バクーのまとめ情報

バクー』の解説

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バクーBaku)は、アゼルバイジャン共和国首都カスピ海西岸に突き出したアブシェロン半島南岸に位置し、市街はバクー湾に面するように広がった港町である。行政的には11の行政区、48の町区に分割されており、2005年時点の総人口は2,045,815人。アゼルバイジャン最大の都市であると同時に、南カフカース地域でも有数の大都市である。大規模な油田バクー油田)をもち、帝政ロシア時代から石油の生産地として発展してきた。

日本語名のバクーはキリル文字綴りによるロシア語綴り・アゼルバイジャン語(アゼリー語)旧綴り Баку (Baku) に基づくが、アゼルバイジャン語の発音では母音の前で子音 k が軟音化するためカタカナ表記するならば「バキュ」に近く、現在アゼルバイジャンで使われているアゼルバイジャン語のラテン文字正書法では Bakı と綴る。バクーという名前の由来には諸説あるが、最も一般的なものは、ペルシャ語で「風が吹きつけた」という意味の "bād-kūbe"(バード・クーベ)から来ているとする説が一般的である。

気候は晴天が多く、乾燥している。寒気と暖気がぶつかることで起きる強風が時折吹き付け、先述した語源の根拠となっている。海岸は美しく、市街近郊には温泉鉱泉がある。

市街の中心はその南西部にあり、イチェリ・シェヘル (İçəri Şəhər) すなわち「内城」と呼ばれる城壁に囲まれた旧市街と、帝政ロシア時代にその周囲に築かれた新市街とに分かれる。その周囲、北から東にかけての平地から丘陵の斜面一帯にソビエト連邦時代につくられた市街が広がっている。近年は豊富なオイルマネーをもとに近未来的な巨大建築物が出現し、「第二のドバイ」「第二のシンガポール」とも呼ばれている。

歴史

バクーの地に定住者が存在した痕跡は紀元前の頃のものが発見されているが、都市としてのバクーは5世紀頃に建設されたと考えられている。都市バクーに関する最古の記録は、885年のものであり、その多くはペルシアによるものである。また、油田の存在は8世紀には知られており、10世紀のアラビア人旅行者もバクーの豊富な石油に驚いている。

バクーは、12世紀にこの地方の中心であった内陸部の都市シェマハが地震により破壊されてから都市としての重要性を増し、シルバン・シャー朝の首都となり、港湾都市として栄えた。1501年のサファヴィー朝イスマーイール1世の攻撃以来、度重なるイランの諸王朝の攻撃を受け、1604年のアッバース1世の軍勢によって城も破壊された。イラン支配の後は、ロシアの侵攻を受ける。1723年、ついにバクーはロシアの包囲の前に降伏する。ロシアがザカフカジエへ膨張することに脅威を感じたアーガー・モハンマド・シャーも、1795年にバクーに侵攻して反撃、帝政ロシアガージャール朝の角逐が繰り返される。翌1796年、エカチェリーナ2世の命を受けたロシア軍が侵攻、バクーに駐屯地を設ける。パーヴェル1世の治世になるとロシア軍は撤収するが、アレクサンドル1世はバクーに強い関心を示し再度侵攻、最終的に1813年のゴレスターン条約で、バクーやザカフカスはロシア帝国に併合された。

バクーで大掛かりに油井が掘削されたのは1846年である。1872年にロシアが石油産業の国家独占を廃止し、油井を売却すると、ロスチャイルド家など欧米諸国から石油資本が流入して急速に発展を遂げ、未だペルシア湾の油田が開発されていなかった20世紀初頭の帝政末期には、世界の石油生産の過半を占めるほどであった。この時代のバクーは石油産業から近代的工業都市へと発展を遂げ、ロシア人の実業家、流入してきたアゼリー人アゼルバイジャン人)やアルメニア人の様々な経済・政治・文化活動の中心となった。南方からイスラーム教徒の労働者が溢れ国際都市となった。

