オーストリアのまとめ情報

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夜と霧 新版

旧版との比較

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「夜と霧」には旧版がありますが、それとの相違点について書いてみたいと思います。まず、旧版は1947年、新版は1977年に刊行された原典をもとにしています。1977年版にはいくつかの改訂が加えられていますが、1947年版の主旨が置き換わるほど大きなものではありません。次に、旧版は上智大学名誉教授の霜山徳爾氏、新版はドイツ文学翻訳家の池田香代子氏が翻訳しています。霜山氏の訳文は学者らしい切れのある文体、池田氏の訳文はていねいな読みやすい文体です。最後に、新版には旧版にあった「解説」「写真図版」という資料が削られています。

「解説」はドイツ強制収容所の過酷な実態を70ページ近くにわたって緻密に説明したもので、「写真図版」はそれを視覚的な面から補足しています。私個人としては、良かった点もあれば残念な点もあるので評価は星3つです。良かったのは池田氏の訳文が「夜と霧」を新しい側面から照らしてくれたことです。ただし、新版が登場したからといって、旧版すばらしい訳文の価値が下がることはないように思います。残念だったのは資料が削られたことです。私の場合、フランクルの言葉にどれほどの重みがあるかが資料を読むことではじめて分かった面もあったからです。「この本を若い人に読んでもらいたい」のが新版刊行の理由だそうですが、それならなおさら資料に意味があったのではないかと思います。総じて新版は旧版と比較して「軽くなった」という印象です。文章は読みやすくなり、資料は削られました。ただ、このような本を軽くしてよいのかには疑問があります。旧版を手にする機会があれば、一読することをお勧めします。

どう捉え、生かして行こうか

(参考になった人 32/36 人)

今から5年程前、まだ高校生だった僕は衛星放送で放映していた 「夜と霧」を見て衝撃を受けてしまった。虫の居所が悪かったり、果ては暇つぶしに人々を躊躇なく殺し、 死んだ人達を石鹸や画布道具に変えていったカポ達などの極悪非道ぶりに大ショックを受け‘人間’について考えさせられた。それから本書の存在を知りつつも、重い気持ちになるのを恐れなかなか読もうとしませんでした。 そこで著者の別の本から読み始め、数冊経たところでこれを読んでみると、人間の暗部を描いているように思っていたのに(その部分もありますが)、最終的にはそれでも精神の自由を高らかに宣言している著者に感服しました。

一人でも多くの、あらゆる人達に読んでもらいたい。 特に若い人達、傷付いている人達に。 世界がズーッと深くなり、もっともっと広く大きな視野を持てるし、手ごたえを感じると思います。 著者の「それでも人生にイエスと言う」や「宿命を越えて、自己を越えて」なども素晴しいと思うので、興味があったら読んで見て下さい。

以前からヴィクトール・E・フランクル博士の名前だけは知っていました。また、この本が読むべき本であるということも。しかし、なかなか読む気になれずにいた本でした。それは、その内容が悲惨な体験記であることをなんとなく予想していたからでした。#原題は「心理学者、強制収容所を体験する」実際に読むと、やはり悲惨な体験記ではありました。それでも、読み終わったときには、不思議とさわやかな気持ちになり、読んで良かったと思いました。#生きる(苦しむことや死ぬことも含む)うえで、#そのときどきの状況を自分の真価を発揮する機会#としてとらえていこう。世界的なロングセラーにもかかわらず、自分から積極的に探さないと、書店で見かける機会は少ないのではないかと思いますが、これはホントに読むべきです。

超訳 ニーチェの言葉

これまで読んだ中で、最も残念な書物

(参考になった人 13/14 人)

本書は、1ページ完結で、各ページ、右上にニーチェの箴言と思われる「冒頭文」があり、次に、その文章についての何行かの「説明文」が掲載されています。 そして、左下には、ニーチェの著書名が記載されています。他のレビューアーも書かれていますが、ページの大半を占める「説明文」は、ニーチェの著作の翻訳ではなく、著者の解釈による「解説文」となっていて、しかも、その断り書きがない。それでは、「説明文」はともかくとしても、「冒頭文」がどこから引用されているのか、試みに、 「ツァラトゥストラはこう言った (岩波文庫 青 639-2)」(※)で確認してみましたが、(※)から引用されているであろう「8つの冒頭文」について、引用元が不明か、あっても「説明文」で正しく文意を伝えているとは思えませんでした。

