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アドルフ・ヒトラー(, 1889年4月20日 - 1945年4月30日)は、ドイツ政治家ドイツ国首相、および国家元首であり、国家と一体であるとされた国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)の指導者。

1933年に首相に指名され、1年程度で指導者原理に基づく党と指導者による独裁指導体制を築いたため、独裁者の典型とされる。その冒険的な外交政策はドイツを第二次世界大戦へと導くことになった。また、ユダヤ人などに対する組織的な大虐殺「ホロコースト」を主導したことでも知られる。敗戦を目の前にした1945年4月30日、自ら命を絶った

概要

出生地はオーストリア=ハンガリー帝国オーバーエスターライヒ州であり、国籍としてはドイツ人ではなくオーストリア人であったが、民族としてはドイツ人である。1932年にブラウンシュヴァイク州のベルリン駐在州公使館付参事官に任ぜられてドイツ国籍を取得し、ドイツ国の国民となっている。

第一次世界大戦までは無名の一青年に過ぎなかったが、戦後にはバイエルン州において、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)指導者としてアーリア民族を中心に据えた人種主義反ユダヤ主義を掲げた政治活動を行うようになった。1923年に中央政権の転覆を目指したミュンヘン一揆の首謀者となり、一時投獄されるも、出獄後は合法的な選挙により勢力を拡大した。

1933年には大統領による指名を受けてドイツ国首相となり、首相就任後に他政党や党内外の政敵を弾圧し、ドイツ史上かつてない権力を掌握した。1934年8月、ヒンデンブルク大統領死去に伴い、大統領の権能を個人として継承した(総統)。こうしてヒトラーという人格がドイツ国の最高権力である三権を掌握し、ドイツ国における全ての法源となる存在となり。この時期のドイツ国は一般的に「ナチス・ドイツ」と呼ばれることが多い。

ヒトラーは人種主義優生学ファシズムなどに影響された選民思想(ナチズム)に基づき、北方人種が世界を指導するべきと主張していた。またニュルンベルク法や経済方面におけるアーリア化など、アーリア人の血統を汚すとされた他人種である有色人種(黄色人種黒色人種)や、ユダヤ系スラブ系ロマとドイツ国民の接触を断ち、また迫害する政策を推し進めた。またドイツ民族であるとされた者でも、性的少数者退廃芸術障害者、ナチ党に従わない政治団体・宗教団体、その他ナチスが反社会的人物と認定した者は民族共同体の血を汚す「種的変質者」であるとして迫害・断種された(生きるに値しない命)。

さらに1937年の官邸秘密会議や我が闘争で示されているように、自らが指導する人種を養うため、旧来の領土のみならず「東方に『生存圏』が必要である」として帝国主義的な領土拡張と侵略政策を進めた。ヒトラー率いるナチス党によるドイツの統治は1939年のポーランド侵攻に始まる第二次世界大戦を引き起こし、一時的に領土を拡大した。この戦争の最中でユダヤ人に対するホロコースト、障害者に対するT4作戦などの虐殺政策が推し進められた。幾度か企てられた暗殺計画を生き延びたが、最終的に連合国の反撃を受け、全ての占領地と本土領土を失いヒトラー率いるドイツ国政府は崩壊した。ヒトラー本人は包囲されたベルリン市の総統地下壕内で自殺したが、その後生存していたという説も存在している(アドルフ・ヒトラーの死)。

ヒトラー家

ヒトラー家の出自については謎が多く、本人も「私は自分の一族の歴史について何も知らない。私ほど知らない人間はいない。親戚がいることすら知らなかった。(中略)…私は民族共同体にのみ属している」と語っている。出自について詮索される事も非常に嫌い、「自分が誰か、どこから来たか、どの一族から生まれたか、それを人々は知ってはいけないのだ!」と述べており、妹パウラは「兄には一族という意識がなかった」としている。

そもそもヒトラーの実父アロイス・ヒトラーからして出自が不明瞭な人物で、彼は低地オーストリア地方にあるシュトローネス村にという未婚女性の私生児として1837年に生まれ、アロイス・シックルグルーバーと名付けられている。父アロイスは祖母マリアが42歳の時に生まれた高齢での出産で、しかもこれが初産であった。さらに祖母は子供の父親として考えられる相手の男性について決して語らず、結果的にアロイスの洗礼台帳は空白になっている。後にマリアはアロイス出産後に粉引き職人と結婚、アロイスは「継父と母が儲けた婚外子」で後に結婚したのだろうと語っているが、その根拠は示されていない。職人として各地を放浪しながら働いていたゲオルクとマリアに接点があったとは考えがたく、またアロイスはゲオルクの養子にはされずシックルグルーバー姓で青年期まで過ごしている。