アルフレッド・ノーベルは、二人の兄と1878年に『』を設立して油田開発、ナフサ精製、輸送などを受け持って巨万の富を築いた。

十月革命後、バクーはステパン・シャウミャンが主導するバクー・コミューンの支配下となり、アルメニア革命連盟ヒンメトの支援を受けたボリシェヴィキは、多くのアゼリー人イスラム教徒を処刑した。1918年、誕生したばかりのザカフカース民主連邦共和国は早々に分裂、ギャンジャで独立を宣言したアゼルバイジャン民主共和国勢力が、オスマン帝国の支援を受けバクーに侵攻した。進駐していたイギリス軍やボリシェヴィキらは駆逐され、バクーはアゼルバイジャン民主共和国の首都となる。この過程で、1918年3月31日の衝突で、数千人のアルメニア人が報復で殺された。この日はアゼルバイジャンで「虐殺記念日」とされている。1920年、赤軍がバクーに進駐、ここを首都とするアゼルバイジャン・ソビエト社会主義共和国が成立した。独ソ戦では、1942年、バクーの油田地帯の占領を狙ってナチス・ドイツ軍が侵攻して来たが、スターリングラードの戦いに重点をおいた枢軸軍の敗北により頓挫した。

ソ連時代は、核実験がバクー近辺で行われており、周辺への住民の健康被害が懸念されたことがある。バクー近辺の核実験が正式に終了したのはソ連崩壊後で、アゼルバイジャンは独立後非核化を実現した。しかし、MRBM保有の噂は絶えない。

ソ連邦崩壊後、アゼルバイジャン領のナゴルノ・カラバフ自治州において、アルメニアへの帰属を求めるアルメニア人の民族運動が活発化すると、多民族都市バクーも民族紛争に巻き込まれ、多くのアルメニア人がアルメニアへと移住する一方、バクーには新たに多くのアゼルバイジャン人難民が流入してきた。

2000年、バクーの内城は・とともに世界遺産に登録された(城壁都市バクー)。しかし2000年11月25日のバクー大地震で、危機にさらされている世界遺産リストに2003年に登録された。 しかし2009年に改善・復旧が認められ危機遺産リストから脱した。

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民族構成

ソ連時代はアルメニア人ロシア人ユダヤ人が多く居住する多民族都市であったが、シナゴーグは破壊され尽くされた。独立後、主にヘイダル・アリエフ政権下でシナゴーグの再建が進んだ。今日のバクー市は、人口の90%をアゼルバイジャン人が占めている。宗教的には人口の94%がイスラム教を信仰している。キリスト教徒は4%で、ロシア正教会グルジア正教会モロカン派などの信者である。ユダヤ人コミュニティーは小さいものがいくつか残りユダヤ教の信者はごく少数である。