ここでは文字数の関係で、一例を記載します。【022友人を求める前に自分自身を愛する】 (※)の第1部に「友」という章がありますが、この文章に相当する記述は見当たりません。 その後に「隣人への愛」という章がありますが、そこに、 「あなたがたの隣人への愛は、あなたがた自身への愛がうまく行かないからだ」 とあります。 さらに33行あとに、 「わたしはあなたがたに隣人を教えようとはしない。友を教える」 という記述があります。 これらから、「自分自身を愛する」ことができていないこと、「友」を勧めるということは読み取れますが、【友人を「求める前」に自分自身を愛する】ということはニーチェは一言も述べていません。 つまり、この「冒頭文」は「訳」ではなく、著者の「解釈」です。本書は、著者がニーチェの著書から感じたことを記述し、その要約をページ冒頭に掲げたとしか思えません。 これが「ニーチェの言葉」ですか? ニーチェを「解釈」した、という断り書きがあればよいのです。本書を読んで「ニーチェの本を読んだ」という誤解を与えてしまう、そんな懸念があります。

こんな本がベストセラーとは・・・

(参考になった人 16/18 人)

ニーチェの著作の中から, 短い文章を,その前後の文脈を無視して抜き出して勝手な解釈を付け加えただけの本です. その解説も非常に幼稚なもので, ニーチェ思想の根底をあまり気にしていません. なんとなくいいことを言ってそうなものを引っ張っただけです. 本来のニーチェの思想の誤認識を誘います. この本をきっかけにニーチェに興味を持った方もいるかと思われますが, 実際にニーチェの著作を読む時にその差に愕然とされることかと思います.この出版社の会議の模様が出版当時テレビで流れていましたが 「ニーチェですから次はサルトルいきます?」 ぐらいの軽い発言が出てきて驚きました.

思想の本というのはそんなに簡単にほいほいと出せるものではありません. ここに正しいものを伝えようという出版者にあってしかるべきものや, 思想に対する姿勢の甘さが見られると思います.ただ 「なんとなく深そう」 と思って購入された方が多いのだと思います. そしてまさかこんな本がベストセラーになっているとは思わず, 中身を見ずに購入された方が増え刷数も無駄に多くなってます. 「刷数が多いから名著」 というジンクスを見事に打ち破っています.合コンなんかで 「ニーチェはね・・・」 と言って浅薄な知識をひけらかしてかっこつけたい人にはいいかもしれません.本当にニーチェを学びたければ, 岩波文庫から出ているニーチェの著作を一冊読むべきです. それがむずかしければちくま新書から出ている『ニーチェ入門』から読めばいいと思います. とりあえず,本書は入門書にもならないです.

「この世に真理などない。あるのは解釈だけだ」。そう言ったのはニーチェである。ニーチェの思想は人によって好き好きに解釈される。これほど読み方が分かれる思想家は他にいまい。例えばハイデガーの描き出したニーチェと、ドゥルーズのそれとでは全くものが違う。私の場合、私じしんプロテスタント信者なので、ニーチェをキリスト教の内部告発者として捉え、無神論者とは思いたくはない、という立場である(「それは違うょ」とよく言われるょ)。この「超訳」ニーチェも、恣意的に訳され、都合のいい様に編集されたものである。完全に毒が抜けていて、名言日めくりカレンダーや自己啓発本のような代物となっている。

ニーチェの持つ凄みはどこに行ってしまったのだろうか。同じ「超訳」でも『キリスト教は邪教です』の方が、読者を刺激し、考える余地を大いに与えている。しかしこの本は、読者を徹底的に甘やかせ、自分自身で思惟することを忘れさせ、さらに頭が良くなったような感覚をもたせている。この本が売れたことをどう受け止めるべきか。この本によって、多くの人たちが哲学に興味をもったことは確かである。それは功罪の功であろう。しかし、その多くの人たちに、平板化された哲学・思想を吹き込んでしまったことは罪である。あと編訳者だが、十数年前、哲学史のあんちょこ本を三笠書房から上梓したのだが、そこでニーチェを酷評していた。何があったんだろう。

幸福について―人生論

独特の論調

(参考になった人 35/43 人)

ニーチェやトーマス・マンらが影響を受けたドイツの哲学者、アルトゥール・ショーペンハウアーの幸福論です。 『幸福論』という表題の作品はこれまでに、アラン、ラッセル、ヒルティのものを読みましたが、本作はそれらの中でも非常に独特の世界を持っていて、最も癖のある哲学に基づいているものだと感じました。 他のレヴュアーさんも書いておられますが、本作で述べられる哲学はポジティヴなものではありませんし、主張もやや独断的で、極端なきらいが見受けられます。詩的というより散文的であり、テイスト的には、箴言家として有名なラ・ロフシュコーの作風と近いかもしれません(ロフシュコーは性格的には熱血漢ですが)。

