を務め、宮澤政権では郵政大臣を務めた。森喜朗の後任として自由民主党総裁に選出され、2001年(平成13年)4月に内閣総理大臣に就任した。内閣総理大臣の在任期間は1980日で、第二次世界大戦後の内閣総理大臣としては佐藤栄作吉田茂安倍晋三に次ぐ第4位。平成時代においては安倍晋三に次ぐ第2位の長期政権である。2009年(平成21年)の第45回衆議院議員総選挙には立候補せず、二男小泉進次郎を後継指名して政界を引退した。引退後は、奥田碩田中直毅らとシンクタンク「国際公共政策研究センター」を設立し、その顧問を務めていた。

生い立ち

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1942年(昭和17年)1月8日神奈川県横須賀市に、父小泉純也と母芳江の長男として生まれる。母方の祖父小泉又次郎第2次若槻内閣逓信大臣を務め、若い頃に全身に入れ墨を彫っていたことから、“いれずみ大臣”“いれずみの又さん”などの異名で知られる大衆政治家だった。

戦後、又次郎と純也は相次いで公職追放にあったため、小泉家の経済状態は決して恵まれていたわけではない。井料克己によれば「日本全体が食べるのに必死だったけど、小泉家もまだしくて夕食の食卓には芋の煮っころがしなんかが並んでいた。僕がたまにに行ってうなぎを釣ってくると純一郎たちが喜んでくれた。」という。

学生時代

神奈川県立横須賀高等学校から二浪したのちに慶應義塾大学経済学部を卒業。英国ロンドン大学ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン (U.C.L.) に留学の後、1969年(昭和44年)8月に父が急死し帰国。

同年12月、亡父の跡を継ぎ、弔い選挙となった第32回衆議院議員総選挙自由民主党公認で立候補し、10万3000票余りを獲得するが、4000票差で落選した。

福田赳夫の秘書として

福田赳夫秘書を務め、後に総理となる福田から政治家としての薫陶を受けた。社会人生活の第一歩を浪人でスタートした小泉は、毎朝4時に起床した。横須賀駅5時半発の電車に乗って、2時間かけて世田谷区にある福田赳夫邸へと通った。福田のもとには初当選したばかりの塩川正十郎がいた。当時のことを塩川正十郎は『週刊文春』の阿川佐和子との対談でこう語っている「そうそう。彼は早起きで、福田さんの家の玄関でえておったね。下足番だったの」「で代議士が帰るときモータープールで“何々先生お帰り〜お車ぁ〜”て運転手を呼んでたの(笑)。だから、僕は彼のホームページに“まさか総理大臣になるとは思わなかった”って書いたんです。大変な苦労をしてますよ。」、「そのとき、福田さんが“こいつは意地の強いやっちゃ。なかなかしっかりしとる。だから、大物になったら、とんでもない大物になるけど、はぐれたら処置ない奴ぜぇ”と言うたことがあるの」。福田邸で秘書の仕事は午前中で終わり、午後からは地元横須賀で自身の政治活動を行っていた。

初当選

1972年(昭和47年)12月、第33回衆議院議員総選挙で自民党公認として立候補し、12万2000票余りを獲得し初当選。清和会(福田派)に属し、後に首相秘書官となる飯島勲秘書となった。大蔵委員会に所属し、以降生粋の大蔵族として地歩を築く。また、同期の山崎拓加藤紘一と懇意になり後のYKKへとつながる。

結婚と離婚

1978年(昭和53年)にエスエス製薬の元会長泰道照山の孫と結婚。この結婚に父親的な存在だった泰道照山は反対だったという。泰道照山の血縁者は「結局、泰道家とは絶縁寸前までいった。“出て行くならその身体一つでいけ”という具合。それでも小泉さんから“何の心配もいらない。僕たちの結婚には関係ない。白紙のままで来てほしい。”と言われ、その言葉を信じて嫁に行った」と述べている。

3人の子供をもうけたが、1982年に離婚。離婚時に妻は三男を懐妊中であった。関係者の話によれば、「小泉の面倒は姉で秘書をしている信子がみており、系図をみてもわかるように周囲は姉弟の身内で固めている。離婚の理由は本人がおかしくなり、よほど結婚にはこりたようだ」という。

衆議院議員

1979年(昭和54年)、第2次大平内閣大蔵政務次官に就任。

ポストに執着せずもっぱら政策の習熟に徹していたが、子分を作らない一匹狼的な行動をとり、言いたいことを直言し、与野党政治家の既得権益を害する郵政民営化論を主張することもあって永田町では「変人」と評されるようになる。

1988年(昭和63年)、竹下改造内閣厚生大臣として初入閣。

1989年(平成元年)にリクルート事件竹下政権が倒れ、続く宇野政権も参院選で惨敗し、わずか2か月で退陣した。政治不信が高まり、政治改革の柱として「小選挙区制の導入」が叫ばれた際、小泉はこれに強く反対し、推進派の羽田孜と対立した。

1991年(平成3年)、自民党総裁選で再選を目指し、最大派閥の経世会(竹下派)の支持を受けた海部俊樹(首相)に対抗し、盟友の山崎拓(渡辺派)・加藤紘一(宮沢派)と組んで、「海部続投阻止」「経世会支配打倒」を打ち上げた。所属する三塚派のほか、渡辺派・宮沢派の反主流派が結束したため、海部内閣は機能不全に陥り、海部は総裁選不出馬に追い込まれた。

後任の総理総裁に宮澤喜一が就任すると、小泉は1992年(平成4年)の宮澤改造内閣郵政大臣に就任する。就任会見で、かねてからの持論の郵政民営化論に基づき、国は民間では採算の採れないことだけをすべきとして、老人マル優限度額引き上げなど従来の郵貯事業拡張政策の見直しを唱えたが、この老人マル優限度額引き上げ見直しは反対派議員(郵政族)等の反発で失敗に終わった。

国連カンボジア暫定機構に派遣されていた日本の文民警察官が武装グループに襲撃され、1人が死亡、4人が重軽傷を負う事件が起こった際には、宮澤改造内閣の郵政相として閣議の席で、「血を流してまで貢献しろ、ということでは無い。金やものでの貢献ではいけないということから、汗を流そうということだ」、「カンボジアは実質内戦に近い状態にあり、事実上危険な状態であれば、PKOの引き揚げも今後の選択肢に入れるべきだ」 等と語り、自衛隊カンボジア派遣に異議を唱えた。

また、この死傷事件をきっかけにタケオ州に駐在する自衛隊施設大隊が選挙監視要員を支援することにした政府決定についても異議を唱えている。さらに、5月18日の閣議でも「日本独自の判断で文民警察官をより安全な場所に移動させよ」「政府は国会で言ってきたこと、国民に約束したことを尊重すべきだ」とした。

1993年(平成5年)、羽田孜・小沢一郎ら羽田派(改革フォーラム21)らの賛成もあって、宮澤内閣へ不信任決議が可決され、第40回衆議院議員総選挙で自民党は過半数を割った。小泉は、宮澤の責任や退陣を閣僚懇談会でも要求し、郵政大臣を辞職した。なお、総選挙後に日本新党細川護熙を首班とする連立政権が成立、自民党は野党に転落した。宮澤の後任の自民党総裁には河野洋平が就任した。

総裁選への挑戦

1994年(平成6年)、自民党は日本社会党委員長村山富市内閣総理大臣指名選挙で支持して自社さ連立政権を成立させ政権に復帰、野中広務らの平成研究会(旧竹下派)が主導的な力を持つようになった。

1995年(平成7年)の参議院議員選挙で自民党は新進党に敗北。河野は続投を望んだが、平成研究会は政策通で人気のある橋本龍太郎を擁立した。小泉らの清和会は河野を支持したが、情勢不利を悟った河野が出馬断念を表明したことで、橋本の総裁就任は確実になった。無投票で総裁が決まることを阻止したい小泉らは森喜朗(清和会)擁立を図るが森が辞退したため、小泉が自ら出馬することを決めた。

既に大勢が決していた上に、郵政民営化を主張する小泉は党内で反発を買っており、出馬に必要な推薦人30人を集めることができたことがニュースになる有り様だったが、それでも若手議員のグループが小泉を推した(中川秀直山本一太、当選1回の安倍晋三もいた)。結果は橋本の圧勝に終わったが、総裁選出馬により郵政民営化論を世間にアピールして存在感を示すことはできた。

1996年(平成8年)に村山が首相を辞任し、橋本内閣が成立すると、小泉は第2次橋本内閣で再び厚生大臣に就任する。小泉は相変わらず自説を曲げず「郵政民営化できなければ大臣を辞める」と発言、国会答弁で「新進党が郵政三事業民営化法案を出したら賛成する」と郵政民営化を主張したときは、与党から野次を受け、逆に野党から拍手を受けることもあった。同年、在職25年を迎えたが永年在職表彰を辞退した。

1997年(平成9年)、厚生大臣時代に厚生省幹部と参議院厚生委員会理事と食事を取っていたが、村上正邦自由民主党参議院幹事長が円滑な参議院審議を求める参議院理事のスケジュール管理の立場から、村上への事前通告がなく参議院理事を動かしたことで参議院スケジュール管理に支障を来たしたことを理由に反発した。村上が参議院厚生委員長に対して議事権発動を促し、厚生省幹部の出席差し止めという形で小泉厚相に反発。YKKの盟友だった加藤紘一幹事長を中心とする党執行部は異常事態を打開するために村上を参議院幹事長から更迭しようとするが、村上は参議院の独自性を盾に抵抗。村上更迭という強行案には、党内連立反対派(保保連合派)らの反発を党執行部が恐れたため、小泉厚相に対して村上参院幹事長に全面謝罪させることを提案、小泉が村上に謝罪したことで収束した(この事件が小泉にとって、参議院の影響力の大きさを実感する出来事であった。2001年に首相になった時、トップダウン方針と言われながらも、参議院の実力者であった青木幹雄参議院枠を初めとする一定の配慮を示す原因になったと言われている)。

1998年(平成10年)の参議院議員選挙、自民党は大敗を喫し、橋本は総理大臣を辞任した。後継として、小渕恵三梶山静六と共に小泉も立候補したが、盟友の山崎・加藤の支持を得られず、仲間の裏切りにもあい、所属派閥の清和会すらも固めることもできず最下位に終わった(総裁には小渕が選出)。

加藤の乱

2000年(平成12年)、小渕が急死し、党内実力者の青木幹雄、野中広務らの支持により幹事長だった森喜朗が総理・総裁に就任。小泉は清和政策研究会(森派)の会長に就任した。第2次森内閣組閣では安倍晋三内閣官房副長官に、中川秀直官房長官のスキャンダル辞任後の後任に福田康夫が、それぞれ小泉の推薦を受けて就任した。

この総理就任の経緯は密室談合と非難され、森内閣は森の旧来政治家的なイメージも相まって人気がなく、森の失言が次々とマスコミに大きく取り上げられ、支持率は急落した。このころの小泉は公明党との協力に批判的で、2000年6月の衆院選で公明党候補が多く落選したことについて野中幹事長が「大変なご迷惑をかけた。万死に値する」とコメントしたことを、猛然と批判している。森内閣の支持率は2000年11月には18.4パーセントを記録し、これに危機感を抱いた反主流派の加藤紘一山崎拓が公然と森退陣を要求し始めた。加藤と山崎は、自派を率いて、野党の提出する内閣不信任案に同調する動きを見せた。一方、森派の会長だった小泉は森支持の立場を明確にし、党の内外に加藤・山崎の造反を真っ先に触れ回った。

加藤はマスコミに積極的に登場して自説を主張し、普及し始めたインターネットを通じて世論の支持を受けたが、小泉ら主流派は猛烈な切り崩し工作を行い、加藤派(宏池会)が分裂して可決の見通しは全くなくなり、加藤・山崎は内閣不信任案への賛成を断念した。これにより、総理候補と目された加藤は、大きな打撃を受け小派閥に転落、一方、森派の顔として活躍した小泉は党内での評価を上げた。

小泉旋風

森の退陣を受けた2001年4月の自民党総裁選に、橋本龍太郎麻生太郎亀井静香と共に出馬。敗れれば政治生命にも関わるとも言われたが、清新なイメージで人気があった小泉への待望論もあり、今回は森派・加藤派・山崎派の支持を固めて出馬した。小泉は主婦層を中心に大衆に人気のあった田中眞紀子田中角栄の長女)の協力を受けた。

最大派閥の橋本の勝利が有力視されたが、小泉が一般の党員党友組織自由国民会議会員・政治資金団体国民政治協会会員を対象とした予備選で眞紀子とともに派手な選挙戦を展開した。小泉は「自民党をぶっ壊す!」「私の政策を批判する者はすべて抵抗勢力」と熱弁を振るい、街頭演説では数万の観衆が押し寄せ、閉塞した状況に変化を渇望していた大衆の圧倒的な支持を得て、小泉旋風と呼ばれる現象を引き起こす。こうした中で、次第に2001年7月に参院選の「選挙の顔」としての期待が高まる。そして小泉は予備選で地滑り的大勝をし、途中で中曽根元首相、亀井元建設相の支持も得、4月24日の議員による本選挙でも圧勝して、自民党総裁に選出された。4月26日内閣総理大臣指名選挙公明党保守新党の前身保守党、「無所属の会」所属の中田宏土屋品子三村申吾の支持を受け内閣総理大臣に指名された。