史跡・観光地

  • (イチェリ・シェヘル) - 都市の中心部にはかつて旧市街を取り囲んでいた城壁が残っており、2000年12月ユネスコによってアゼルバイジャンで最初のユネスコ世界遺産(文化遺産)に登録された。現存しているほとんどの城壁や塔は、1806年のロシアの征服後に補強されたものである。迷路のような細い小路と古い建物によって非常に古代の趣を感じさせる地区である。
  • - シルヴァン朝の君主が住んでいた宮殿で、バクーでもっとも有名な名所。
  • 隊商宿跡 - カースム・ベクの隊商宿やモスク、ムルターニー人(インド商人)やプラハ人(中央アジア商人)の隊商宿
  • - 11世紀頃建てられた塔。悲劇の王妃の伝説からこの名がついた。高さは28メートル、8階建て相当で頑丈に作られている。最も人気のあるデートスポット。
  • 浴場跡 - ハッジ・ガーイブのハンマーム
  • 金曜モスク(ジュマ・モスク) - 元は金曜礼拝に使われるための大モスク。以前は絨毯や美術品の博物館だった。旧市街にもいくつかの小さなモスクがあるが、他の建物と区別するような特徴もなく佇んでいる。12世紀のメドレセ(イスラーム学院)、17世紀のゾロアスター教寺院
  • 歴史(文学、芸術)博物館 - 建物自体は、ロシア帝国時代の富豪の大邸宅であった。
  • アゼルバイジャン国立美術館
  • 「殉教者の共同墓地」(以前はキーロフ公園と呼称)- 1990年1月20日のソ連軍のバクー侵攻や1992年以降のアルメニアとの戦争による戦死者を悼んだものである。
  • フレームタワー - 「火の国」アゼルバイジャンにちなみ炎(フレーム)をモチーフにした3棟の巨大タワー(高さ約190m)。夜間は揺らめく炎のように赤くライトアップされる。2012年完成。
  • ヘイダル・アリエフ文化センター - アゼルバイジャンの経済発展を主導したヘイダル・アリエフ大統領の名を冠した文化施設。ザハ・ハディドが手がけた曲面的デザインが特徴。2012年完成。

空港

ヘイダル・アリエフ国際空港
バクーの北東20kmに位置する国際空港。カフカース最大の利用者数を誇る。アゼルバイジャン航空の本拠地である。

鉄道

アゼルバイジャン国鉄
アゼルバイジャン各地への列車のほか、モスクワおよびトビリシ方面への国際列車も運行されている。
バクー地下鉄
1967年に開業した地下鉄がある。ソビエト連邦内では、5番目の地下鉄都市であった。現在、X字型に交差する2路線(33.1km、22駅)。
バクーからのカスピ海国際航路は、トルクメニスタントルクメンバシカスピ海横断鉄道)、イランのノウシャフルバンダレ・アンザリーへ船便がある。
バクー・フニクラ
バクー市内の西南にあるケーブルカー

スポーツ

バクー油田

バクーでの石油の採取は紀元前より行われ、皮袋に詰められラクダでイランやイラクに運ばれたという。その石油は灯火用あるいは建物や船のモルタルに、あるいはミイラの防腐剤として使われた。初めは地表への湧出油を採取していたが9世紀には手掘りの井戸が掘られ、16世紀には石油産業の様相を呈した。1683年にスウェーデン国王の命を受けたドイツ人医師ケンペルが訪れ、欧州人として初めてバクー油田を調査した。1798年にBibi-Heybat湾で世界初の海上生産が試みられたという。19世紀半ばに米国で近代化された石油産業はバクーにも製油技術をもたらし、この地を訪れたが着目。、アルフレッドと共にを設立。これより遅れてロスチャイルドもバクーに参入した。1888年にはバクー原油がスエズ運河を経由して日本に輸入された。1898年にはバクーに230kmのパイプラインが敷かれていた。1901年の時点では3000本以上の石油井戸があり、年間1100万トンが生産され、米国を抜いて世界の石油産出量の半分をバクーが占め、Black Gold Capitalとして世界に知られていた。1920年にボルシェビキがすべての石油資産を接収し、1941年にはソ連の全石油生産の72%を占めていた。1925年にバクーからバツーミ(グルジア)までのパイプラインが完成。1911年から使用開始したロータリー式掘削がこの頃には主流となった。1941年にソ連で最深の井戸が掘られ、3200mに達した。20世紀末になると陸上にある油田のほとんどが枯渇し、アプシェロン半島の先にあるカスピ海海底の3油田(ACG油田)から生産されている。現在でも世界有数の石油産出地であり、バクーの経済も石油を中心として成り立っている。