人間の本性に対する描写の辛さ加減は、イギリスの文豪サマセット・モーム並(激辛)です。 夏目漱石が『草枕』の中で、「智に働けば角が立つ。情に掉させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る」と言っていますが、この本を読んだ限りでは、ショーペンハウアーの哲学には画や詩のない人生みたいに悲惨なところがある(汗)という印象を受けました。そうした創作の幸福については、本書の中でショーペンハウアーも認めてはいるのですが、それらは才能のある人間に限られた幸福と定義しており、自分のような平凡な一般庶民はハブられているような書き方なので、どっちみち悲惨です。 しかし、哲学が「知っていると思い込んでいる事柄に揺さぶりをかける」ものであるとすれば、そうした機能は間違いなく持っている作品ですし、思考の基礎力の備わっている方には良い思索の材料となる本だと言えると思います。ヨーロッパの騎士道を風刺するくだりは、現代の東洋人が読んでも余りにピンとこない上に冗長で、読んでいてちょっと草臥れますが。 著者は、ストア派の哲学や仏教の無常観を基調として、基本的には「この世界は苦に満ちた世界」であると捉え(全ての仏教がそう捉えるわけではありません。例えば法華経では、人生は「衆生所遊楽」−つまり遊楽するためのものであると説いています)、「基本的に生きることは苦なんだけれども、その上でどうしたら少しは人生が耐えやすくなるか」を、様々な例を挙げて本書で述べています。 「事物の客観的・現実的なあり方がわれわれを幸福にしたり不幸にしたりするのではなく、われわれに対する事物のあり方、われわれの見方に映じた事物のあり方が、われわれを幸福にしたり不幸にしたりするのである」という言葉が象徴的に示すように、ショーペンハウアーの人生への対処法は、基本的には自分の心の感じ方をコントロールしていく事と言えると思います。これはアランやヒルティをはじめ多くの賢人が教えるところでもありますし、非常に有益な教えだと思います。ただ、彼らと違いショーペンハウアーの哲学には人間の善性や個人の能力差(「賢者とばか」「精神的貴族とぼんくら」等と表現される)に対しての強い不信感と諦念があり、「他者を尊敬し、他者に奉仕すること」を幸福に至る道と見ません。宗教性を排する哲学の辛いところなのかも知れません。 暴慢だったアショーカ王が戦争の災禍と悲惨を見て平和主義者になったように、「精神的庶民」が成長して「精神的貴族」になるということもあるわけですから、もう少し人間の可能性に言及してもいいのではと思います(まあ、権力を手に入れて逆に退化した例・サウル王とか・が更に多いと言われるかもですが)。 本作中でスイスの大教育者ペスタロッチにも言及されますが、それも「たとえペスタロッチであっても、人間の生まれ付いての精神的優劣はどうしようもない」と断じた文脈です。しかしヘレン・ケラーだって、サリバン先生がいなかったら人生が変わっていたでしょうし、優れた教育者との出会いが人間を良い方に変えることも決して少なくはない、真の教育には人間に良い影響を与える力がある、と私は信じます。 「同胞である人間を正しく認識するのは大切だが、その上でもし人間を軽蔑してしまったら、人生は地獄である」ということ−高い知性に恵まれれば恵まれるほど、人間の醜さや業の深さも鮮明に見えてしまうのでしょうが、「知性」に釣り合った「愛」を伴わない時人生は実に悲惨である、ということをしみじみ思わせられました。 が、後半(第5章)の「訓話と金言」は読みやすく、また「人生において知恵に次いで重要なものは勇気である」という言葉と、それに続く鼓舞激励の一節には感銘を受けました。 私はショーペンハウアーの哲学や生涯については詳しくありませんので、一面的な浅い理解になっているところはあると思います。この感想はあくまで本書を一読してのものです。 全体的に、この事柄について真剣に突き詰めようという空気がなく、ある意味生きることに余裕のある贅沢な人間の哲学という印象ではあり、かつペシミスティックな作品なので、読了後「よーし、いい本読んだな〜!明日からまた皆と仲良く、明るく元気に頑張ろーうッ☆」とはならないところがあるかと思います(笑)。もし『幸福論』という本を本書しか読まれていない方がいらっしゃったら、ポジティヴ思考補給のためにヒルティかアランの『幸福論』と併読されることを個人的にはお勧めいたします。

毒を含む本

(参考になった人 17/28 人)

今、現在、必要なのはスピリチュアルではなく、 哲学である。スピリチュアルには弊害がある。 最近、そういうブームで相当、違和感を 感じている。あんな薄弱な思想で本当に幸せに なれるものか!と思うのである。 考え、考え、考えて想像した、自分の哲学こそ 真の幸福を呼ぶのである。 その意味で、まぁ、多少はスピリチュアル系の 本も読む価値はあると思うが、本書は絶対 読むべきだと思う。 スピリチュアル的思想系の本と比べて の100倍は充実しているし、 (あるではないか、文字が少なくて絵が多くて、 簡単で、1800円とか) この値段で、この充実さは感嘆する。