内閣総理大臣

小泉は組閣にあたり従来の派閥順送り型の人事を排し、慣例となっていた派閥の推薦を一切受け付けず、閣僚・党人事を全て自分で決め、「官邸主導」と呼ばれる流れを作った。少数派閥の領袖である山崎拓を幹事長に起用する一方で、最大派閥の平成研究会(橋本派)からは党三役に起用しなかった。人気のある石原伸晃行政改革担当大臣に、民間から経済学者竹中平蔵経済財政政策担当大臣に起用した。また、総裁選の功労者の田中眞紀子は外務大臣に任命された。5人の女性が閣僚に任命された(第1次小泉内閣)。

「構造改革なくして景気回復なし」をスローガンに、道路関係四公団・石油公団住宅金融公庫交通営団など特殊法人の民営化など小さな政府を目指す改革(「官から民へ」)と、国と地方の三位一体の改革(「中央から地方へ」)を含む「聖域なき構造改革」を打ち出し、とりわけ持論である郵政三事業の民営化を「改革の本丸」に位置付けた。特殊法人の民営化には族議員を中心とした反発を受けた。

発足時(2001年4月)の小泉内閣内閣支持率は、戦後の内閣として歴代1位の数字となり、最も高かった読売新聞社調べで87.1パーセント、最も低かった朝日新聞社調べで78パーセントを記録した。「小泉内閣メールマガジン」を発行し、登録者が200万人に及んだことも話題となった。こうした小泉人気に乗るかたちで同年7月の参議院議員選挙で自民党は大勝した。

終戦の日8月15日靖国神社参拝をすることを、小泉は総裁選時に公約としていた。総理の靖国神社参拝は中国韓国の反発に配慮して長年行われていなかった。小泉は、批判に一定の配慮を示し、公約の8月15日ではなく13日に靖国神社参拝を行った。翌年以降も、毎年靖国参拝を行った。2006年には公約であった終戦の日における参拝を実現した。

9月11日米同時多発テロの発生を受けて、ブッシュ大統領の「テロとの戦い」を支持した。米軍らのアフガニスタン侵攻を支援するテロ対策特別措置法を成立させ、海上自衛隊を米軍らの後方支援に出動させた。

国際情勢が緊迫する中、外務省は、田中外相が外務官僚や元外務政務次官の鈴木宗男議員と衝突し、機能不全に陥っていた。小泉は2002年2月に田中外相を更迭した。人気の高い田中の更迭により、80パーセントを超える異例の高支持率であった小泉内閣の支持率は40~50パーセント台にまで急落した(読売新聞では支持率48.9%、下げ幅30.7ポイントという急落ぶりだった)。田中は大臣更迭後の同年8月に秘書給与流用疑惑が浮上し議員辞職した。

小泉は、2002年(平成14年)9月に電撃的に朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)を訪問し、金正日国防委員長と初の日朝首脳会談を実現し、日朝平壌宣言に調印した。この訪問で金正日は北朝鮮による日本人拉致を公式に認め、拉致被害者のうち5名を日本に帰国させることを承認した。しかし、残りの拉致被害者のうち8名が死亡・1名が行方不明とする北朝鮮の回答に対し、拉致被害者家族は怒りを隠さず、交渉を終え帰国した小泉を面罵する場面もあった。

2002年9月30日小泉改造内閣が発足。柳澤伯夫金融大臣から更迭して、竹中平蔵に兼務させた。これにより、以後は不良債権処理の強硬策を主張する竹中が小泉政権の経済政策を主導した。

2003年(平成15年)3月、アメリカイラクへ侵攻してフセイン政権を打倒した。小泉は開戦の数日前にアメリカ支持を表明し、野党マスコミの一部から批判を受けた。日米同盟こそが外交の基軸とのスタンスを崩さず、ブッシュ大統領との蜜月関係を維持した。イラク戦後復興支援のための陸上自衛隊派遣が喫緊の課題となり、7月にイラク特措法を成立させた。これに先立つ6月には、長年の安全保障上の懸案だった有事関連三法案(有事法制)を成立させている。ここで、小泉がイラク戦争を公式に支持する際、数日前の2003年3月2日に起きたアメリカ軍電子偵察機に対する北朝鮮戦闘機のスクランブル発進を引き合いにして朝鮮有事における日米同盟の重要性を強調している。

9月に行われた自民党総裁選平成研究会藤井孝男運輸大臣を擁立して小泉おろしを図ったが、参院自民党幹事長であった青木幹雄がこれに与せず派閥分裂選挙となり、藤井は大敗。藤井擁立の中心となった野中広務は10月に政界を引退した。平成研究会(旧経世会)の凋落を示す事件で、清和政策研究会(森派)が党の主導権を掌握することになる。

2003年9月、自民党総裁選で再選された小泉は小泉再改造内閣発足させ、党人事では当選わずか3回の安倍晋三幹事長に起用する異例の人事を行い、11月の総選挙では絶対安定多数の確保に成功。閣僚を留任させた第2次小泉内閣が発足した。この際、中曽根康弘元首相、宮澤喜一元首相に引退を勧告した。

2004年(平成16年)1月、陸上自衛隊イラク南部のサマーワへ派遣したが、4月に武装集団がイラクにいた日本人を拉致して「イラクからの自衛隊の撤退」を要求する事件が起きた(イラク日本人人質事件)。小泉は「テロには屈しない」とこれを明確に拒否。人質3人は後に解放された(地元部族長の仲介によるものとされる)。また、この際には「自己責任論」を主張し、解放された人質らに対して外交経費を請求した。

2004年5月、小泉は再び北朝鮮を訪問、平壌金正日総書記と会談した。北朝鮮に対する25万トンのミニマム・アクセス米や1000万ドル相当の医療品の支援を表明し、日朝国交正常化を前進させると発表した。この会談で新たに5名の拉致被害者が日本に帰国した。小泉はアメリカとの連係を強化して「対話と圧力」の姿勢を維持した。

2004年6月、2003年6月に制定された有事関連三法に基づいて、「米軍と自衛隊の行動を円滑かつ効果的にする法制」、「国際人道法の実施に関する法制」、国民保護法等の有事関連七法(有事法制)を成立させた。

2004年7月の第20回参議院議員通常選挙を控え、年金制度改革が争点となった。小泉内閣は参院選直前の6月に年金改革法を成立させたが、選挙では自民党が改選50議席を1議席下回り、民主党に勝利を許した。この責任をとって安倍幹事長が辞任し、武部勤が後任となった。

小泉の最大の関心は、持論の郵政民営化にあった。参院選を乗り切ったことで小泉は郵政民営化に本格的に乗り出し、2004年9月に第2次小泉改造内閣を発足させ、竹中を郵政民営化担当大臣に任命した。「基本方針」を策定して、4月に開設した郵政民営化準備室を本格的に始動した。

小泉劇場

2005年(平成17年)、小泉が「改革の本丸」に位置付ける郵政民営化関連法案は、党内から反対が続出して紛糾した。小泉は一歩も引かぬ姿勢を示し、党内調整は難航する。反対派は亀井静香平沼赳夫が中心となり長老の綿貫民輔を旗頭に100人近い議員を集めた。法案を審理する党総務会は亀井ら反対派の反発で紛糾し、遂に小泉支持派は総務会での全会一致の慣例を破って多数決で強行突破した。反対派はこれに激しく反発し、事態は郵政民営化関連法案を巡る小泉と亀井・平沼ら反対派との政争と化した。

衆議院本会議における採決で、反対派は反対票を投じる構えを見せ、両派による猛烈な切り崩し合戦が行われた。7月5日の採決では賛成233票、反対228票で辛うじて可決されたが、亀井、平沼をはじめ37人が反対票を投じた。参議院では与野党の議席差が少なく、亀井は否決への自信を示した。小泉は法案が参議院で否決されれば直ちに衆議院を解散すると表明するが、亀井ら民営化反対派は、衆院解散発言は単なる牽制であり、そのような無茶はできないだろうと予測していた。

2005年8月8日、参議院本会議の採決で自民党議員22人が反対票を投じ、賛成108票、反対125票で郵政民営化関連法案は否決された。小泉は即座に衆議院解散に踏み切り、署名を最後まで拒否した島村宜伸農林水産大臣罷免、自ら兼務して解散を閣議決定し、同日小泉は、憲法第7条に基づき衆議院解散を強行した。

小泉は、法案に反対した議員全員に自民党の公認を与えず、その選挙区には自民党公認の「刺客」候補を落下傘的に送り込む戦術を展開。小泉は自らこの解散を郵政解散と命名し、郵政民営化の賛否を問う選挙とすることを明確にし、反対派を「抵抗勢力」とするイメージ戦略に成功。また、マスコミ報道を利用した劇場型政治は、都市部の大衆に受け、政治に関心がない層を投票場へ動員することに成功した。それにより9月11日の投票結果は高い投票率を記録し、自民党だけで296議席、公明党と併せた与党で327議席を獲得した。この選挙はマスコミにより「小泉劇場」と呼ばれた。

2005年9月21日、小泉は圧倒的多数で首班指名を受け、第89代内閣総理大臣に就任する。10月14日特別国会に再提出された郵政民営化関連法案は、衆参両院の可決を経て成立した。この採決で、かつて反対票を投じた議員の大多数が賛成に回り、小泉の長年の悲願は実現した。

なお、賛成票を投じた永岡洋治議員の自殺のように郵政民営化関連法案の成立には多くの事件が発生していた(葬儀に小泉が出席した後、故人の親族は本法案の賛成を表明)。

ポスト小泉

2005年10月、第3次小泉改造内閣が発足。ポスト小泉と目される麻生太郎外務大臣に、谷垣禎一財務大臣に、安倍晋三が内閣官房長官に起用された。

この後、2005年11月 - 2006年1月にかけて、構造計算書偽造問題皇位継承問題ライブドア・ショック堀江貴文逮捕米国産牛肉輸入再開問題など、政権への逆風となる出来事が相次いで発生した。野党は攻勢を強め、9月の退陣へ向けて小泉内閣はレームダックに陥るのではないかとの予測もあった。しかし、堀江メール問題民主党が自壊したため、内閣の求心力が衰えることはなく、通常国会では「健康保険法等の一部を改正する法律」(後期高齢者医療制度を創設)などの重要法案を成立させている。なお、堀江メール問題の後、永田寿康議員は自殺している。

2006年(平成18年)8月15日終戦の日に小泉は最初の総裁選の公約を果たして靖国神社へ参拝した。小泉はこの時のインタビューで自身の参拝理由を明確かつ丹念に提示することに努めている。

2006年9月20日の自民党総裁選では、選挙前から確実視された安倍晋三が後継に選ばれる。翌9月21日に小泉の自民党総裁任期は満了し、9月26日総辞職して内閣総理大臣を退任した。任期満了による退任は1987年の中曽根政権以来であり、また、小泉政権は戦後4位であり21世紀最初の長期政権となった。

首相退任後

首相退任後は、テレビ出演やインタビューなど、国民の前でほとんど発言していない。マスコミ記者からインタビューを受けても何も言わないで去っていくことが多い。ただし、講演会などをまれに行っており、立ち見が出るほどの反響になる。

小泉には院政の意思はなく、もともと一匹狼であるため子分もおらず、かつて所属していた森派にも戻らなかった。岸信介田中角栄中曽根康弘竹下登など大派閥を擁し退任後も政界に影響力を残した元総理たちのような政治的基盤はない(清和会はもともと森喜朗の派閥で、町村信孝が継承)。

「小泉再登板待望論」も一部で囁かれるが、小泉は再登板を完全に否定している。2007年9月12日に、安倍晋三が首相辞任を表明した際、ポスト安倍としていわゆる小泉チルドレンたちから小泉に総裁選立候補の強い要請があったが、本人は「100パーセント出馬しない」と出馬の可能性を否定。小泉自身は、「福田さんも小泉政権を支えてくれた人じゃないか」と福田康夫支持を表明したが、これが飯島秘書官に辞任を決意させたとも言われる(飯島は小泉在任中に福田としばしば対立し、2007年の総裁選でも小泉擁立に動いたとされる)。

2006年以降は8月15日終戦の日)に靖国神社参拝を実施している。また、息子進次郎も父と同様に靖国神社参拝を実施している。

2007年(平成19年)9月、安倍が退陣を発表後、「福田さんも小泉政権を支えてくれた人」と福田康夫支持の意向を示した。また、2008年5月22日には、東京都目黒区東京5区)にてかつて岐阜1区で造反した野田聖子議員への刺客だった佐藤ゆかりの応援演説を行った。