暫くしてアロイスは継父の弟で、より安定した生活を送っている農夫に引き取られ、義叔父ネーポムクはアロイスを実子のように可愛がった。ちなみに兄弟で名字が異なるが、読み方の違いであって綴りは同じHiedlerと記載されている。もともとHiedlerは「日雇い農夫」「小農」を語源とする姓名で、それほど珍しい姓名でもなかったとされている。「ヒトラー」「ヒードラー」「ヒュードラ」「ヒドラルチェク」などの姓は東方植民したボヘミアドイツ人、およびチェコ人スロバキア人などに見られるとも言われる。

1887年、アロイスは地元の公証人に「自分は継父の実子である」と申請を出し、教会にも同様の書類を提出した。改姓にあたっては義叔父ネーポムクが全面的に協力しているが、実はネーポムクこそアロイスの実父であったのではないかとする意見もある。それまでシックルグルーバー姓で満足していたアロイスが突然改姓したのは娘しかいなかったネーポムクが隠し子に一家の名と財産を相続させたかったからではないかと推測されており、現実に大部分の遺産を譲られている。あるいは体面を気にするアロイスにとって自身の出自が不明瞭である事を示す、母方のシックルグルーバー姓を忌まわしく感じた可能性もある。改姓前後からアロイスは母方の親族と全く連絡を取らなくなり、娘の一人である末女パウラは親戚付き合いが殆どない事について「父さんにも親族がいないはずはないのに」と不思議がっていたという。

ともかくアロイスは「Hiedler」姓に改姓したが、読み方については「ヒュットラー」でも「ヒードラー」でもなく「ヒトラー」と書かれており、おそらく公証人が読みやすい名前で記載したものと思われる。ちなみに日本で最初に報道された際には「ヒットレル」と表記され(舞台ドイツ語の発音が基になっている)、その後は「ヒットラー」という表記も多く見られた。

父母と兄弟

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父アロイスは義叔父の下で小学校(国民学校)を出た後、ウィーンへ靴職人として徒弟修行に出向いている。しかしウィーンに出たアロイスは下層労働者で終わる事を望まず、19歳の時に税務署の採用試験に独学で合格して公務員となった。上昇志向が強いアロイスは懸命に働いて補佐監督官や監督官を経て最終的には税関上級事務官まで勤め上げたが、これは無学歴の職員としては異例の栄達であった。40年勤続で退職する頃には1100グルデン以上の年収という、公立学校の校長職より高い給与も勝ち取っていた。アロイスはこうした成功から人生に強い自尊心を持ち、親族への手紙でも「最後に会った時以来、私は飛躍的に出世した」と誇らしげに書いている。また軍人風の短髪や貴族然とした厳しい髭面を好み、役人口調の気取った文章で手紙を書くなど権威主義的な趣向の持ち主であった。

アロイスは性に奔放な人物で、生涯で多くの女性と関係を持ち、30歳の時にはテレジアという自分と同じような私生児を最初の子として儲けており、生物学的には彼女がヒトラーの長姉となる。1873年、36歳のアロイスは持参金目当てに裕福な独身女性の50歳のアンナ・グラスルと結婚したが、母マリアのような高齢出産しか望みのないグラスルとは子を儲ける事はなかった。代わりにアロイスは召使で未成年の少女だったフランツィスカを愛人とし、1880年に事実を知った妻アンナからは別居を申し渡されたが、人目も憚らずフランツィスカを妻の様に扱って同棲生活を送った。1883年、最初の妻アンナの死後にアロイスはフランツィスカと再婚して結婚前に生まれていた長男をアロイス・ヒトラー・ジュニア(アロイス2世)として正式に認知、続いて結婚後に長女を儲けた。だがアロイスは既にフランツィスカへの興味を失いつつあり、新しい召使であったクララ・ペルツルを愛人にしていた。

クララの父はヨハン・バプティスト・ペルツル、母はヨハンナ・ペルツルという名前だったが、このうち母ヨハンナ・ペルツルの旧姓はヒードラーだった。彼女は他でもないアロイスの義叔父であり、実父とも考えられるの娘であった。もしアロイスがゲオルクの子であったとすればクララとは従姪の間柄となり、ましてネーポムクの子であればですらあった。しかも彼女はアロイスより23歳年下と親子ほどの年齢差だった。フランツィスカはアンナの二の舞を恐れて結婚前にクララを家から追い出したが、フランツィスカが病気で倒れるとアロイスの手引きでクララは召使として再び入り込んだ。