幸福について真剣に考えて、スピリチュアルってなんか微妙だな と思っている人には最高の本である。 本の内容、特徴に関して具体的に言うと、まず、 幸せは三部構成であることから、入る。 簡単に言うと、第一に幸福のために 自分がどうあればいいかの考察 第二に私達の欲望と個人の性質から見たこれへの行動心理 第三に自分の他人への態度から生じる幸福関連について なお、第一が最も重要な幸福とし、 第三についてはあまり重要とはしていないくせに、 一番ページを割いているのが、なぜか第三についての 考察で、次に第一であり、第二についての考察は たったの12ページである。一通り述べた後、訓話と金言という章にはいる。 この章は幸福の法則が長さは違いがあるにせよ 53のさまざまな考察がなされていて、個人的には 最も面白かった。最後の年齢の差異についてという章は つまり、若いときはこんな心境であり、 年取ったら、こんな心境であるということが 書いてある。著者が言うように、人生を歩む上で こういう事は知っといたほうがためになる。本書全体としての特徴ないし、著者 ショーペンハウアーの特徴として、 まず、豊富な引用文に、ユーモラスな比喩が 心をくすぐり、差別的な用語も結構多くて、 (例えば愚かな愚民とか、ばかとか。)そのために 不快になることもある。要するに毒舌である。 現代にこの人が生きていて、この本を 出したら、誹謗中傷の荒らしの手紙が 彼の元に届くだろうし、某掲示板などでも 同様なことがおこると予想される。僕は、高校二年生であり、幸福については 同年代の人々よりは考えてきたつもりである。 そのくらい、幸福についての人生についての 本はよく読んだ。しかし、 彼の思想は、僕の本当に苦労して築いた幸福論を 嘲笑し、あっさり、ハンマーでぶっ壊してしまった。 良薬は口に苦し的な本であった。 こんな本は久しぶりだったので、大人の方々が 読まれてもまずまずの良書であると思う。

感謝

(参考になった人 9/14 人)

哲学は哲学、人生は人生です。形而上の物語を生きる人なんてどこにもいません。だから人生の悲しい本質を知りながらも、出来るだけ幸せに生きよう。たとえそれが影のように空虚なものであったとしても—と、いうような趣旨で書かれた本です。よく「厭世主義」と言われるショーペンハウアーのものです。彼の主著「意志と表象としての世界」を読了された方なら、その風尚な哲学にあまり似つかわしくない妥協的な記述とのギャップに驚くかも知れません。でもね、彼だって一個の人間として、きちんと人生を歩んだんですよ。信じられないかも知れないけど。

だけどそこはショーペンハウアー。ここにある人生論にも、彼の哲学が随所に息づいています(むしろ、そうでないような哲学的高尚さなどノライヌに食わせたいくらいのもんです)。「世界は私の表象である。だから何事も楽しく表象した方が得だよ」 「福音とは意志なき認識である。だから刹那的享楽に走って意志を刺激してはだめだよ」ざっくり言えば、だいたいこんなふうに語られています(ちなみに、これは僕の解釈に過ぎませんが「意志なき楽しい認識」とは、要するに「感謝」ではないかと思います)。人生という舞台に放り出されたピエロとしての我々を毒舌で笑い、悲しい存在であることを自覚しながらも、この人はきっとそれなりに楽しく生きたのでしょうね。これを読んでいると、それがふとした香りとして立ち上ってくるようです。オプティミズムもペシミズムも、煎じ詰めれば同じであると僕は思います。それはストア派とエピクロス派の本質的一致を理解される方になら、おそらく同様に理解されるでしょう。「ショーペンハウアーは暗いから嫌い」って人がたまにおられます。 本当にそう思われますか?だとしたら、僕はもうちょっとよく読むことをおすすめしますよ。

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Austria

2006年10月、オーストリア大使館商務部は、オーストラリアとの国名の混同を避けるため、「オーストリア」の日本語表音表記を「オーストリー」にすると発表した。商務部のウェブサイト*1では、「オーストリー大使館商務部 (旧 オーストリア大使館商務部)」との表記が見られる。しかし、現在のところ、日本語の公式表記は変更されていない。2006年11月現在、駐日オーストリア大使館ウェブサイト*2内の日本語表記は「オーストリア」であり、同サイトには大使のコメントとして以下の記述がある。

ここで強調したいことは、オーストリア大使館が日本語表記の公式な変更を要請したものではないことです。それは専ら日本国の裁量下にあると認識しています。

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