政界引退

麻生内閣が成立した翌日の2008年(平成20年)9月25日、地元支持者の会合において、次回の衆議院議員選挙に立候補しない意向を明らかにした。首相経験者が首相退任後の衆院選に立候補せずに政界を引退するのは池田勇人小渕恵三の病気退任を除けば戦後初めてのことである。

ただし、国会の外での政治活動は継続すると表明している。政界引退後の総選挙においては、かつての選挙区である神奈川11区から小泉の次男で私設秘書の小泉進次郎が後継(世襲候補)として立候補し、当選した。

2012年夏に消費税増税法案で民主党が分裂するなどした際には、自民党幹部や派閥領袖に対して「野党が解散権を握ってる政局というチャンスは珍しいんだ。ちゃぶ台返しをやれ」と民主党に強硬姿勢でのぞむことを支援した。

脱原発

総理大臣時代は原発推進の立場だったが、東日本大震災を経た2011年夏頃までには「脱原発」を主張するようになっていた。2013年秋頃からは、講演会等でも盛んに発言するようになり、メディアに頻繁に取り上げられるようになった。この発言を脱原発や反原発を主張するみんなの党代表渡辺喜美生活の党代表小沢一郎など野党各陣営が歓迎し、10月29日には反原発を掲げる社民党党首吉田忠智と会談まで行った。2014年2月の東京都知事選では、脱原発を争点に立候補した細川護熙を支援したが、細川は落選した。

2018年1月10日には、自らが顧問を務める民間団体「原発ゼロ・自然エネルギー推進連盟」の記者会見で「原発ゼロ・自然エネルギー基本法案」を発表。内容は原発の即時停止を求めるもので、法案への支持を与野党に呼び掛けた。

政権公約となった政策

郵政民営化

紺谷典子によれば、2004年9月におこなわれた自民党内の与党手続きでは多数決を採らず、怒号の中、「多数と認めます」との宣言だけが行われ、「少数決」だと批判された。以降の手続きは中央省庁改革法33条6項「民営化等の見直しは行わない」を削除修正せず、これに反して行われたという。退任後は2009年に参拝した。2010年の8月15日は参拝していない。

タウンミーティング

タウンミーティングの構想は2001年に行われた小泉純一郎首相の所信表明演説で初めて打ち出され、政権公約となった。タウンミーティングは全国で開かれ、まず特定テーマは設けずに都道府県を一巡し、その後「地域再生」「市町村合併」「教育改革」などをテーマに開かれるようになった。このタウンミーティングでは、謝礼金を使ったやらせ質問の横行、電通社員へ日当10万円の払い、エレベーター係へ一日数万の払い、などといった実態が明るみに出た。コストは平均2000万円、全国一巡したことで20億円弱かかっていた。

国債30兆円枠

小泉内閣は各年度予算編成において国債発行額を30兆円以下に抑制することを公約として掲げた。実際に達成できたのは政権初期の2001年度と政権末期の2006年度予算の2回のみであった。ただし2001年時などでもNTT株の売却収入によって歳出補填がされるなどしたため、実質的な歳出削減は行われなかったことから批判が相次いだ。

国債30兆円枠はシーリングによる財政管理政策であり、その結果として一貫して増加傾向であった一般歳出の増加は抑制されその後微減傾向に転換した。

ペイオフの解禁

2001年自民党総裁選で他の総裁候補と同様にペイオフの解禁を公約に掲げた。しかし、不良債権処理が2004年までかかったため2005年4月まで解禁は先送りされた。

一内閣一閣僚

小泉は閣僚の交代に批判的で、「一内閣一閣僚」を標榜していたが、田中眞紀子外相の更迭で原則を破り、2002年9月30日に内閣改造を行い、以後1年間をめどに内閣改造で定期的に閣僚を交代させていった。2001年の小泉内閣誕生から2006年の退任まで、一貫して国務大臣だった竹中平蔵のみが一内閣一閣僚に該当するという意見もある。また、これまでの内閣と異なり、大臣人事においては派閥領袖が推薦した人を任命せず、派閥均衡人事を保ちながら首相の一本釣り人事を行った。

政権獲得後に推進した政策

バブル後の金融問題の処理と構造改革

金融再生プログラムを推し進め、バブルの遺産と呼ばれていた不良債権を処理し金融システム正常化を果たした。

特殊法人改革においては「原則として廃止か民営化」を掲げ、郵政民営化道路公団民営化政策金融機関再編・独立行政法人の再編・民営化を実現させた。

その結果、本格的な改善については持ち越されることになったものの、日本経済失われた10年と呼ばれた長期停滞を脱出した。

財政再建

プライマリーバランスの回復を目標とした財政計画作成・国債30兆円枠・公共事業の大幅削減・社会保障の抑制などを行い財政再建を推進した。その結果、就任時には一般予算・補正予算合わせて11兆8000億円あった公共事業費は退任時の平成18年には7兆8000億円にまで削減され、その一環として道路公団は民営化された。また社会保障費にはマクロ経済スライドが2005年4月に導入された。

その結果、日本経済の回復(いざなみ景気)による税収増もあり、財政は大幅に改善した。しかし一方で公共事業削減に対しては、亀井静香議員などを始めとする、道路族と呼ばれる族議員などが反発した。また社会保障費の年間2,200億円削減は、社会保障受給者や病院などの供給者などの負担となり、医療制度問題となった。

対照的に消費税の増税については、自身の内閣では行わないと発言し、議論も低調となったほか、累進課税色を薄めることも行わなかった。

年金改革

年金制度を変革。老齢者控除廃止や公的年金控除の縮小をした。

医療制度改革

30兆円を超える国民医療負担の膨張に歯止めを打つため、小泉は患者・医療機関・保険者の「三方一両損」による改定を指示、医療制度改革関連法案を国会で可決させた。

  • サラリーマンの医療費自己負担を2割から3割へ引上げた。70歳以上の高所得者(夫婦世帯で年収約621万円以上)について医療費の窓口負担が2割から現役世代と同じ3割へ上げた。2008年度からは70 - 74歳で今は1割負担の人も2割負担になる(後期高齢者医療制度)。
  • 2006年度の診療報酬改定において、再診料を引き下げ(病院で10円、診療所で20円)、医療費を削減した(本体部分:2002年-1.3%,2004年0%,2006年-1.36%、薬価部分:2002年-1.4%,2004年-1.0%,2006年-1.8%、総額:2002年-2.0%,2004年-1.0%,2006年-3.16%)ほか、病院と診療所で異なっていた初診料の統一、小児・救急医療など医師不足が指摘される分野で重点的に報酬を加算することなどが決まっている(財務省主計局の平成22年調査では勤務医の平均年収は1479万円、開業医の平均年収は2530万円)。
  • 政管健保の保険料率を値上げした。

外交

意欲的に首脳外交・多国間外交を推進した。他国への資金援助については削減を進めたため、海外への発言力の低下に危機感を持つべきと批判を浴びたが、一方で日本の国柄の在り方を考える機会ともなった。また靖国参拝を巡り中国と激しく対立した(詳しくは下記の経緯・エピソードを参照)。東シナ海ガス田問題では帝国石油に試掘権を与えるなど積極的な関与を行っていたが途中より、担当閣僚である経産大臣を、強硬派の中川昭一から親中派の二階俊博に変えてしまいソフト対応路線に転じた。その後民主党政権となったこともあり、結果的に東シナ海ガス田問題は中国に一方的に押し切られる形となった。

小泉談話

2005年8月15日、戦後60年目の終戦記念日に過去に日本がアジア諸国に対して行った侵略と植民地支配を謝罪する小泉談話閣議決定の上、発表した。談話の内容は1995年8月15日、戦後50年の終戦記念日に当時の村山富市首相が閣議決定の上、発表した村山談話を踏襲したものであり、村山談話と並ぶ日本政府歴史認識の公式見解として扱われる。

女系天皇容認

長い間、皇室に皇位継承権を有する男の子が生まれていなかったことなどから、皇室典範に関する有識者会議を設置して女性天皇のみならず、女系天皇容認に向けた動きを積極的に推進した。その後、秋篠宮家における男子継承者誕生から改正議論を棚上げしたものの、根本的な問題(継承者不足)が無くなった訳ではないとして「女系の天皇陛下も認めないと、将来については皇位継承というのはね、なかなか難しくなるんじゃないかと思ってます」との見解を述べた。

政権運営

小泉政権の手法については、マスコミ報道を利用した「劇場型政治」や「ワンフレーズポリティクス」などと評され、従来の自民党支持層とは異なる都市部無党派層・政治に関心がない層からも幅広い支持を集めた。小泉旋風は具体的な政策論議よりも小泉自身のキャラクターや話題性に依存する面が大きく、敵対勢力からはポピュリズム政治であるとの評価がしばしばなされる。

また、政策指針としては清和会出身者に多い「小さな政府」指向であり、個人に対しては相続税の減税(最高税率70%→50%)や社会保障費の削減を、法人に対しては研究開発投資減税や公共事業費の削減を求めている。

ただ、この時代は住専問題や防衛庁疑惑を追及していた民主党石井紘基衆議院議員が刺殺される等、不透明な政府支出や事件も多数起きており、政府への信頼感が低下していた時代でもある。

内政

外交

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  • 従来の事務協議の積み重ねの延長である外交から、首相が自らの意見を積極的に主張し首脳間の信頼関係の下で国家間の合意を取り付ける首脳外交に転換した。
  • 小泉外交は出身派閥である清和政策研究会の伝統的な親米路線に則っている。また、小泉首相自身がアジアやアフリカなどの国々にも積極的に訪問し、サミットをはじめ、ASEAN、APEC、ASEM、日・EU定期協議、アジア・アフリカ首脳会議などの多国間協議へも25回参加した。
  • 在任中合計51回、実数では49ヶ国延べ数81ヶ国を訪問した。また訪問先の決定も外務省を始め、関係省庁が作ったシナリオに従うのではなく、官邸が積極的に関与した。さらに多数の電話での首脳会談も行い積極的な官邸外交・首脳外交を展開した。
  • 2006年7月3日にドミニカ共和国レオネル・フェルナンデス大統領と会談。その後、ドミニカ移民訴訟において政治判断により控訴をせず、謝罪や1人当り最高額を200万円とする補償金の支払いを行った。
  • モンゴルエンフバヤル大統領と2006年8月に会談。その後、モンゴルに対して多額のODAを行い、モンゴルは2008年の非常任理事国ポストを日本に譲っている。
  • 外務省機密費流用事件等で問題となっていた外務省に対し、事務次官経験者である斎藤邦彦JICA総裁、林貞行駐英大使、柳井俊二駐米大使、川島裕外務省事務次官の4人および飯村豊官房長の更迭を行った (2001/8/2)。
  • 国別では、米国8回、韓国7回、ロシア4回、インドネシア4回、中国3回、タイ、マレーシア、ベトナムにそれぞれ2回訪問した。またブルネイ、シンガポール、フィリピン、ラオス、カンボジア、モンゴルなどのアジアの国々や今まで首相がほとんど訪問していなかったウズベキスタンやカザフスタン、イスラエル、ヨルダン、パレスチナ、サウジアラビア、エジプト、トルコなどの中近東諸国にも訪問している。
  • NHKプロジェクトXで紹介された、イラン・イラク戦争の際邦人を救助したトルコ航空元機長のアリ・オズデミルと2006年1月12日に面会した。
  • アジア太平洋経済協力会議首脳会議 (APEC) に5回、東南アジア諸国連合 (ASEAN) +日中韓首脳会議に5回、アジア欧州会議 (ASEM) 首脳会議に3回などのようにアジア地域の中心の多国間協議に総理として積極的に参加していた。
  • また、多くの国を訪問し多くの国際会議の常連メンバーであったため、当時のアジア各国首脳、フィリピンのアロヨ大統領や、マレーシアのマハティール首相、シンガポールのゴー・チョク・トン首相などとも非常に親しかった。一方靖国神社参拝により中国首脳との関係は韓国首脳以上に悪く、2002年以降首脳の相互訪問を拒否され、2005年4月から2006年9月の退任まで第三国で中国との首脳会談は行わなわず、退任後も亀裂化したままである。
  • サミットにも6回出席の常連メンバーであり、そのつど各国首脳と多国間・二国間の会談を重ねている。そのため、アメリカのブッシュ大統領だけではなく、フランスのシラク大統領、ドイツのシュレーダー首相、ロシアのプーチン大統領、イギリスのブレア首相とも「率直に話のできる顔見知りの仲」であり、重要な案件でも首脳同士が直接電話で話をして決めることもあった。
  • またウズベキスタンやカザフスタンなどに対し、資源の優先的供給を受けるための資源外交・経済外交の展開を始めた。
  • 靖国神社参拝により、中国韓国の態度を硬化させ、在任期間中は首脳会談はもとより、首相特使派遣すらできないほどまでに関係が悪化した。小泉は韓国と中国が日本との首脳会談に応じなかったことを批判し、「いつか後悔することになるだろう」と発言した。中国は小泉政権での日本の常任理事国入りには強固に反対の姿勢を示すようになり、さらにアメリカがイラク戦争を反対したドイツの常任理事国入りに反対したことでG4改革に反対し、日本は常任理事国入りを断念せざるを得なくなった。それにより日本では「国連分担金を削減すべき」という世論が高まった。
  • アメリカ同時多発テロ後にテロ対策特別措置法を制定し、アメリカのアフガニスタン侵攻では海上自衛隊をインド洋に派遣し、イラク戦争後は米国主導の「イラク復興事業」に支援活動として陸上・航空自衛隊の派遣を決定したが、派遣した国の首脳の中で唯一、現地慰問を行わなかった。
  • 戦略的外交諮問機関 対外タスクフォース を設立。
  • 日本に観光客を呼び込むYOKOSO!JAPANキャンペーンを実行。その一環として、中国人韓国人台湾人等の観光客に対するビザ免除等を行った(日本国籍保持者は相互主義により相手国でビザ免除となる)。2003年の時点で524万人であった訪日外国人旅行者数は2007年には834万人となり過去最高を記録した。
  • 北朝鮮に訪朝し金正日総書記と正式会談。北朝鮮政府は日本人拉致への直接関与を認めた。また、5人が生存して日本へ帰国(交渉継続中)。