1884年、二番目の妻が病没すると1885年1月7日に47歳のアロイスは24歳のクララと三度目の結婚を行った。少なくとも法的には従姪である以上、結婚には教会への請願が必要であったので「血族結婚に関する特別免除」をリンツの教会に申請して、ローマ教皇庁から受理されている。クララは結婚から5ヶ月後に次男グスタフを生み、続いて1886年に次女イーダ、1887年に三男オットーを生んだが三子は幼児で亡くなっている。1889年、四男アドルフ(ヒトラー)が生まれ、長男アロイス2世とともに数少なく成人したヒトラー家の子となった。1894年に五男エドムント、1896年に三女パウラが生まれている。

後に長男アロイス2世はブリジット・ダウリングという女性と結婚してウィリアム・パトリック・ヒトラーを儲け、また長女アンゲラは父と同じ税務官であったレオ・ラウバルと結婚して三子を儲けたが、その一人がゲリ・ラウバルである。

また、上記にあるようにヒトラーの父のアロイスが婚外子ということで、ヒトラーが政権を把握すると彼自身が「ユダヤ系」ではないかと巷の噂が流布されたが、ヒトラーの死後の史家による徹底的な調査の結果、否定されている(下記も参照)。

親族

シックルグルーバー家

マリア・シックルグルーバーの生涯と出産、そしてアロイスの改姓や母方の一族を避けるという謎の多い行動は「何かを隠している」として噂の対象となった。父アロイスが10歳の時に祖母マリアは亡くなったが、彼女の出産経緯は息子のアロイスだけでなく、孫のヒトラーにも「出自の謎」として付いて回る事になる。顧問弁護士であり、ポーランド総督でもあったハンス・フランクは、1930年に異母兄アロイス2世の子である甥のウィリアム・パトリック・ヒトラーから「ヒトラーがユダヤ人の私生児であるという話に新聞が興味を持っている」と脅しをかけられた事にヒトラーが動揺し、家系調査を行わせていたと証言している。

フランクの調査結果は「マリアはグラーツのユダヤ人資産家、フランケンベルガー家に奉公に出ていた時期にアロイスを産んでおり、子息から14年間養育費を受け取っていた」として、アロイスの父親がレオポルトであると見られるというものであった。フランクの「フランケンベルガー実父説」は1950年代まで広く信じられていたが、次第に史学上の根拠に欠けると指摘されるようになった。またフランクは「ヒトラーは由緒正しいアーリア系である」と矛盾する証言もしている。また(西スラヴ系ドイツ人)はアロイス出生時のグラーツでユダヤ系住民がすでに追放されていたことからこの説を否定し、1998年には歴史学者でヒトラー研究の第一人者であるイアン・カーショーも「政治的な攻撃材料以外のものではない」と結論している、当の記事が報じた研究者からこの報道内容に疑義が呈されている。むしろこの研究の結果、父アロイスがヒトラー家の血を引いていることが確実となった。

ペルツル家

父方のシックルグルーバー家と並んでヒトラーの悩みの種であったのが、母方のペルツル家であった。祖母と同名であるために、ヒトラー家からは「ハンニおばさん」の渾名で呼ばれていた母の妹ヨハンナ・ペルツルは重度の猫背(くる病)で精神疾患も患っていた。ハンニは妹一家から家事手伝いや甥や姪の面倒を任され、特に姉からは頼りにされていたが、ヒトラー家の家政婦ヘルルからは「頭のいかれたせむし女(ハンニ)」と陰口を叩かれている。ハンニを診察したブラウナウの医師は現代的な呼称で言えば統合失調症に相当する症状が出ているとの診断を下し、ヒトラー家かかりつけの医師エドゥアルド・ブロッホもヒトラー家はヨハンナを周囲から隠していたと証言し、「恐らく軽度の精神薄弱である」と診断している。

後年にT4作戦で劣等人種や障碍者と並んで精神患者を抹殺しようとしたナチスやヒトラーにとって、その親族に精神患者が存在したという過去は隠さねばならなかった。ナチ政権下の歴史家たちはヒトラー家の顕彰に努めたが、ペルツル家の存在だけは殆ど触れられていない。ちなみにペルツル家以外にも低地オーストリアの地方にはペルツル家の親族が幾らか点在しているが、一族という概念を嫌うヒトラーからはその存在を殆ど無視されていた。にも関わらず彼ら一族郎党は後年「アドルフ・ヒトラーの血族」として迫害を受ける事になった。