BTCパイプライン

カスピ海バクー沖のアゼリ、チラグ、グナシェリ油田(ACG油田)の原油を地中海から輸出するための原油パイプライン。名前はパイプラインの始点、通過点、終点であるバクー、トビリシ(グルジア首都)、ジェイハン(トルコの積出港)の頭文字。全長1768km、輸送能力日量100万バレルで、2005年に完成、通油開始し、2006年にジェイハンから積み出し開始。英国BPアゼルバイジャン国営石油シェブロンスタトイルTPAO、、トタル伊藤忠INPEXコノコフィリップスHess、トルコほか日本企業も事業に参加。2008年に日量約85万バレルを輸送していたが、8月5日夜トルコ北東部でクルド人勢力の犯行と見られる爆発があり送油停止、8月末に再開した。

脱資源政策

2010年代後半に石油価格下落傾向が続く中、バクーは中東の産油国と同様に観光・交通・ビジネスセンターといった多角事業化を目指している。歴史的な街並みと近未来的な新建築を融合させるホワイトシティ計画が進行し、カスピ海上3,000ヘクタールの巨大水上都市「カザールアイランド」や、高さ世界一(1,050m)になる予定の超高層ビル「アゼルバイジャン・タワー」などのプロジェクトが進んでいる。

教育

  • バクー州立大学
  • 17歳までの学費は全て無料、しかも18歳になっても成績優秀者には大学の学費も無料になる。

バクー出身の人物

ギャラリー

ファイル:Azerbaigian-baku.jpg|中心街

ファイル:Baku Maiden Tower.jpg|乙女の塔

ファイル:İsmailiyye palace 2006.jpg|大学

ファイル:Flame Towers, Azerbaijan.png|フレームタワー

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ロシア革命史入門

私は、広瀬氏のこの書籍評価出来ない。ガッカリです。
前半は、ロシア革命のトレースに費やし、後半で権力樹立後の粛清に次ぐ粛清。
広瀬氏は、ロシア革命の動機、目的を「左翼的なマルクス主義思想が革命を起こした」のでは無く「偉大な反戦運動」に置きたいようだが、殺人集団と化したボルシェビキに内在する革命理論、プロ独裁と無制限な暴力是認、集団化の失敗は、共産理論の致命的失陥の認識が必要。
簡単に言えば、人間は、農業集団化、農業法人の下で、農業労働者として賃金目当てに働く労働で自作農と同様の勤労意欲を持てるのだろうか?
シオニストの拠点、イスラエルの集団農場、キブツも失敗している。

人民公社も同様。
著者は、ロシア革命を反戦運動の視点から、眺めて見ましたと語る、そしてそれ以上のものは無い。
レーニンは、「帝国主義戦争を内乱へ」のテーゼを強引に推し進め社会主義政権を樹立した。
この革命で、ロマノフ王朝の財宝をボルシェビキが獲得し、ロスチャイルドは、金融資産をごっつあんした。
「殺せ、殺せ、ブルジョアジーをして共産主義革命の前に戦慄せしめよ」
殺された6000万人?のロシア人は、ブルジョアジーだったのか?

中ソ論争から文革期にかけてマルクス主義の古典と照らし合わせて、ソ連共産党を徹底批判して来た中国も、「白い猫も、黒い猫も鼠を捕るのは同じ猫」で逆戻りして仕舞った。
徒に国を混乱させ、国民を豊かにする方法論を毛沢東も文革派も持ち合わせて居なかった。
技術革新も無く、物資の貧しい配給社会しか実現し得なかった根本的原因が奈辺に在ったのかと云う考察も見られない。
企業間競争が無ければ、企業セクターの倒産も失業も発生せず、良いこと尽くめに見えるが、十年一日の如く「必要生産物」の生産をしているだけの全員が公務員的社会で、果たして豊かな社会を実現できるのだろうか?
嘗て、モスクワ大学の学生が、社会主義を知りたければ、行列を見れば良いと比喩的に語ったと云う。
天安門事件後27年、堰を切った如く目覚ましい発展を遂げた中国の商品経済、官制の統制経済の枠を取っ払っただけでも自由に活き活きと甦り、世界最大の大国にまで発展した。「計画経済」とは、何でしょうか?騙されてはいけません。金融恐慌は、国際銀行家が仕組んだ謀です。
因みに、ソ連が崩壊した頃、日本共産党は、その理論誌『経済』で、本州大学の某(失念)が、「社会主義市場経済」なる概念を提起していた!
此れ等は、自家撞着そのもので、マルクス主義理論の破綻を示しているだけである。
共産党の看板を下ろすのが、党勢発展の鍵と為ろう。