靖国神社参拝をめぐる動き

2001年に就任以来、靖国参拝を堅持する小泉に対して、江沢民国家主席または中国政府はすでに4年間にわたって日中間首脳の相互訪問を拒み続けてきた。最初の参拝の際には終戦の日には行かなかったために結局中国の圧力に屈したと漫画家の小林よしのりは非難している。2001年にAPECのために上海を訪問して、同年に首脳会談で北京を訪問した小泉は抗日戦争記念館に訪問して遺憾の意を表し、そこで献花を行った(日本政府首脳が盧溝橋で献花するのは初)。しかし小泉は靖国参拝を行っても同年10月26日には中国大使館にて「川劇」を参観しており、小泉は「川劇」を絶賛、出演者に敬意を示した。2002年には海南島の「ボアオ・アジア・フォーラム」第1回年次総会に出席し、同年の9月26日には中国の建国53周年と中日国交正常化30周年を祝う大型レセプションを開催したものの、日中国交正常化30年で式典で中国に訪中を拒否されており、2002年以降小泉は中国に訪問していない。小泉の北朝鮮への電撃訪問の際に江沢民に直接電話をしたが、江沢民はこれを拒否をした。胡錦濤が国家主席になっても冷却した関係であり、そんな中、2004年マレーシアで開催された東アジアサミットの際は、共同宣言に署名する際に、自分のペンを使わず、日本との首脳会談を拒んでいた中国の温家宝首相からわざわざペンを借りて署名し、両国の関係改善を示唆するパフォーマンスに各国首脳から拍手が送られた。しかし同年のアジアカップではこれが影響で反日ブーイングが起きた。中国の胡錦涛国家主席との会談が決まらなかった。

2005年に反日デモが起こり、同年秋に小泉が5回目の靖国参拝を果たすと、中国政府はさらに、国際会議を利用して日中首脳会談・外相会談をすべて拒否するという強硬姿勢を示した。小泉は「靖国参拝するから首脳会談に応じないというのは、私はいいとは思っていない」と中国を批判した。第3国での会談も2005年4月のジャカルタで胡錦濤国家主席と実施したのが最後となっている。また2005年に呉儀副総理との会談も急遽キャンセルとなった。中国人タレントのaminは「愛・地球博」ファイナルテーマソングを小泉の前でも歌っていたものの、同年10月の「日中友好歌謡祭」の招待を小泉は取り消された。同年の11月中旬釜山でのAPEC首脳会議、12月中旬マレーシアでの東アジアサミットでも首脳会談は行われなかった。APECの閉幕後、イギリスのメディアの記者は、靖国神社の博物館では、アジアでの戦争は日本の防衛のためだったとか、南京大虐殺はなかったなどと主張しているが、これを支持しているかと質問した。小泉は「その見解は支持していない」と明言、「多くの戦没者に哀悼の誠を捧げるために参拝している。そして戦争の反省を踏まえ2度と戦争をしてはいけないということから参拝している」と述べ、参拝は戦争を正当化するものではないとの立場を示した。唐家璇は「日中関係の改善は小泉首相に期待しない」と述べ、安倍晋三官房長官は同発言について「指導者としては不適切な発言」と抗議した。

2006年には、閣僚や自民党首脳が中国を訪問しても事態は好転せず、日中関係は最悪の関係にあった。後の首相となる安倍と麻生は小泉同様に中国を批判し、ロバート・ゼーリックは安倍・麻生との会談では「アメリカは日中関係を良くするために何かする必要があれば喜んでしたい」と仲介役を申し出た。しかし小泉は退任直前までに靖国参拝の姿勢を貫き、終戦記念日に念願の参拝を行った。

退任後も亀裂化しており、人民日報は訪中を決断した安倍を「智者」と持ち上げて絶賛する一方、靖国神社参拝問題などで日中関係を悪化させた小泉を「自己陶酔する独裁者」と非難した。東京・八王子市で演壇に立った小泉は「多くの戦没者の方々に敬意と哀悼の誠をささげるために私は靖国神社に参拝してきた。もし多くの国民が私の靖国参拝を批判するならば、そのような国民の総理大臣になっていたいと思わない。中国政府は将来『なんと大人げない恥ずかしいことをしたのか』と後悔する時がくる」と発言。中国の唐家セン国務委員が来日して友好ムードを盛り上げている最中に靖国参拝を理由に首脳会談を拒み続けた中国への怨嗟であり、親中路線にひた走る福田康夫への警鐘とも受け取れた。胡錦濤が来日を歓迎する朝食会・夕食会に小泉が参加せず、2008年に開催された北京オリンピック開会式に歴代首相の福田康夫・森喜朗・安倍晋三や東京都知事の石原慎太郎を招待したのに対し、小泉は招待されなかった。

2010年12月の講演会で開かれた国際安全保障学会年次大会で、小泉は日中関係については「日中関係は大事だ。私は日中友好論者だ。経済を考えれば、これから日中関係は極めて重要だ。だが、一国の関係は経済だけではない。日本の平和と独立を守るためにアメリカに代わる国はない。」と述べ、日中首脳会談については「胡錦涛国家主席との会談が決まらなかった。外務省の担当者が「中国が『来年靖国神社を参拝しなければ会談する』と言っている」と言う。「じゃあ、小泉は来年、必ず靖国神社に参拝すると言ってます。会談をしたくなかったら、しなくて結構です」と。すると中国は「会談前と会談後に『靖国神社参拝する』と言わなければ会談する」という。だから私は記者に聞かれて「適切に判断する」と言った。中国は拒否しないでokしてきた。私の方がびっくりした。本当に首脳会談をしないと言ってきたのは、2005年に首相退任を明言してからだ。」と述べた。

韓国の場合、金大中は対日穏健派であったために難無く日韓ワールドカップに出席しており、反日的な盧武鉉になると当初は良好であったが、後に小泉が国際連合安全保障理事会常任理事国入りを目指すと盧武鉉が反日路線に切り替え、靖国神社参拝を理由に2005年には日韓シャトル外交の中止を迫られ、他に竹島問題で反日感情が高まり、同年の6月には子供達が描いた反日ポスターが地下鉄駅に展示させられた際に「小泉首相を犬や猿に模して中傷する絵」があった。さらに大邱日報によると、8月18日に親日派財産を取り戻すための汎政府機構である「親日反民族行為者財産調査委員会」が本格発足し、支持率回復もあって盧武鉉は同年の12月に親日反民族行為者財産の国家帰属に関する特別法を制定した。しかし盧武鉉の死後、小泉は駐日韓国大使館1階に設けられた盧武鉉前大統領の焼香所を訪れ献花した。

靖国神社参拝に反発する中国・韓国との関係は悪化。反日感情が強い韓国と中国、反日感情が比較的穏やかな香港で起きた反日デモで自身の肖像が燃やされる事も度々あった。一方、台湾の歴代総統の李登輝陳水扁からは支持を得ており、陳水扁は台湾新幹線開業式に招待をしたものの、台湾では外省人が多い一部の国民党からは批判があり、退任後小泉は歴代首相と違い台湾の要人との会談や個人での台湾訪問を行っていない。

対外関係・外国からの評価

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  • アメリカブッシュ大統領とは仲の良さをアピールし、日本の首相としては初めてエアフォースワンに搭乗しキャンプデービッドの別荘に招かれた。2003年にはブッシュ夫妻が所有するテキサス州のクロフォード農場にも招かれた。
  • 北朝鮮に対しては「対話と圧力」を掲げて、硬軟取り合わせた対応を行った。2006年のミサイル発射問題では関係国中最も強硬な国連外交を展開した。
  • 2002年のカナナスキスサミットの際、2003年のエビアン・サミットの日程とロシアのサンクトペテルブルク建都300周年記念行事の日程が重なっていたため、各国首脳がその記念行事に参加できないという悩みをプーチン大統領が抱えていると知った小泉総理は、サミットの日程を2日ずらすことを進言し、シラク大統領も了解したことから、各国首脳はサンクトペテルブルクを訪問した後にエビアンに行くという日程になった。このことに対してプーチン大統領は「感謝に堪えない。公表できないがシベリアに金正日がくるので協力できることはないか」ということとなり、その後プーチン大統領は金正日に小泉のメッセージを伝えることを約束した。その後もプーチン大統領との友好関係は続き、2003年にロシアを訪問した際には晩餐会終了後に、プーチン大統領のクレムリンの個人住居に招かれ、通訳を交えただけの2人きりで約1時間半にわたって懇談した(なおロシアでは大統領が非公式に外国の首脳と懇談するのは異例のことである)。小泉は政界引退後も露日経済協議会理事長の職にあり、また北方領土問題解決に強い関心を持っているといわれる。
  • 2002年のカナナスキスサミット終了後、ドイツのシュレーダー首相が政府専用機のスケジュールの調整ができずに日韓ワールドカップの決勝戦(ドイツ対ブラジル)を見に行けないと悩んでいることを知り「だったら日本の政府専用機に乗っていったらいいじゃないか」という話になった。そしてシュレーダー首相は日本の政府専用機に乗り日本に向かいワールドカップ最終戦を観戦した。その際機内では首脳会談が持たれ、懇談の際にはサッカー談義にも花が咲いた。外国首脳が日本の政府専用機に搭乗したことはこれが初めてのことである。
  • 2002年のサミットにおいて、カナダの日刊紙『グローブ・アンド・メール』の「サミットのベストドレッサー」に選ばれた。
  • 2002年のサミットにおいて、シラク大統領が各国の首相の前で、日本のお辞儀は相手によって頭の下げ方が変わると主張した際、小泉首相は「君にはこうしなくちゃいけないだろうな」と言いブッシュ大統領の前で土下座をした。(共同通信配信2007/10/17)
  • 2002年の国連総会において、演説終了後、演台裏手のロビーで小泉総理に挨拶を求める各国代表の列において国連職員が「こんなに長い列ができるのは珍しい」というほどの長蛇の列ができた。
  • 2003年の国連総会においては、演説終了後300人近くの各国代表者などが演台の後ろのロビーに並んで小泉の演説に対する賞賛の意を表した。讃辞の列は次の代表の演説も終えた頃まで続き、多くの国連関係者を驚かせた。
  • 2002年にシンガポール訪問時に、シンガポールのナザン大統領を表敬訪問した際、ナザンから「自分の孫娘が小泉総理のファンなので一緒に写真を撮ってもらえないか」と頼まれ、快く応じた。
  • 2006年のアメリカ訪問時に「アメリカは一人で悪に立ち向かっているわけではありません。常に多くの同盟国、友好国とともにあります。そして日本はアメリカとともにあるのです」と演説をし、鳴り止まないほどのスタンディング・オベーションを浴びた。
  • 2010年暮れに出版された元イギリス首相トニー・ブレアの回顧録によると、イラクをめぐり米英と仏独の対立が高まっていた2005年に、ジャック・シラク仏大統領が「料理がまずい国の人間は信用できない」と英国を非難する放言騒ぎが発生した。英国でブレアが議長を務めた先進国首脳会議 (G8) の晩餐会がこの事件の数日後に開催され、小泉は供された食事を摂りながら、「英国料理はうまいよな?ジャック!(Excellent English food, isn't it, Jacques?)」と大声でシラクに向かって叫ぶことでたしなめ、フランスを牽制しつつホスト国である英国の面目を助けるアドリブを放った小泉は快活で、他の日本の政治家とは異なり、会議のムードメーカーだった、とブレアは述懐している。
  • 1991年、当時のアメリカ副大統領であったダン・クエールと談笑した際、クエールに在日米軍の駐留費を引き上げないと撤退させるぞと脅されたが、その場に居合わせた小泉のみが明確にノーと発言し、撤退するなら日本には真の独立心が芽生えるだろうと言い残し、クエールを黙らせている。