幼少期

生い立ち

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1889年4月20日の午後6時30分、当時ヒトラー家が暮らしていたブラウナウにある旅館ガストホーフ・ツー・ボンマーでアロイス・ヒトラーとクララ・ヒトラーの四男として出生、2日後の4月22日にローマ・カトリック教会のイグナーツ・プロープスト司教から洗礼を受け、アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)と名付けられた。洗礼には叔母ハンニと産婆ポインテッカーの二人が立ち会っている。

ヒトラーが3歳の時に一家は別の家に引っ越して、ドイツ帝国バイエルン王国パッサウ市へ転居している。バイエルン・オーストリア語圏の内、オーストリア方言からバイエルン方言の領域へ移住したことになった。彼の用いるドイツ語には標準ドイツ語と異なる独特の「訛り」が指摘されるが、それはバイエルン人としての出自ゆえのことである。幼いヒトラーは西部劇に出てくるインディアンの真似事に興じるようになった。また父が所有していた普仏戦争の本を読み、戦争に対する興味を抱くようになった。1895年、リンツに単身赴任していたアロイスが定年退職により恩給生活に入ると、一家を連れてハーフェルト村という田舎町に引越し、屋敷を買って農業と養蜂業を始めている。ヒトラーはの郊外にあったの国民学校(小学校)に通った。

1896年、異母兄アロイス2世が父との口論を契機に14歳で家から出て行き、二度とヒトラー家には戻らなかった。異母弟ヒトラーや継母と折り合いが悪かった事も一因と見られている。跡継ぎとなったヒトラーは1897年まで国民学校に在籍した記録が残っているが、フィッシュルハム移住後から学校の規律に従わない問題児として、ヒトラーも父と諍いを起こすようになった。1897年、父親の農業は失敗に終わり、一家は郊外の農地を手放してランバッハ市内に定住している。ヒトラーもベネディクト修道会系の小学校に移籍し、聖歌隊に所属するなどキリスト教を熱心に信仰して、聖職者になることを望んだ。ベネディクト修道会の聖堂の彫刻には後にナチスのシンボルマーク章として採用するスワスチカが使われていた。本人によれば、信仰心というよりも華やかな式典や建物への憧れが強かったようである。

1898年、ランバッハからも離れてリンツ近郊のレオンディングにアロイスと一家は同地に定住したが、後年にヒトラーから生家を案内されたゲッベルス曰く「小さく粗末な家」であったという。弟エドムントが亡くなる不幸などを経て、次第にヒトラーは聞き分けの良い子供から、父や教師に口答えする反抗的な性格へと変わっていった。感傷的な理由からではなく、単純にアロイス2世の家出もあってヒトラーが唯一の跡継ぎになってしまい、一層に父親からの干渉が増したからである。1899年、各地を転々としていたヒトラーは義務教育を終え、小学校の卒業資格を得た。

父との諍い

母クララとの関係は良好だったが、家父長主義的なアロイスとの関係は不仲になる一方だった。アロイスの側も隠居生活で自宅にいる時間が増えたことに加え、農業事業に失敗した苛立ちから度々ヒトラーに鞭を使った折檻をした。アロイスは無学な自分が税関事務官になったことを一番の誇りにしており、息子達も税関事務官にすることを望んでいた。これもますますヒトラーとの関係を悪化させた。後にヒトラーは父が自分を強引に税関事務局へ連れて行った時のことを、父との対立を象徴する出来事として脚色しながら語っている。1900年、中等教育中学校高校)を学ぶ年頃になるとギムナジウム(大学予備課程)で学びたいと主張したヒトラーに対して、アロイスはリンツのレアルシューレ(実科中等学校、Realschule)への入学を強制した。自伝『我が闘争』によれば、ヒトラーは実科学校での授業を露骨にサボタージュして父に抵抗したが、成績が悪くなっても決してアロイスはヒトラーの言い分を認めなかった。

恐らくヒトラーが最初にや大ドイツ主義に傾倒したのはこの頃からであると考えられている。なぜなら父アロイスは生粋のハプスブルク君主国の支持者であり、その崩壊を意味する過激な大ドイツ主義を毛嫌いしていたからである。また政治的にもおそらくは自由主義的な人物で宗教的にも世俗派に俗した。周囲の人間も殆どが父と同じ価値観であったが、ヒトラーは父への反抗も兼ねて統一ドイツへの合流を持論にしていた。ヒトラーはハプスブルク君主国は「雑種の集団」であり、自らはドイツという帰属意識のみを持つと主張した。ヒトラーは学友に大ドイツ主義を宣伝してグループを作り、仲間内で「ハイル」の挨拶を用いたり、ハプスブルク君主国の国歌ではなく「世界に冠たるドイツ帝国」を謡うように呼びかけている。ヒトラーは自らの父を生涯愛さず、「私は父が好きではなかった」との言葉を残している。