官費で碌を食む考古学者や学芸員が『記紀』との摺り合わせで辻褄合わせをしているように、マル経学者は、文献考証学をしているだけの存在である事を肝に銘じるべきである。そうで在るからこそ、過激派左翼と云えども、教義、経典との摺り合わせで答えられるものには、流暢に応えるが、答えられないものには、沈黙するのである。実に情けない。恥を知るべきだ。

商品、貨幣経済の揚棄、これを「生産手段の共有に基づく協同組合的社会が実現」されたならばと云う仮説の上に立って、論理的抽象に基づくロジックで演繹したものが共産理論の核心。
「生産手段の共有に基づく協同組合的社会の内部(対外交易を除くの意)では、生産者は、生産物を交換しない、同様に此処では、生産物に支出された労働がその価値(=××ルーブルと云った金の一定量に付けた貨幣名に依らず、時間表示)として、現れる事も無い。」
市場での交換を通じて初めて資本の私的生産物が社会的生産物となるのでは無く、初めから社会的生産物として生産される、従って、生産物分配は在っても交換は無いと云うマルクス理論の核心、これが商品も貨幣も存在しない社会。
例えば、トヨタ1社を国有化することは可能に思えても、トヨタの下請けは、家族労働の事業所まで含めて、膨大な数に上る。
とっちゃん、かっちゃんで営む事業所の国有化とは、如何なるものですか?
ジャストインタイムの「カンバン方式」を維持するには、下請けに常にトヨタの需要を賄える在庫を持たせることに為る。販売不振のリスクは下請けが被る羽目に為っている。社会的所有の達成は、不可能です。
殺伐とした暗黒の密告社会の到来をマルクス理論から離れては、何一つ説明出来ない。
「中央銀行制度が樹立されれば、社会主義は90%達成される」とレーニンは語ったと訊く。
労働証書制に移行する社会に何故中央銀行制度が必要なのか?!
イラク、リビアの政権を転覆させ金地金を強奪し、中央銀行を設立し、残す処「ならず者国家」は、北朝鮮、イラン、シリアのみと為った今日、
差し詰め世界社会主義体制は、ほぼ確立されたと云えよう。オーウェルの描く『1984年』ビッグブラザーの支配する監視社会、世界の誕生です。
広瀬は、自分は、資本主義者でも共産主義者でも無く、寧ろこの双方を批判して来たと語る。
お座成りな教科書的な客観主義しか感じられない。
広瀬の著した『赤い盾』の国際銀行家の世界とロシア革命後の100年の歴史が如何にリンクして居るのか、何も答えない。
「小規模生産は、資本主義とブルジョアジーを毎日、毎時間生み出す」←頭はすこぶる良いが人間の事が解らない、これがレーニンの焦り。
ネップに至った事情。
商品、貨幣経済を除去するのは、不可能です。中国革命も失敗した。マルクス理論のペテン性の核心を衝く必要がある。
『赤い盾』で金融ユダヤ人の人脈と金脈、血縁関係を詳細に明らかにしながらも、広瀬氏の著書は、NWOのアジェンダ、視点を意図的に避けている気がして為らない。
明治維新で、それまで神仏混交で来た国が、渡来した天遜族が携えてきた仏教を廃仏稀釈で棄て、自らが天皇一神教と為り、これの容認と引き換える如く、英国王室に明治天皇以来、歴代天皇全てがガーター勲章を授与されている。皇室は、バチカン=イエズス会の臣下と為ったのである。英国留学組の浩宮も、ローマ教皇謁見の際には、コルナサインをしている。