人物像

  • 「脱派閥」を訴え、総理在任中は派閥の意向にとらわれない政権運営を行ったが、総理となるまでの小泉自身は派閥政治家の一面もあり、派に対する忠誠心も強かった。ポスト中曽根の後継で竹下登が指名され(いわゆる「中曽根裁定」)、安倍晋太郎が敗北した際の安倍派の打ち上げでは、先輩政治家たちがお通夜のように静まりかえる中、遅れて料理屋に入ってきた安倍に対して、小泉はいきなり卓をダーンと叩き、「だからあんた、甘いんだよーッ!」と怒鳴りつけたという。あまりの剣幕に周囲は唖然として声もなく、安倍はただ黙って苦笑いするしかなかったと、同席した平沼赳夫は述懐している。
  • 骨太の方針”をまとめるさなか、「ぼくは高杉晋作の生き方を見習おうと思っている」と述べている。
  • 人と会話するとき身振り手振りを交えながら一言一言を短く簡潔に言いたいことをわかりやすく表現する喋り方が特徴。
  • 郵政民営化道路公団民営化などに反対する議員・団体・勢力を「抵抗勢力」と呼んだ。
  • 国会演説や記者会見などで、国民に対して自助と自律の精神を呼びかけた。
  • 愛読書は『ああ同期の桜』(海軍飛行予備学生第14期会編)。
  • 国会では「極東国際軍事裁判を受諾し、A級戦犯戦争犯罪人と認識している」と答弁している。
  • 2006年9月の自民党総裁任期満了をもって総理及び総裁の両役職を辞める旨を会見などで早くから発言し、任期満了までに時間がある時点からポスト小泉人事が話題となっていた。小泉自身は総理・総裁辞任後は院政を敷くつもりはないと発言し、総裁選直前には安倍晋三支持を明確にした。
  • いわゆる「付け届け」とみなされる行為を極端に嫌う。人からの贈り物はほとんど受け取らず、バレンタインのチョコレートも受け取ったことはない。
  • 政治家として結婚式の仲人もした事があるが、式の席上で仲人の新郎新婦紹介の際、「結婚はそんな甘いものじゃあない!」と発言し、列席者全員を驚かせたことがある。
  • 2008年の突然の引退表明は驚きを与えたが、以前から引退時期について問われると、父親(小泉純也)の死んだ65歳までと度々発言しており、当時66歳となっていた小泉にとっては「公約」通りの身の処し方となった。
  • 首相就任以来、毎日通常2回、官邸で総理番記者の質問(ぶら下がり)に立ち止まって答えた(小泉以前の首相は答えない場合もあったり、質問に答える場合でも歩きながらという慣習であった)。
  • 「自民党をぶっ壊す」「私の政策を批判する者はすべて抵抗勢力」と宣言して総裁選に勝利、発足時の内閣支持率は戦後最高を記録した。一部では「ナチズム」「ブーランジスム」と揶揄される程の驚異的支持率であった。
  • 2001年9月の臨時国会における所信表明演説ではチャールズ・ダーウィンの進化論を経済社会にも取り込むよう発言した。ただ、ヒトラーが進化論を演説に取り込んだこともあり、欧米では演説に細心の注意が払われる傾向にある。
  • 田中眞紀子(当時外相)の更迭時には支持率が急落するものの、終始40パーセント以上の支持率を保ち続けた。
  • 聖域なき構造改革」として、国民に対して痛みを伴う改革を主張した(野党には「痛みしか伴わない」と揶揄された。)。
  • 衆議院選挙における小選挙区比例代表並立制に一貫して反対し、選挙の際は重複立候補していない(2005年の郵政選挙では一時期小泉本人の重複立候補が決まりかけていたが、最終的に取りやめとなった)。1996年の衆院選で当選が決まったあと、選挙事務所からTV中継されたインタビューにおいても「選挙区で落選した議員が比例区で当選するというのはおかしい。だから私は重複立候補はしない」と述べている。しかし2005年の選挙では自身が否定的なその比例代表並立制の特徴を存分に活用して新人議員を多数当選させる。また、自身の後を継いで出馬した息子の小泉進次郎も重複立候補していない。
  • 靖国神社に参拝する理由を問われると一貫して「心の問題」と強弁して押し通した。他方で政教分離原則に反すると議論を呼んだ。ただ、総裁就任以前には参拝の習慣は無かったようで、靖国参拝は日本遺族会からの支持を期待しての公約だったとの見方もある。
  • 2001年の総裁選においては田中眞紀子から出馬を強く勧められたことを明かし、「立ちなさいと女性から言われて、男として立たないわけにはいかない」と挨拶した。

容姿

  • 身長169cm、体重60kg。21世紀に総理大臣を務めた人物では最も小柄である(鳩山由紀夫は178cm、森喜朗安倍晋三麻生太郎菅直人は175cm、野田佳彦は173cm、福田康夫は171cm)。小柄ながら、歩く際はかなりの早足で、階段などもスタスタと上ってしまう。
  • 髪型がライオンのたてがみに似ているとして、ライオンのイメージキャラクターが作られたほか、首相在任中の小泉はこのイメージを活用し年を追うごとに綺麗に白髪化させている。なお、2005年冬に米国俳優のトム・ハンクスと米国で対面した際、トム・ハンクス本人から「今、小泉総理のヘアースタイルが、米国ですごく流行っている」と言われ、小泉は照れ笑いに終始した。また、「ライオン宰相」と評された濱口雄幸と比較されることもある。
  • 米国俳優のリチャード・ギアと面会した際、「ジャパニーズ・リチャード・ギア」と紹介された。

対人関係

  • 初当選前から福田赳夫に師事した。福田および福田派に対する絶対の忠誠心はよく知られている。
  • 第43回衆議院議員総選挙で落選した盟友・山崎拓を首相特別補佐官として登用している。その後、靖国参拝問題や人事などで山崎との関係は疎遠になったとも言われている。
  • 初当選後大蔵委員会に所属するが、当時の大蔵委は予算委が終わった後夕方から夜に審議をしていたため、宴会等を理由に中座する議員が続出していた。その中で、最初から最後まで席に座っていたのが小泉と山中貞則であり(小泉は最前列、山中は最後列)、このことから山中はことあるごとに小泉に目をかけるようになった。
  • 竹下内閣で国対副委員長を務め、国対委員長である渡部恒三に仕えた。渡部を含む党関係者の誰もが、小泉に務まるのかと心配したが、意外とまともに振舞ったという。渡部が政調会長の渡辺美智雄から批判された際にこれをかばったことを渡部は感謝し「いやあ正論を言ってくれたなあ。君は首相になる」と言ったところ、本当になってしまったと回想している。のちに小泉政権時に渡部が民主党の国対委員長に就任した2006年4月に両者は国会で対峙している。
  • YKKで反竹下派として活動したが、大蔵政務次官として仕えた当時の大蔵大臣が竹下登であり、竹下との関係は比較的良好であった。竹下派を批判する際も、竹下個人の批判はしなかった。
  • 長年選挙対策本部長を務めた竹内清(前神奈川県議会議長)は、暴力団稲川会の元組員であり、石井会長と非常に親しい関係にあった。写真週刊誌『FRIDAY』(2004年6月25日号)は「小泉首相の選挙経歴 - 選挙対策本部長が元暴力団」というスクープ記事を掲載し、この竹内の証言を引き出している。竹内の力によって1969年時の選挙の時に注目を集めた小泉の女性問題に関する中傷はピタリと止み、1972年初当選を果たした。竹内はその後連続10回選挙対策本部長を務め、2001年に政治活動から引退した。

音楽・芸術関係

  • ロックバンド、X JAPANの大ファンであると公言している。その流れから自民党のCMにX JAPANのヒット曲『Forever Love』を採用した。
    • 小泉内閣で経済産業副大臣を務めた高市早苗によれば、小泉とカラオケをした際にX JAPANのシングル曲である『Rusty Nail』を歌ったが、小泉はこの曲を知らなかったという。本人はバラード曲である『Tears』を最も好んでおり、2004年の参議院選挙に向けたCMのBGMへの使用を考えていたが、選挙戦に涙はまずいとして、以前にも自民党が採用した『Forever Love』が再度採用された経緯がある。
    • 1998年5月2日に死去した元X JAPANのメンバーで、同郷でもあるhideの記念館(地元の神奈川県横須賀市)の設立に協力した。
  • オペラ狂言歌舞伎映画鑑賞が趣味。
  • 250pxオールディーズ時代のロックンローラー、エルヴィス・プレスリーの大ファンである。首相就任後の2001年には、自ら選曲し解説を著したエルヴィスのCDアルバムを発表した。
    • 2006年6月30日に日米首脳会談後、エアフォースワンにブッシュ夫妻と同乗し、エルヴィスの旧居である「グレイスランド」を公務として訪問した。そこでエルヴィスの元夫人プリシラに「ラヴ・ミー・テンダー」を歌い、「グローリー、グローリー、ハレルーヤ、っと」と熱唱しながらエアギターを披露した。ブッシュ夫妻はこの時、レコードとジュークボックスをプレゼントした。
    • エルヴィスとは誕生日が同じ1月8日である。
  • 小泉内閣最後の官邸メールマガジンに、ありがとう / ささえてくれて / ありがとう / 激励協力 / 只々感謝 という自作短歌を掲載した。
  • 歌舞伎好きで市川團十郎や彼の息子の市川海老蔵らとも交友があることから、2010年7月29日に行われた海老蔵と小林麻央の結婚披露宴にも参加し、祝辞を述べている。これが議員引退後久々のテレビ出演となった。
  • 冬のソナタ』のファンを自認する。

スポーツ・芸能関係

  • 大相撲に興味があり、しばしば本場所を訪れる。
    • 首相就任直後の2001年5月の夏場所では、たいていは内閣官房副長官(政務)が担当する総理大臣杯の授与を自ら行い、前日の負傷を押して出場し22回目の幕内優勝を勝ち取った横綱貴乃花光司に対して「痛みに耐えてよく頑張った! 感動した! おめでとう!」との賛辞を送った。「感動した!」は流行語ともなった。
    • 2005年11月の九州場所では、総理大臣杯の授与を、再び自ら行った。年6場所全制覇など3つの大記録を達成した横綱朝青龍明徳に対して、「新記録! 大記録! みごとだっ! おめでとう!」と賛辞を送った。貴乃花の時は東京両国国技館であったが、この時は福岡国際センターである。わざわざ福岡まで行った理由について、年6場所を全て制覇したら行くという約束を、その年の初めに朝青龍とかわしていたと記者団に語った。
  • プロ野球では神奈川県を本拠地とする横浜ベイスターズを応援している。同球団の2軍が独立採算制の湘南シーレックスとなった際には、本拠地が地元・横須賀市である事もあり、後援会の結成に協力している。また堤義明とも親交が深く、総理大臣就任以前は堤がオーナーだった西武ライオンズのホームゲームを観戦に西武ドームへ何度も足を運んだ。横浜高校出身の松坂大輔が高卒新人時代に先発した試合を堤とVIPシートで観戦した事もあった。
  • 高校野球では、第85回全国高等学校野球選手権大会2003年)で大会史上初となる現職首相による始球式を行い、ど真ん中へのストライクを投じた。
  • サッカーの2002 FIFAワールドカップでは、ホスト国・日本の首相として大会運営に協力した。大会直前の親善試合では日本代表の激励のために国立競技場を訪問し、約5万人のサポーターから「コイズミニッポン」コールを受けた。また、6月30日の決勝戦がドイツブラジルになったのを受け、カナダカナナスキスサミット第28回主要国首脳会議)で同席したドイツのシュレーダー首相を日本国政府専用機に乗せ、横浜国際総合競技場に招待した。外国の要人が日本国政府専用機に乗った最初の例である(一般に政府公用機は民間航空機とは異なり駐機中でも機体所有国の法令が適用される(治外法権)など特別な事情があり、外国の元首や要人が同乗するのは異例)。
  • スポーツで日本人選手や日本代表が活躍をすると、記者会見で称賛などのコメントを行っている。
  • 連珠に精通しており、連珠で二段を取得している
  • 1998年、世界のワイン名士・著名人に贈られるメドック・グラーヴ・ボンタン騎士団騎士の称号を送られた。
  • 1999年に放送されたドラマ「TEAM」(フジテレビ系)に文部大臣として出演したことがある。また同じ年に、同じくフジテレビ製作の「SMAP×SMAP」のBISTRO SMAPのコーナーにも出演している。番組中に中居正広は「総理大臣になるのではないか?」と冗談で言ったが、現実のものとなった。日本テレビ製作の「モー。たいへんでした」にも出演した。
  • 小泉の選挙区内の横須賀出身で横浜高校から東京帝拳入門したバンタム級プロボクサー大和心を応援していた。
  • 2002年5月26日に東京競馬場で行われた東京優駿(日本ダービー)に来場し、表彰式で優勝馬(タニノギムレット)の馬主(谷水雄三)に「内閣総理大臣賞」を授与した。現職首相のダービー観戦は、1958年の岸信介首相以来の44年ぶり2回目。
  • 2009年の映画『大怪獣バトル ウルトラ銀河伝説 THE MOVIE』にてウルトラマンキングの声を担当している。
  • 株式会社エスエンタープライズに講師登録しており、同社の看板登録講師となっている。