ただしアロイスによる強制というヒトラーの主張は疑わしいと見られている。税務官などの官吏に登用されるには法学を学ぶ必要があるが、当時のドイツで法律を学ぶにはラテン語が必修であった。実科学校はギムナジウムと異なりラテン語教育が施されることはまずなく、仮に官吏になったとしても税務官のような上級役職に進める人間はそれこそアロイスのように特例であった。実際、ヒトラーの同窓生達で官吏になったものも鉄道員、郵便局員、動物園職員などに留まっている。もしアロイスが本当に税務官になることを望んだのなら、むしろギムナジウム入学を強制したはずである。よってギムナジウムに進学できなかったのは単にヒトラーの学力不足であって、父アロイスは成績不良の息子が手に職を就けられるように気遣った可能性が高い。

1901年、田舎の小学校で学んでいたヒトラーは都会の授業についていけず、リンツ実科中等学校一年生の時に必修の数学と博物学の試験に不合格となり、留年となった。1902年には二年生に進級したが、学年末にまたもや数学の試験を落として再試験を受けて辛うじて三年生に進級した。1903年1月3日、14歳の時に父アロイスが65歳(数え年)で病没する。地元の名士だった父の死は地方新聞の記事になっており、料理店で食事中に脳卒中で倒れて死亡したという。しかし憎む対象を失った後もヒトラーの問題行動は収まらず、成績も悪化を続けた。同年には外国語(フランス語)の試験に不合格となって2度目の留年処分を受け、扱い兼ねた学校からは四年生への進級を認めて貰う代わりに退学を命じられる有様だった。

退学後、リンツ近郊にあったシュタイアー市の実科中等学校の四年生に復学したが、前期試験で国語数学、後期試験では幾何学で不合格となった。私生活でも下宿生活を送る中、学友と酒場に繰り出して酔った勢いに任せて在学証明証を引き裂くなどの乱行を行い、教師達から大目玉を食らっている。

ヒトラーにとって唯一正式に教育を終えたのは先述の小学校のみであり、息子の学業に望みを持っていた父と結果として同じ経歴となった。

青年期の挫折

リンツでの日々

1905年、実技学校を離れたヒトラーは一旦は寡婦となった母がいるリンツに戻った。アロイスの死後、ヒトラーは母の溺愛と唯一の男子という立場から「小さなアロイス」として専横的に振舞った。共に父からの体罰に怯えていたはずの妹パウラ・ヒトラーにも家父長的に接し、パウラが学校に向かうのを見張り、何か気に食わない行動があれば平手打ちを食らわせた。

しかし家の外に広がる社会に対しては消極的で、気まずさもあって昔の友人とも会うのを避けていたが、暫くしてアウグスト・クビツェクという同年代の青年と交流を持つようになった。クビツェクはアロイスと同じく小学校を出てすぐに働きに出ていたため、実技学校を離れたヒトラーにかえって憧憬を抱いており、ヒトラーに付き従ってリンツ郊外などの散策や歌劇場の観覧に出向いていた。他にシュテファニーという女性に熱を上げていて、実際にアカデミーを出て画家になってから結婚を申し込みたいという手紙を送っている。リンツはヒトラーにとって第二の故郷であり、総統就任後も青年期に構想していたリンツの都市改造計画を実施しようと専用の建築官房まで設立していた。

クビツェクによれば当時のヒトラーは手入れの行き届いた清潔な格好をしており、黒い帽子や皮手袋、象牙が用いられたステッキなどを身に付けていた。この上流趣味は父を失ってなおヒトラー家が富裕層であったことを意味しており、ヒトラー自身も「パンのために働く仕事」を軽蔑していたという。母クララは息子が何の仕事にも就かないことを心配しており、義兄(姉の夫)のレオ・ラバウルも「アドルフを職に就かせるべきだ」と迫っていた。本来であれば学業を辞めたのなら同年代の青年達と同じく、何か従弟修行や職業訓練を受けさせなければならなかった。だがヒトラーは執拗に母に画家になる夢を語り、意志の弱いクララは息子の夢に理解を示していたが、内心で不安でもあった。