英国に唆されて、日清、日露戦争を戦い、ロマノフ王朝の弱体化に寄与させられ、まんまとロシアのユダヤ革命の前哨戦で露払いをする役割を果たしたのである。この時の日露戦の戦費の借財を完済したのは1987年、太平洋戦争の借財は、2013年と訊く。艦砲射撃が不得手な海軍には、英国武官が乗船していた模様。広瀬氏ほどの知識人が、何故、西洋世界=基督教イエズス会に因る包摂(世界支配)を外すので在ろうか?
「世界連邦運動」を検索して見て下さい。どの様な顔ぶれが出て来ますか?同じ劇団員が互いに敵役を演じてるのが判ります。
アメリカ共産党員が、現在のネオコンメンバーです。
広瀬隆氏は、中央銀行制度を通じて各国の富を収奪している金融ユダヤ人に因る世界支配と云う大枠を語らないのです。
この方は、3.11人工地震攻撃もHAARPもケムトレールも『資本主義崩壊の首謀者』を著しても『民間が所有する中央銀行』制度には言及しない!!
不換銀行券が流通してると云う事は、その国で金融詐欺が行われていると云うことです。米国は、それを71年の金=ドル交換停止後、世界的規模で行った。想像を絶する破局が到来することは、絶対に避けられない。
マルクスもレーニンも膨大な著書を残したが、何処にも「通貨発行権」を取り上げて居ない。資本論で三大階級の所得の源泉を明らかにし、資本対賃銀労働者の階級闘争を煽り、三大階級の所得の源泉など遥かに上回る金融詐欺の本丸である金融ユダヤ人の通貨発行権を隠蔽する目的で書かれたのが、『資本論』だった。
ロシアで所持しているだけでも死刑の『シオン長老の議定書』、金融ユダヤ人の世界政府樹立のアジェンダを一切語らない摩訶不思議なお方。
明治維新が、isis,イスラム国と同じ田布施の長州キムチ(伊藤博文は朝鮮人)のマイノリティーを使ったフリーメーソン、ユダヤ革命で在る事を語らない。
昨今、明らかと為った昭和天皇が英国陸軍元帥(英国官報記載)にして、英国と日本の二重国籍を持つ金満家であり、敗戦前年にブレトンウッズ協定に参加した人物であることも知ってか知らずか、とぼけてる。
日本が世界で最初に核実験に成功(朝鮮半島)し、広島、長崎が、地上起爆であったこともthroughしている。
アジア侵略は、金(キン)の強奪目的、太平洋戦争は、ヤラセの八百長。敵の大将の首を先に取るのが戦、東京大空襲でも皇居は、爆撃されて居ませんね!仲間だからです。
広瀬氏の著書は、散発的にして、寸止め。
この30年間に明らかと為った世界の真実を何一つ踏まえて居ないのです。
3.11後、殆ど原発事故しか語らない知識人。
何者なのだろうか???近未来、原発再爆発の切迫を自信たっぷりに語る。
最後に広瀬氏に問いたい、グローバル化とは、何なのか?世界を俯瞰する方法論として、レーニン『帝国主義論』の「帝国主義は、市場、資源、勢力圏を求めて争う」云う帝国主義国家間対立の命題と1%の金融ユダヤ人に因る99%の支配と何れが正しい認識なのか、お答え願いたい。

この本は250ページの新書サイズで内容量は多くはないです。
ロシア革命100年目の2017年に、人を殺すな!命を守れという広瀬さんの反戦の叫びがこの本から聞こえてきました。
ロシア革命は戦争によって生活ができなくなり貧窮し餓死しかけていた市民、農民、労働者たちが「戦争やめろ、私たちは普通の生活をしたい」と立ち上がった、人類史上初の「国際反戦運動」だった。社会主義革命やマルクスレーニン主義などの空虚な大義やスローガンに誤魔化されず、いったい誰が?どういう一族の、どういう利権を背負って、武器メーカー、軍人、腐った政治家の形で動いたのか?ロスチャイルドやロマノフ王朝の系譜が表として暴かれます。