ロンドン大留学について

公式プロフィールでは留学とされているが、実際は聴講生で単位取得はなし。『週刊ポスト』(2004年2月27日号と3月5日号)には「小泉首相が初挑戦した1969年12月の衆院選挙の際の選挙公報、初当選した1972年12月の衆院選挙の選挙公報に届出されていた小泉首相の履歴は“慶應義塾大学卒。ロンドン大学政治経済学部留学”とあるが、これはあやふやな表現に当たる。なぜなら、ロンドン大学群の一つのユニバーシティ・カレッジ・ロンドン(University College London)に政治経済学部はないからである。ロンドン大学群にはいくつかのカレッジがあり、政治経済学部といえば一般的にロンドン・スクール・オブ・エコノミクスを指し、世界中から優秀な学生が集まることで知られ、ノーベル経済学賞受賞者を多く輩出しているが、小泉元首相が在籍したのはここではない。小泉首相はユニバーシティ・カレッジ・ロンドン(ロンドン大学群)の経済学部に1年足らず聴講生のような形で語学留学していた。」とある。そもそも、ロンドン大学という単一の大学はない。

人物評

  • YKKでは、、政策の加藤に対比して、政局の小泉と評された。
  • 1998年の自民党総裁選に出馬した際田中眞紀子小渕恵三凡人、士官学校卒の梶山静六軍人、そして小泉を変人と評した(総裁選で選ばれた際の真紀子の演説では「変人の母でございます」)。以後このニックネームが定着したが、このとき本人は「『変人』とは『変革の鉄人』のことである」と述べている。2005年の郵政解散の折には、参議院での法案否決による衆議院解散を思いとどまるよう説得に訪れた森喜朗に「変人以上」と評されている。
  • 麺類を好む。幅広麺には一家言もつ。

語録

  • 橋本首相だったら大して変わらない。私になったら劇的に変わる。そこがこの総裁選の最大のポイントです」(1995年9月16日、日本経済新聞インタビュー)
  • 自身初となる自民党総裁選に立候補したときの発言。
  • 「私は勘弁。アイ・アム・ソーリーだよ」(1996年12月、テリー伊藤との会談)
  • 「『変人』の生みの親から『変革の人』と言っていただき、これほど力強いことはない」(2001年1月27日、自民党本部出陣式)
  • 次期自民党総裁選に“小泉”を推す事を表明した田中眞紀子の応援に応えての発言。
  • 「(もし自民党が改革政党にならなかったら)私が、小泉が、自民党をぶっ潰します!」(2001年4月)
  • 「首相に就任したら、8月15日全国戦没者追悼式の日に靖国神社を、いかなる批判があろうと必ず参拝します」(2001年4月18日、自民党総裁選討論会)
  • 「適切に判断します」 - 靖国神社に内閣総理大臣としていつ参拝するのか?という国会議員や記者の問いに対して。
  • 構造改革なくして成長なし」(2001年5月7日)
  • 第151回国会の所信表明演説で、構造改革を思い切って進めていくと決意表明。
  • 「旧郵政省の訳の分からない論理は、小泉内閣には通用しない!」(2001年5月9日)
  • 施政方針演説民主党代表質問にて、郵政民営化を問われたことに対して、衆議院本会議での答弁。
  • 「痛みに耐えてよくがんばった! 感動した! おめでとう!」
  • 2001年5月の大相撲夏場所で横綱貴乃花が幕内で優勝し、その表彰式で内閣総理大臣杯を直接手渡した際の発言。
  • 「私の内閣の方針に反対する勢力、これはすべて抵抗勢力だ」(2001年 - 2002年)
  • はいいよね」「私が一番傷ついている」「は女の最大の武器」(2002年1月30日、田中眞紀子外務大臣を更迭して)
  • 「この程度の約束を守らないのは大したことではない」(2003年1月23日、衆議院予算委員会
  • 3つの公約(靖国神社8月15日参拝、日本国債30兆円枠、ペイオフ解禁)に対する民主党の菅直人代表との激しい大舌戦で発言。論戦後、「この程度の約束発言」について「公約は大事ですよ。国債発行30兆円枠を守るのと、経済情勢を見て柔軟に対応するのとてんびんにかけて。靖国だってそう。許容範囲です」と弁解。後にこの発言を撤回。なお、小泉は3つの公約について首相在任中に達成している(2006年8月15日靖国参拝、政権末期の2006年度予算で国債30兆円枠達成、2005年4月1日ペイオフ解禁)。
  • 「今イラクのどこが非戦闘地域で、どこが戦闘地域か、そんなの今ここで私に聞かれたって分かるわけがないじゃないですか!」(2003年7月23日、党首討論
  • 民主党菅直人代表の「非戦闘地域というのはフィクションではないか。1ヵ所でもいってみてください」という質問に対しての発言。
  • 集団的自衛権を認めるなら、憲法を改正した方がいい」(2003年7月25日、参院外交防衛委員会)
  • 「おだやかで快活な冗談を飛ばす頭の回転の速い人だ」、「独裁者の国では交渉が(その後の協議で)変わる。独裁者の考えは私自身が確かめるしかない」(参院・イラク武力攻撃事態特別委員会)
  • 金正日総書記の印象をこう語った
  • 「野球界にも権力闘争があるんだね」
  • 原辰徳の辞任を聞いた小泉純一郎は、記者団にこのようにコメントした。
  • 人生いろいろ会社もいろいろ、社員もいろいろ。岡田さんの会社だって、みんながみんな同じように働いてるわけじゃないでしょう?」(2004年6月3日、党首討論)
  • 民主党岡田克也代表が、厚生年金加入時の会社の勤務実態を追及するとこう答えた。
  • 自衛隊の活動しているところは非戦闘地域である」(2004年11月10日、党首討論)
  • 岡田民主党代表に「イラクの戦闘地域と非戦闘地域とについて、具体的にどういう状態を指すのか」と聞かれての発言
  • 「(郵政民営化の)基本方針を絶対に変えない。ちゃんと理解しておけ。自民党はとんでもない男を総裁にしたんだ」(2004年11月、与党の夕食会で)
  • 「おれの信念だ。殺されてもいい」(2005年8月6日、官邸で森喜朗前首相に)
  • 参議院本会議で郵政民営化法案の否決が濃厚になり、衆議院解散を思い留まらせようと会談した森喜朗前首相にこう答えたという。
  • 「今回の選挙は、いわば、郵政選挙であります。郵政民営化に賛成してくれるのか、反対するのか、それを国民に問いたい」(2005年8月8日、衆議院解散後の記者会見)
  • 「その時ガリレオは、『それでも地球動いている』と言ったそうであります」(2005年8月8日、郵政解散後の記者会見)
  • 無党派層は宝の山」
  • 2005年9月20日、衆院選で初当選した83人の自民党の新人議員を対象にした研修会における発言。
  • 「新記録! 大記録! みごとだ! おめでとう!」
  • 2005年11月の大相撲九州場所で、年6場所全制覇など3つの大記録を達成した横綱朝青龍明徳に、内閣総理大臣杯を直接手渡した際の発言。
  • 「格差が出ることが悪いとは思わない。今まで悪平等だという批判が多かったし、能力のある人が努力すれば報われる社会にしなければならない」 (2006年2月1日、参院予算委員会)
  • 「総理大臣である、人間小泉純一郎が参拝しているんです」(2006年8月15日、靖国神社参拝後の記者質問に対して)
  • 「政治家は使い捨てにされることを嫌がってはいけない。総理大臣だって使い捨て。甘えちゃだめです。『使い捨てされるなんて嫌だ』なんて言った人は、国会議員にならないほうがいい」(2006年11月7日、日本夢づくり道場での講演)
  • 「おれにはそんな金はないよ」(2007年6月13日、自民党の中川秀直幹事長から、年金支給漏れ問題で歴代厚生大臣の責任により、給与返納に言及されたときの返事)
  • 「人生には上り坂もあれば下り坂もあります。もう一つ坂があるんです。『まさか!』というであります。まさかあのような形でね、安倍さんが退陣するとは思わなかった」(2007年10月4日)
  • 「政界では、権力闘争は当たり前だ。をどう味方に変えるかが大事だ。造反組は政治の信念を曲げ、土下座するようなことを引き受けたのだから、認めてやってもいいのではないか」
  • 総理退任後、小泉チルドレンに向けて言い放った。
  • 5人の候補者の全員が小泉内閣の閣僚だった。だから私も今の時点で誰を(支持する)と言うのはちょっと躊躇してるんですよ。(競泳五輪金メダリストの)北島選手じゃないけど、今の時点では『何も言えねえ!』と」(2008年9月、ポスト福田について)
  • 「わたしは最近の麻生太郎首相の発言について、怒るというよりも笑っちゃうくらい、ただただ呆れているところだ」「私についても、(首相が)常識の通じない男だとかね、奇人変人とか言っているようだが、私は自分では常識をわきまえている普通の人だと思っている」(2009年2月12日)

「原発ゼロ」

  • 原発が最もコストが安いとして新設、増設とはいかない」「国民は原発が安全だとは信用しなくなった」「自然エネルギーや再生可能エネルギーの技術開発に投資し、環境先進国を目指すべきだ」
  • 2011年9月18日、川崎市のホテルで講演した際に。
  • 「原発ゼロしかないよ」「今ゼロという方針を打ち出さないと将来ゼロにするのは難しいんだよ。野党はみんな原発ゼロに賛成だ。総理が決断すりゃできる。あとは知恵者が知恵を出す」(2013年8月中旬フィンランドの核廃棄物最終処分場「オンカロ」を視察後、新聞記者に聞かれて原発の即時ゼロを要求)

小泉家

神奈川県横浜市金沢区大道、横須賀市
祖父小泉又次郎慶応元年(1865年)、武蔵国久良岐郡六浦荘村大道(現在の神奈川県横浜市金沢区大道)にとび職人由兵衛の二男として生まれた。又次郎が生まれた当時、鎌倉街道に面したこの地は、戸数わずか三十二戸の小さなであった。父・小泉由兵衛は村の代々の鳶職だったが、のちに軍港横須賀に進出して、海軍に労働者を送り込む軍港随一の請負師 になった。

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当時の横須賀では沖仲仕の手配師として目兼の大親分と小泉組が縄張りを競い合い、博徒 たちの賑やかな出入りが繰り返されていたという。
1884年(明治17年)に海軍鎮守府が置かれた横須賀は、日清戦争から日露戦争にかけて軍港として急速に発展したが、ここでも、軍艦に砲弾や燃料の石炭、食糧などを積み込む仲仕の組織が発達し、これを仕切る仲仕請負からやくざ組織が生まれていった。当時、横須賀でこの仲仕の仕切りでしのぎを削ったのが、博徒の目兼組と鳶の小泉組であった、とび職人請負師
1865年慶応元年)5月生 - 1951年昭和26年)9月
父はとび職人・請負師の小泉由兵衛。『小泉又次郎伝』によると、又次郎の少年時代は詳細な記録もなく不明な点も多いが、“気っ風(ぷ)と腕っ節、根性がものをいう商売”、“意地と我慢の商売”といわれる家業で、又次郎はその血を引き、そのような家風で育った。
普選運動の闘士として庶民人気が高かった。
純一郎が厚生大臣に就任したとき、フォーカスのインタビューで祖父のことをこう語っている。「いまじゃゴルフ場にも入れてくれないのにな。
  • 母・芳江(父は小泉又次郎、母は石川ハツ)
1907年(明治40年)生 - 2001年平成13年)10月
又次郎は、正妻ナオ(元芸者)との間に子がなかったので、石川ハツ(富山県滑川出身が芳江(純一郎の母)を産んだ。又次郎によると「誰の腹でもいいから、自分の子供はもっておくものだね」という。石川ハツはその後、山口忠蔵という男と結婚し、3人の子を産んだ。石川ハツが結婚した山口忠蔵はおみこしなどを造る宮大工だった。山口忠蔵にも入れ墨があった。佐野眞一によると「山口忠蔵は、仕事の性質や入れ墨を彫っていたことなどから考えて又次郎の配下の者、もしくは弟分だったと思われる。だとすると、又次郎はハツに一人娘の芳江を産ませたのち、遠慮も何もいらない立場の山口忠蔵にハツを“お下げ渡し”したのではないか。又次郎と山口はいわば “入れ墨兄弟” の関係ではなかったか?」という。
妻は石原慎太郎の妻・典子の従兄弟の娘
1978年(昭和53年)7月生 -