クビツェクはしばしばクララからヒトラーが亡父が望んだような生き方を選ぶように説得してほしいと頼まれたという。そう話すクララの容貌を「実年齢より老け込んで見えた」と回想しており、息子が芸術家としてどうやって身を立てるのか、肝心な部分が曖昧だった事に不安を覚えていたのだろうと推測している。ある時、ヒトラーは絵だけではなく音楽に興味を向け、クララはピアノを買い与えて軍楽隊出身の家庭教師まで付けているが、数ヶ月もしない内に興味を失って投げ出している。1907年1月、母クララが倒れ、エドゥアルド・ブロッホ医師の診察で重度の乳癌と診断され、ヒトラーとパウラに「殆ど望みはない」ことを告知した。見るからに痩せ細っていくクララにヒトラーは動揺したが何もできず、介護や家事は殆ど叔母ハンニや姉アンゲラ、さらにはまだ小学校に通っていた妹パウラに任せきりだった。

ウィーンへの移住

1907年4月、18歳になったヒトラーは法律上で700クローネ相当の遺産分与の権利を得たが、これは当時の郵便局員の収入の一年分であった。父の遺産に加えて遺族年金から仕送りを得る約束を母親から貰い、芸術の都であるウィーンへ移住して美術を学ぶことを決めた。同年9月にウィーン美術アカデミーを受験した。当時のウィーン美術アカデミーは大学などの高等教育機関ではなく職業訓練学校であり、年齢制限や学歴などの条件が緩く、実科学校を途中で放棄したヒトラーでも受験が可能であった。前年の1906年にはヒトラーより一歳年下で後に画家として名を成したエゴン・シーレが工芸学校を卒業後、16歳で入学している。

しかし肝心のヒトラーの試験結果は不合格であった。試験記録には「アドルフ・ヒトラー、実科学校中退、ブラウナウ出身、ドイツ系住民、役人の息子。頭部デッサン未提出など課題に不足あり、成績は不十分」と記述されている。受験人数は113名と少人数で、合格者も28名と4倍程度の倍率で極端に難関という訳ではなかった。試験内容は実技とこれまで製作した作品の審査からなっていたが、前述の通り頭部デッサンの未提出など審査用の作品に不足があると判断されて不合格となった。アカデミー受験に失敗した時に学長に直談判し、人物デッサンを嫌う傾向から「画家は諦めて建築家を目指してはどうか」と助言されたエピソードも有名である。ウィーンでの美術館巡りでは建物自体の観賞を好んだと書き残すなど、ヒトラーは実際には建築物を好んでいてこの助言に大いに乗り気になったが、程なく彼は建築家を目指すのは画家よりさらに非現実的な望みであることを知ったと書き残している。

画風については丹念な描写に情熱を注ぐものの独創性に乏しく、後に絵葉書売りで生計を立てた時も既存作品の模写が多かったという。

後にヒトラーは『我が闘争』の中で以下の様に語っている。

放浪生活

1908年2月、妹パウラを異母姉アンゲラの嫁いだラウバル家に預けて再び首都ウィーンに舞い戻ると今度は生活拠点も移し、シュトゥンペル街に下宿先を借りた。程なくして音楽学校に合格したクビツェクがウィーンへやってくると、シュトゥンペルの下宿先で共同生活を送るようになった。ウィーンの裏通りにある下宿先は月20クローネの2人部屋で、ゆったりとした生活スペースにクビツェクが練習用に借りたグランドピアノと2つのベッドが置かれていた。朝に学校に向かうクビツェクに対してヒトラーは部屋で寝ており、帰ってきたクビツェクがピアノの練習する時間帯になると図書館や公園に出かけていった。時に昔のように2人で美術館や街の散策に出かけると、美術上の知識や持論を延々と語っていた。クビツェクが音楽学校の休暇でリンツに帰った後も滞在を続け、手紙のやり取りをしている。

ヒトラーはすでに父からの遺産分与700クローネはある程度浪費しており、また母親の葬儀費用などで370クローネを支払っているが、母からは父の遺産全額の3000クローネが残されたし、また妹パウラとヒトラーが24歳になるか就業するまでは孤児保護の恩給として月50クローネの受給もオーストリア・ハンガリー政府から認められた。遺産の一部と孤児恩給の半額は妹パウラを引き取った義姉アンゲラに養育費として渡されたが、10代の青年としては十分過ぎる程の遺産と当面の生活費が残されたのである。引き続きウィーンでの放蕩生活を送っていたとしても数年は遊んで暮らせていたはずであり、我が闘争で主張されたような貧困伝説は政治的なプロパガンダでしかない。むしろ遺産を受け取り、労働が可能で、かつ就学もしていない身の上を鑑みればパウラが恩給の全額を受け取る権利があったにも関わらず、妹や後見人に無断で勝手に孤児恩給の申請書を出すなど策を巡らし、学校に通っていた妹から半分恩給を奪い取っている。