ロシア革命ではスターリンの粛正(大量殺人)が有名でスターリンは悪かったがレーニンはよかったなどと言われていますが1990年ソ連崩壊によってレーニン時代の粛正が明らかになり、スターリン時代に殺した数よりもレーニン時代(1917年~1922年)の間に殺した数の方が多かった事実が紹介されています。

1917年から1922年のレーニンが倒れるまでに内戦で殺された人間の数は1300万人に達し、レーニンはエスエル党員、メンシュヴィキの実名をあげ、直ちに彼らを逮捕せよ、ロシア正教の聖職者と白軍には容赦なくテロル(処刑)を実行せよ」と命じた。レーニンは200万世帯の富裕農民を寄生虫と呼び「彼らに死を」「絞首刑にせよ」と命じ労働者や農民などの虐殺はあらゆる階層に及んだ。そして革命を達成するのに必要なのは秘密警察であるといい、KGBを作り密告社会を作った。このソ連型警察国家は日本の特高警察と並び、現在の北朝鮮に至るまで全体主義国家の特徴です。日本の満州国建設を担った官僚もマルクスレーニン主義を手本としていた。

暴力によって政治を行うというのは共産主義であってもファシスト国家であっても間違いであり、命を粗末にして人権を無視するのは、どんな大義名分があっても許されない。

もし人間が頭のいい動物なら、人殺しの武器を作るのではなく、子育てのおもちゃを作ったり、病人を介護する医療機器を作るはずであり、戦争を準備するような政治家など落選させているはずだ。

レーニンは人生のほとんどを外国で暮らし、警察に追われ逃亡しながら生きてきた。兄はロマノフ王朝に殺され、農民の生活も労働者の生活も兵士の生活も経験したことがなく、ただ書物の空想の世界で暮らしていた(学者バカ)。ロシア革命は「反戦のために兵士や農民や労働者が立ち上がったもの」でそれは正しかった。しかしレーニンが日常生活よりプロレタリアート独裁を守れなどと、命以外のものを優先した時に軌道が狂った。
スターリンはその狂った軌道を、そのまま進み、1990年のソ連崩壊まで犯罪は隠されてきた。マルクスレーニン主義の実験は人殺しを目的にした時点で間違っていたのであり、その行き着く先は実兄を暗殺する北朝鮮の姿しかない。しかし、それらのマイナス点を引いても戦争を止めたいと立ち上がったロシアの農民、労働者、兵士たちが成し遂げたロシア革命は第1次世界大戦を終わらせ人類が成し遂げた反戦の偉業であり誇るべきことだった。戦争のない未来へ続く第1歩が1917年のロシア革命だったのかもしれない。

ロシア革命から100年を迎えた本年、革命史が岩波と集英社から新書で出版された。前者は正統的通史、後者は革命秘史である。著者はかつて原発問題の本質がどこにあるかを論じたが、この本では革命が成功した鍵を読者に提示する。それは第一次世界大戦に疲れた兵士・労働者・農民をソヴィエトに吸収し、反戦運動としてボリシェヴィキを率いたレーニンの戦略にある。トロツキーやスターリンとのある種複雑な人間関係、資金源と金脈の記述など、どれもが面白く、まさに歴史小説を読むような楽しさに魅了される。マルクスが蒔いた種をレーニンが花を咲かせたとよく言われるが、マルクスからレーニンまでは大きな時代的隔たりがあり、マルクス・レーニン主義などと一括りに論じられる筋合いのものではないのがロシア革命だ。裏から見た革命秘史、革命群像として提示した著者の力量に圧倒される。必読の名著である。レーニン伝としても楽しめる。おお勧めの一冊だ。

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