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1981年(昭和56年)4月生 -
  • 三男
母佳代子と同じ宮本姓を名乗っている。「妊娠六ヶ月で離婚された佳代子が一人で三男を産むと、小泉側は親権を主張し、家裁での調停に持ち込まれた。その結果ようやく佳代子が三男を引き取ることができた。三男が「父親と二人きりで会いたい」と涙ながらに小泉事務所に電話で訴えてきたことがあったが、その話を秘書官の飯島から伝え聞いた信子は「血はつながっているけど、親子関係はない」と冷たく言い放った」という。
三男は中学卒業後にアメリカ・テネシー州の高校に留学。帰国後は京都の私立大学に通い、中国語を学んだ。しかし、この間も父や兄に会うことは一度もなかった。2010年末、東京・赤坂にあるレストランのカウンター席に父と3人の息子の4人が並んで食事を楽しんでいた。2013年末には絶縁状態だった三男の結婚式に父・純一郎とその息子たちも出席した。

著書

関連テレビ番組

参考文献

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平成を愚民の時代にした30人のバカ

「適菜本」もさすがに最近出すぎかな・・という印象はあるし、内容自体に新鮮味は無かった。しかし、それでも適菜氏の主張が非常に貴重に思えるのは、巷間に溢れかえる類書がその「政治的」立ち位置にこだわって、その立ち位置を「正当化」するのに汲々としているのに対し、彼は「右」だの「左」だのでは無しに「何が日本と日本人をダメにしていったのか」という「核心」の部分を誠に容赦なく抉り出している点である。適菜氏の著書を短絡的に単なる「安倍・小池批判本」と思い込んでの「非難」が散見されるが、それは「感情」や「空気」でしか物事を判断出来ない人が増えている事の、何よりの「実例」なのかもしれない。



本書で俎上に上がっている「30人」(正確には他のレビュアーの方もご指摘の通り30「人」では無いが)の人選はまさに適切かつ「多士済々」と言える。本書を読んで痛感するのは、ニッポン人は、「現状」を「変革」しなければならない!というキモチを常に持った極めて「マジメ」な人々にも関わらず、最も肝心な筈の「何をどのように」「変革」する事が本当に日本の「これから」にとって必要なのかという「考察」が常にスッポリと抜け落ちているため、同じような失敗ばかりを繰り返しているのだ、という残念過ぎる実態。誰かの決めた「愛国心」に従わない奴らは非国民だ!と国中で陶酔した挙句に、国そのものを台無しにし、その直後には手の平を返したように「戦前」の全てを否定するという極端に走った70数年前の出来事がまさに象徴的ではあるが、それ以来この国の人々は(プライドだけは高くなったが)全然成長せず、高度成長&バブル期の「貯金」が枯渇しつつある今に及んでも同じ事ばかり繰り返しているという訳だ。こういうニッポン人たちの「弱点」を見事に突いてのし上がった小泉氏や小池氏の抜け目の無さにはある意味「感心」させられる(誠に遺憾ながら「民主党政権」には彼らほどの「狡猾さ」は全く無かったと見える)。

民主党政権が崩壊し、安倍氏が首相に返り咲いたあのタイミングは、今思えば日本の政治が「マトモさを取り戻す」最後のチャンスだったと思われるが、あれから5年以上経ち、この「美しい国」の劣化はますます進んでしまった。約束を守らなくとも、責任を何らとらなくとも、結果を出せなくとも自分たちの地位は安泰で、政権与党を批判する勢力には「そんな事を言う輩は日本をダメにしたい反日分子だ!」と「糾弾」してくれる親衛隊がいる。「無能・無責任な権力者たち」にとってこれほどに美味しい国は無い。しかしこんな状態は長くは続かない。適菜氏が繰り返し指摘しているように最早日本の「オシマイ」はすぐそこに迫りつつある。本書の唯一物足りない点は、この国の「愚民化」に多大なる「貢献」をしている数々の「言論人」を「安倍に群がる乞食ライター」として一括りの「章」に納めてしまっている事。ここでのケント・ギルバート氏に対しての著者の攻撃はまさに的を射抜いた感じで思わず笑ってしまうが、彼らの「愚民化への貢献ぶり」をもっとスペースを割いて論じて頂きたかった(これだけで1冊の書籍が成立するのでは、と思う程である)。

「フクシマの事故」は「民主党政権の対応のまずさのせい」と決めつける反面、そこに至るまでの自民党政権のデタラメな原発政策には全く触れず、しかも「事故の後始末」をいつまでにどうやって完遂させるのかに関して全く具体的な展望も示せないのに「それでも原発を!」と強弁する櫻井某女史、「都合の悪い事は報じない偏向メディア」を口を極めて非難しながら、自分の主張にとって都合の悪い事柄には何の検証も行わないギルバート某や髙橋洋一大先生。そして、日本が良くならないのは政権与党の実行力、ビジョン、責任感の欠落では無く「反日マスコミや野党の仕業である」とひたすら責任転嫁する書籍の山。「他人がやる事は許せないが、自分たちが似たような事をやるのは全く問題なし」とでも言いたげな、「子供の言い訳」のような見苦しさを放つこれらの「言論人」に対し、「これぞ『正論』だ!」と熱狂する人々。この惨状を、著者にはもっとスペースを割いて舌鋒鋭く語って頂きたかった。
それにしても、政権与党が有権者に約束した事柄を、どれだけ真摯に「実行」しようとしているのかをチェックし、それを基に政権与党を批判する事が「反日行為」であると言われる方々には、「政権与党を無批判に妄信、礼賛する事」が「今」と「これから」の日本を真に良い国にするのになぜ有効であると判断されているのか、是非万人を納得させるに足る(感情論で無い)ご説明をお願いしたいと切望する。

これほど「成長」しない人々が「改憲」云々と騒ぐのは10年早く無いか。無論、改憲そのものや改憲の議論自体は全く否定はしない。しかし、「日本がダメなのは、押し付け憲法を墨守しているせいだ」的な感情論ばかりが渦巻き、肝心な「(9条以外の)現行憲法に関する具体的検証」も「改憲した後、どうなるのか、どうするのか」といった具体的な議論も全く置き去りにされている。「雰囲気」や「勢い」だけで何かを決めると大混乱を発生させ、世界中の笑いものになるのは「EU離脱」を巡る英国の醜態を見れば明らか。離脱のプロセスや、アイルランドとのボーダーをどうするなどというレベルの事で今頃大モメしているのを見ると、「そんな事もあらかじめ決めないままに投票したのか」と呆れてしまうが、日本も「雰囲気」だけで改憲すれば、同様の恥晒しになる事は十二分に予想出来るだけに、この英国の醜態を他山の石にしなければダメだろう。

政治家が不祥事を起こしたり、バカな発言を繰り返したりするたびに、「コイツラには自浄能力は無いのか!」と批判する声をよく聞くが、ちょっとお待ち頂きたい。一番自浄能力が無いのは、こんな政治家たちに繰り返し議席(と権力)を与え、彼らを「鍛える」事もせず、一時の「感情」「雰囲気」だけで投票するような、我々有権者では無いのか。この国が最早「断末魔」の状態に陥りつつあるのは、決して「政治家」だけのせいでは無く、我々「有権者」との「共同作業」の結果である。このまま「ご臨終」の時を迎えたくないのなら、適菜氏の度重なる警告を我々はもっと切迫感を持って受け止めねばならないだろう。

書かれてあることは、一連の適菜本でよく見かけるものであり、とりわけ新鮮味はない。一連の適菜本のダイジェスト版と総括してもいいだろうが、この30組(「安倍に群がる乞食ライター」として一括りにしているので「組」の方が正しい)に対して適菜が著書で繰り返して警鐘を発するのは、近代200年の病が彼ら30組という形で表出したのであって、彼らの言動を分析することで「近代の毒牙」にり患した現代を概観するというのが本著の正しい読み方である。

この本を読む前に過去の適菜本で触れている「近代が理解されていないこと」「保守の意味や価値が混乱していること」「民主主義が金科玉条のように扱われ、危険性が無視されていること」「民意や社会正義を国家権力の中枢に組み入れてはいけないこと」などを頭に入れておいた上で読まれることをおすすめする。

いわゆるB層に適合する「大衆」はこの本を読んではいけない。この本の内容なんか間違いなく理解できないだろうし、この社会を作ったのはあなたたちであるからだ。立憲主義が保守の根幹であることを理解できない人、安保法制があきらかに違憲であることを理解できない人は本棚に戻すことだ。「戦争法」「徴兵制」と言ってた人、国会前でデモをやっていた人も同じ。

私見だが、近代200年の毒牙は「戦後」でむき出しとなり、三島由紀夫がそれに対し、苦言を呈しているところからスタートしている。日本が近代化を急ぐあまりに近代の読み飛ばしを行ったことから今日の悲劇が生まれている。平成になってから進行は加速し、21世紀になってから余計そのスピードは速くなった。異常なものを社会が排除できたというのは少なくとも日本では発生せず、賃金アップを名目に「活動家」を追い出したイギリスくらい。例の「大阪都詐欺」は橋下の自滅によって終焉を迎えたので、社会が排除したとはいえない。自民党は派閥が機能していたので、議会主義のようなシステムが機能していたのだが、今や派閥は名ばかりとなり、立憲主義が理解できない人、法的安定性は関係ないとほざく「幼児」たちが自民党議員を名乗っているのだからお粗末もいいところである。彼らは多数決を崇拝し、審議内容ではなく、審議時間を重要視し、議会主義を平気で壊してしまった。

一連の適菜本、とりわけ冒頭には「もうダメですね」とか「わが国は最終段階に入った」というのが目につく。悪いが、有権者は絶対まともになれない。民意が正しい判断をする保障がないのは、過去の事例や、あらゆるケースで証明されている。そのために国家を民意から切り離す必要があると、過去の賢者は説いているのだ。ただ、この本に挙げられている30組を地上から「排除」してもどうにもならない。日本社会が近代の病にり患した状態が30組という形で表出しているのであって、病巣はもっと深部にあると適菜は訴えているのである。今の社会はB層がお客様。ポピュリズムに堕落し、B層が発する熱(ルサンチマン)を吸収し、B層を煽る形で拡大をしてきた。NHKBSの番組でやっていた「独裁者」もルサンチマンを吸収し、市民運動に訴えかける形で市民に甘い声をかけることで台頭していったことが証明されている。しかも手法はまったく一緒。それが「保守」の美名で行われているのだから始末におえない。一見新しくみえる手法も、下手すればフランス革命の頃からロベスピエールらによって行われてきたことであり、ちょっと目先を変えればB層はころりとだまされることを彼らは知っているのだから始末におえない。彼らを駆逐しても、第二、第三のロベスピエールや安倍晋三、小泉進次郎が出てきて同じことを繰り返す。歴史から何も学ばないのがB層だといえる。病巣がいかに根深いか、おわかりいただけるだろう。

郵政選挙で旧民主党が出したスローガンは「日本をあきらめない」だったが、日本はもうあきらめた方がいいかもしれない。国はアテにならないと詐欺まがいの行為を平気で進めるテレビを見たが、やはりテレビは害毒なのである。近代200年の病の進行を遅らせる方法もあるかもしれないが、そんなのは期待しない。保守の一丁目一番地は「人間理性に懐疑的であるかどうか」だ。近代200年の病の進行を遅らせることは人間理性の尊重ではないのか。

5つ星のうち 5.0バカ30人プラス1

(参考になった人 27/28 人)

本書著者の方の著作は今回初めて読みました。
害虫、害獣ならぬ「害人」について批判がなされています。

特にひどいのが安倍晋三、橋下徹、小泉父、竹中平蔵、麻生太郎、菅義偉、石原慎太郎、菅直人、長谷川豊、渡邊美樹らで、人間として最低最悪という印象です。

しかしながら「原発事故収束宣言」をした民主党の売国奴野田や「ともみ組」の稲田などが30人の「害人」に入ってなかったのは意外でした。

また評論家の佐高信が高評価している小沢一郎や「おたかさん」が批判対象になっているのも意外で、とても興味深かったです。



本書ではほんの少しだけ触れられていますが、これら30人よりバカな人たち、スーパーバカがいます。

それは日本国民です。
このような人間的にも問題がある「害人」を指導者として選び、支持している国民です。

本書では著者はネトウヨと限定して国民を批判していますが、実際はネトウヨだけでなく、問題人間支持者や政治的無関心者も批判の対象にするべきです。

平成を愚民の時代にしたバカ張本人はまさに日本国民なのです。30人の「害人」に責任を問う前に日本国民自身が責任を自覚し、自己批判すべきであると考えます(タイトルに「愚民の時代」とあるのは著者の意図はそこにあるかと勝手に考えています)。