1908年末、この年にもアカデミーを受験したが、再び失敗した。2度目の試験では実技試験にすら受からず、むしろ合格は遠ざかっていた。同年9月、クビツェクの前からヒトラーは突然姿を消した。これは入試に失敗したことを知られたくなかったためと、徴兵忌避のためとであった。ウィーンに戻ったクビツェクの側も特に行方を捜すことはなかった。ヒトラーはたびたび住居を変え、1909年11月末頃には住所不定の人物として浮浪者収容所に入り、次いでメルデマン街にある独身者用の公営寄宿舎に移り住んだ。経済上のことというよりは、20歳から始まる徴兵義務を逃れるためであったと見られている(兵役逃れ)。

1911年、姉アンゲラから孤児恩給全額を妹パウラに譲るようにリンツ地区裁判所で訴訟を起こされ、これを受け入れている。この背景には叔母ハンニからヒトラーが可愛がられており、遺産となる財産の殆どをヒトラーの「芸術活動」に援助していたことに、夫ラウバルの死後も妹パウラを養い女子実科中等学校にも通わせていたアンゲラが憤慨したためである。ハンニがヒトラーに与えた財産がどの程度だったのは定かではないが、恐らく2000クローネ程度は援助されていたと見られている。仮に今までの生活で父母の遺産を使い果たし、孤児恩給を失ったとしても、今度は叔母ハンニの財産でまだ数年は「寝て暮らせる」生活であった。また遺産を取り崩しながらの生活ながら自作の絵葉書や風景画を売ることで小額の生活費は稼いでいた。だがこれが仇となって孤児恩給の訴訟に勝てる見込みがなかったため、裁判の前に恩給放棄の署名に応じている。

この頃ヒトラーは食費を切り詰めてでも歌劇場に通うほどリヒャルト・ワーグナーに心酔していたとされる。また暇な時に図書館から多くの本を借りて、歴史・科学などに関して豊富な、しかし偏った知識を得ていった。その中にはアルテュール・ド・ゴビノーヒューストン・チェンバレンらが提起した人種理論反ユダヤ主義なども含まれていた。キリスト教社会党を指導していたカール・ルエーガー(後にウィーン市長)や汎ゲルマン主義に基づく民族主義政治運動を率いていたなどにも影響を受け、彼らが往々に唱えていた民族主義・社会思想・反ユダヤ主義も後のヒトラーの政治思想に影響を与えたといわれる。この時代にヒトラーの思想が固まっていったと思われているが、仮にそうだとしても、ヒトラーは少なくとも青年時代には政治思想に熱意を注いではいなかった。1913年の頃のヒトラーはイエズス会や共産主義を批判していたが、反ユダヤ主義的な発言の記録はない。ヒトラーは絵画をユダヤ人画商に好んで売り、ユダヤ人は頭がよく協力しあうと称賛することもあったし。一方で、ユダヤ人種は体臭が違うし、ユダヤの血はテロに走りやすいとも述べていた。

1913年5月、24歳になったヒトラーは徴兵検査の対象年齢から外れたことで隣国ドイツの南部にあるミュンヘンに移住し、仕立て職人ポップの元で下宿生活を送った。徴兵検査の義務はなくなったが、逆に期間内に徴兵検査を受けなかったことで兵役忌避罪と、その事実を隠して国外に逃亡するという2つの犯罪を犯した立場となった。事実が発覚して逮捕された場合、1ヶ月から1年の禁固刑と2000クローネの罰金という重罪が科せられることが想定された。ミュンヘン移住からすぐにリンツ警察の通報を受けたミュンヘン警察によって強制送還され、仰天したヒトラーはここで書いた弁明書で初めて自らの貧困を訴える嘘を書き連ねている。1914年1月18日、検査で不適格と判定されたため兵役を免除され、罪も免除された。

第一次世界大戦

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同年に勃発した第一次世界大戦ではバイエルン王宛に請願書を送り、バイエルン陸軍に志願した。翌日には入隊許可書が届き、バイエルン王国第16予備歩兵連隊に義勇兵として入営を許された。ヒトラーはバイエルン第16予備歩兵連隊の伝令兵(各部隊との連絡役)として配属された。連隊は主に西部戦線の北仏・ベルギーなどに従軍してソンムパッシェンデールなど幾つかの会戦に加わっている。