決断のとき――トモダチ作戦と涙の基金

小泉純一郎ファンにとって、『決断のとき――トモダチ作戦と涙の基金』(小泉純一郎著、常井健一取材・構成、集英社新書)は見逃せない一冊です。小泉の若き日々から現在までを知ることができるからです。

取材・構成の常井健一は、小泉を構成している要素を、このように抽出しています。●(祖父)「いれずみ大臣」から引き継いだ義侠心。●雄弁家の父を見ながら身につけた大衆的な言語感覚。●福田赳夫を源流とする財政均衡主義者のコスト意識。●石油危機から学んだ「ピンチはチャンス」という方程式。●反田中(角栄)傍流の七転び八起き人生で培われた反骨心。

●派閥抗争の荒野で見いだした「改革」という名の正義。●望まぬ雑巾がけポストで養った敵をも巻き込む融通性。●四面楚歌の郵政選挙を勝ち抜いた勝負勘。●外交舞台で発揮された冷徹なリアリズム。●失政が産んだ「被害者」と呼ばれる人々へのまなざし。●多彩な趣味を通じて育んだ知性と教養。●経済学者・加藤寛から受け継いだ遺志。●連戦連敗の反省からたどり着いた環境重視の精神。

原発について。「それから細川(護熙)さんとはしばらく会っていなくて、2013年10月21日に急に会食することになりました。不思議なもので『原発ゼロ』がわれわれを引き合わせたのです。私はその前の8月にフィンランドで建設中の核廃棄物最終処分施設『オンカロ』を視察に行きました。地下400メートルに廃棄物を埋めて毒性が抜けるのは10万年後という話を現地で聞いて、火山や地震が多く、強固な岩盤がない日本で同じことはできないから、原発はつづけてはいけないと確信しました。・・・それから『小泉純一郎は原発ゼロを訴えている』と知れわたって、いろんな人から反響が寄せられました。そのひとりが、細川さんだったのです。・・・細川さんも私も『やっぱり原発ゼロにしなきゃいかん』ということで一致しました」。

「『オランドは(フランス)大統領選で2050年までに脱原発をやると掲げたんだよ。日本以上の原発大国でさえ、脱原発を打ち出して国民に受け入れられたんだ。あの考え方は若い新大統領(マクロン)にも引き継がれている。この話、講演でもしているのに、マスコミはどこも書かないよ』」。

「『一番早いのは自民党が原発ゼロを進めることです。不可能だと思っている人もいるけども、そうじゃない。いまの総理が再稼働を進めているから仕方ないだけで、来たるべき新総理が原発ゼロを打ち出せば、自民党はガラッと変わりますよ。そのためには、これから野党がどう出るかが大事。野党が原発を選挙の争点にした場合、自民党は推進論で多数の議席を確保できるかどうかを必ず考え直します。それは、そんな遠い将来じゃない』」。

姉について。「弟の私が言うのもなんですが、姉は優しく、謙虚で、しかも、私が留守がちの小泉家をしっかりと守りつづけてくれました。私が妻と離婚したとき、孝太郎は4歳、進次郎は1歳でした。そのとき以来、姉は孝太郎、進次郎に寂しい思いをさせてはいけないと考えて、母親代わりとしてわが家の中心的な役割を果たしてくれました。母親代わりなので、孝太郎、進次郎には『ママ』と呼ばせていました。ふたりが学校に行くときはいつもママが見送ってくれる。外から帰ってくればママが優しく迎えてくれる。これは孝太郎、進次郎の精神安定にも大きく寄与していたことと思っています。私は孝太郎、進次郎に、いつか本当のことを話さなければならないと思っていました。孝太郎が高校2年生、進次郎が中学2年生になったとき、ふたりを呼んで、本当のことを伝えました。『ママは私の姉だ』と言ったら進次郎は『うそ!』と声を上げました。孝太郎に『知っているか?』と聞いたら、『知っていた』と答えた。『進次郎にそれを言わなかったのか?』と聞いたら、『言わなかった』。高校生にして、言ったほうがいいことと言わないほうがいいことをわかっていた。いい子に育ってくれたなと思いました。進次郎は、『それでも僕は本当の母親だと思っている』と言いました。だから、姉は、ただの母親代わりじゃなかった。実の母親として孝太郎、進次郎の教育、子育てをやってくれたのです。晩年になってからは、すこやかに成長した孝太郎、進次郎が社会に出て、テレビや新聞で活躍している姿を見るのを大変楽しみにしていました』」。

信条について、「私は、『省事に如かず』という考え方を大事にしています。中国の古典『菜根譚』にある『不如省事』という言葉が昔から好きなんです。いろんな余計なことを省けば、自分の時間を持つことができます。流されるんじゃない。仕事に追われるんじゃない。自分で考えて、大事なことをやる。そのためには、余計な仕事を省くのが一番です。福田赳夫先生は『大事争うべし、些事構うべからず』と好んで色紙に書いていました。私が福田先生の家で玄関番をしていた頃、書斎でよく目にしたおぼえがあります。われわれは、大事と些事がときにわからなくなってしまいます。人によっては、些事を大事だと思ってしまうときもあれば、大事を大事だと気づかないときもある。難しいところです」。

小泉純一郎を、ますます好きになってしまいました。

内容としては、3.11、原発事故後から「ゼロ」に転じた小泉氏の近況、
政治家小泉純一郎としての回想録になります。

本書で一番私の興味を引いたのは、「終章『信』を問う」です。

なぜ小泉氏は原発事故後に「過ちを改める」に至ったのか。著者の常井氏は、
小泉氏の過去、政治人生を紐解くことにより、その理由を推察しています。
事故が起きたからとか、核のゴミ捨て場がないという、原発の諸問題とは別に、
小泉氏自身の人生訓も影響しているという指摘は私も頷けます。



>・・経験も筆力もある立派な物書きたちが、殊(こと)に小泉にかんしては
>本人に訊きもせずに実像とはかけ離れた「なにか」をつくりあげ、
>禄を食(は)んでいる。

こちらは、先の「終章」からの引用です。本書を読み進めることで、今までの、
メディアや評論家等から伝え聞き、それを基に自分でイメージする「小泉純一郎評」とは
随分違うところもあると、自分としては再発見できる部分も多かったように思います。

本書は「小泉純一郎とはこういう人物だ」と考えがちな方にこそオススメできるかも
知れません。



さて、政界引退後の小泉氏の再起動の理由は原発であるわけですが、ここで著者の常井氏には
いくつか注文をつけさせていただければならないと考えます。

>野田佳彦政権は、・・アメリカ政府筋の「ご意向」を忖度し、二〇三〇年代脱原発方針の
>閣議決定を見送っている。

これは序章からの一部抜粋になりますが、この箇所は事実に反すると考えます。

当時野田政権は、青森案件等、国内のステークホルダーの利害調整に失敗し、その上で原発ゼロと
核燃料サイクルの推進という、矛盾した政策を米国政府に説明したため、それではプルトニウムが
増えるだけであると指摘されています。これを当時のマスコミが「米国が原発ゼロに反対した」と、
誤った報じ方をしてしまったのです。

常井氏は文藝春秋2016年1月号の「小泉純一郎独自録」においても、アメリカの意向(日米原子力協定)で
原発ゼロは困難であるというような考え方を示されています。

しかし、同協定は日本に原子力発電の推進を義務付けるような内容では一切ありません。このあたりは
原発反対派の多くも誤解されている印象で、大変残念に思います。

常井氏は、せっかく原発事故をきっかけとして、稀代の政治家との接点を持つことになったわけですから、
そのベース、原点についてはもっと大事にされるべきではないかと、僭越ながら注文をつけさせて
いただきました。



こちらは注文とは別の話になります。最近は「対米従属」と称し、日本は何もかもアメリカの言いなりで、
原発もそうに違いないという論説が目立ちますが、これは極めて表層的な物の見方ではないかと考えます。

日本の原子力発電の歴史は、特に核燃料サイクルに関しては、アメリカの意向に反して推進してきた
経緯があります。そもそもアメリカは日本の核燃料サイクルに反対であったという事実は、原発反対派の
間ですらあまり知られていないようです。

本書は、小泉元首相の回想録ということになっていますが、自身で記したものではなく、
フリージャーナリストの常井健一氏が、小泉氏から聞きだしたことをまとめて本にしたもので、
しかも、序章と終章は、常井氏の文章で、その間に小泉氏から聞き取った文章が挟まれているという形になっています。
そのメインとなるものは、やはり、首相時代には、原発を推進していた小泉氏が、なぜ脱原発に転向しするようになったのか、
そして「トモダチ作戦」で被爆し、体調不良に陥ったアメリカ兵士の支援基金設立に奔走する姿、ということになるのでしょう?!
しかし、本書を読んでも、なぜ転向したよく理解できないのです。


一応は、首相時代は、原発は安全、コストが安い、クリーンなエネルギー、であると思っていたが、
福島原発のメルトダウンを目の当たりにして、それらが全て嘘だと気づいたこと、
また、原発自体が、海水を汚染したりする環境破壊私説であること、
さらには「オンかロ」を始めとする、欧州の原発事情を視察したこと、がその理由ということになっています。
実際、原発事故の後、殆ど原発を再稼働しなくても電力が不足することはなかったし、
革新的な技術は、必ず生み出される、というのが小泉氏の考え方のようですが、これはあまりにも楽観すぎるのでは、と思ってしまいます。
しかし、本書の面白さは、それ以外のこと、例えば、ブッシュ大統領とのこと、
訪朝のこと、郵政解散の裏話、中曽根氏に引退勧告をしたこと、細川氏との関係、YKKのこと、
等、始めて明かされる政界裏話の数々ではないのでしょうか?!

小泉純一郎』の解説 by はてなキーワード

1942年1月8日生まれ。神奈川出身政治家横須賀市出身。

衆議院議員自民党総裁。元内閣総理大臣シンクタンク国際公共政策研究センター」顧問。慶應義塾大学卒業。バツイチ独身

親米保守」というようには見られているが、思想信条では郵政民営化を実現させたこともあり、「新自由主義者」として知られている。それを含めて、日本・台湾を含めた東アジア全体から非難の的となった靖国神社参拝を積極的に行ったことから「リベラル右派」と見受けられている。

概略

1969年、父・純也氏の死を受けて急遽留学先から帰国、立候補するも落選。

1972年以来、衆議院に12期連続当選。現在の選挙区神奈川11区(横須賀市三浦市) 。

2001年4月、第87代内閣総理大臣・第20代の自由民主党総裁に就任。

2003年11月、第88代内閣総理大臣に就任。

2005年9月、第89代内閣総理大臣に就任。

2006年9月、内閣総理大臣を退任。在任期間1,980日間は、第二次世界大戦後の総理大臣で第3位。

2007年3月12日、国際公共政策研究センターを設立*1

2009年7月、衆議院解散と同時に政界引退。

家系

祖父(小泉又次郎)、父(小泉純也)に続く政治家一族の3代目。

息子は長男で俳優の小泉孝太郎と、次男で政治家小泉進次郎がいる。

ニックネーム

純ちゃん

Dr.スランプアラレちゃん」に登場するDr.マシリトに似ているため、ごくまれに「マシリト」とも呼ばれることも

文化的宰相

エルビス・プレスリーの大ファン。好きな曲の一つにX Japanの「Forever Love」がある。また、オペラ歌舞伎・映画観賞が趣味。

「似ている」と常日頃言われるリチャード・ギアと対面し、「Shall we ダンス?」(ギアはハリウッド版リメイク映画のPRの一環で来日していた)とばかりに、取材陣に踊るポーズを取ったことも。

首相任期終盤にはジョージ・W・ブッシュ大統領の案内で、アメリカメンフィスにある「エルヴィス・プレスリー記念館」を訪れたたが、そこでプレスリーの使用していた眼鏡を掛けさせてもらったり、ブッシュ氏の前で「エアギター」を披露するなどしてはしゃぐ姿がマスコミのカメラに捉えられ、一部の方面では物議をかもした。

ワイン通

政界随一のワイン通で、1998年に「ボルドーワイン振興に貢献した」として、世界のワイン名士・著名人に贈られるメドック・グラーヴ・ボンタン騎士団騎士に選ばれている。

発言集

人を動かすのは計算ではない」(2回目となる総裁選で予想に反する惨敗をきした後の会見で涙を見せながら)

人生いろいろ、会社もいろいろ、社員もいろいろです」(第159回国会衆議院決算行政監視委員会での答弁)

自民党をぶっ壊す!」(2001年自由民主党総裁選挙でのキャッチフレーズ)

「痛みに耐えて、よく頑張った!感動した!」(2001年夏場所で、ケガを押して出場し優勝した貴乃花に対して)

ほかにも「抵抗勢力」「改革なくして成長なし」「三位一体の改革」「聖域無き構造改革」「郵政民営化の是非を問う選挙(2005年9月)」といった、ワンフレーズで対象を捉え発言する事が多いイメージがある。

国民年金保険料納付についていまだ口を閉ざす。関連キーワード

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