終戦までにヒトラーは伝令兵としての活躍を評価されて6回受勲している(1914年に二級鉄十字章、1917年に剣付三級戦功十字章、1918年に連隊感状戦傷者勲章一級鉄十字章、三級軍務勲章)。だが階級はゲフライター兵長、Gefreiter)留まりであり、6度も勲章を授与されている割には低い階級のままで終戦を迎えている。理由については、「伝令としての優秀さから司令部が昇進によって彼を失うのを渋った」(伍長不足説)、「本人が伝令兵の地位に満足し昇進を希望しなかった」(昇進辞退説)など諸説あるが、最も信憑性があると見られているのは「指導力が欠けており、配下を持つことになる伍長以上の階級には相応しくない」と司令部が判断したという説で、直属の上官フリッツ・ヴィーデマン中尉が証言している。

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近年、ヒトラーの伝記を捏造とするは、そもそもヒトラーの受勲は功績によるものではないと論じて注目を集めた。記録によれば同連隊の伝令任務には塹壕間の連絡役と後方での連絡役とがあったが、この2つは区別されておらず、ヒトラーが危険な前者の任務をこなした確証はないという。博士は、むしろ上級将校に接触して機嫌を取れる後方任務の方が受勲しやすいと指摘している。代表的なヒトラー伝記の作家であるイアン・カーショーはこの説に一定の支持を与えている。

ともあれ、前線への勤務経験はあったようで、1916年、ソンムの戦いでヒトラーは脚の付け根(鼠径部)に怪我を負って入院している(左大腿であったとする論者もいる)。またこの負傷でヒトラーが生殖機能に障害を負ったとする俗説があるが、真実の程は定かでない。負傷そのものは会戦後に戦傷章を受勲した記録が残っている。

ヒトラーは大戦以前から熱心な大ドイツ主義者であり、また大戦でドイツ軍(正確にはバイエルン軍)の一員として戦ったことで益々ドイツへの愛国主義は高まっていった(しかしドイツ市民権は1932年まで取得していない)。ヒトラーは戦争を人生で重要な経験であると捉え、周囲からも勇敢な兵士であったと労いを受けることができた。

大戦末期の1918年10月15日、ヒトラーは敵軍のマスタードガスによる化学兵器攻撃に巻き込まれて視力を一時的に失い、ポンメルン地方のパーゼヴァルク(Pasewalk)にある野戦病院に搬送されている。一時失明の原因についてはガスによる障害という説以外に、精神的動揺(一種のヒステリー)によるものとする説がある。ヒトラーは治療を受ける中で自分の使命が「ドイツを救うこと」にあると確信したと話しており、ユダヤ人の根絶という発想も具体的手段は別として決意されたと思われている。1918年11月、ヒトラーは第一次世界大戦がドイツの降伏で終結した時に激しい動揺を見せた兵士の一人であった。この日、もしくは次の日にヒトラーは超自然的な幻影を見て視力を回復した。この回復の課程には、治療に当たっていた博士の催眠術による暗示の可能性があるとされる。

ヒトラーは民族主義者や国粋主義者の間で流行した「敗北主義者や反乱者による後方での策動で前線での勝利が阻害された」とする背後からの一突き論を強く信じるようになった。

政界進出

政治家への転身を考えた後も軍に在籍を続ける道を選び、陸軍病院から退院すると部隊の根拠地であるバイエルン州へと戻った。同地では1918年12月にバイエルン革命によってバイエルン・レーテ共和国が成立しており、バイエルンの陸軍も当初これを支援していた。ヒトラーも1919年2月16日からミュンヘンのレーテに入り、評議会委員となった。また2月26日に暗殺された共和国首相クルト・アイスナーの国葬パレードに参加した。1919年4月15日のオイゲン・レヴィーネ政権下のバイエルン・レーテ共和国で大隊の評議員に立候補しており、19票を獲得して当選している。それから暫くしてバイエルン・レーテがバイエルン民族主義の支持を受けてドイツ共和国(ヴァイマル政権)から独立すると、穏当な対応を続けてきた中央政府も遂に鎮圧に乗り出し、ヒトラーは告発委員会に加わった。

中央政府軍の進軍に合わせて右翼の退役軍人による蜂起が起きる中、ヒトラーは共和国軍の情報将校であったカール・マイヤースパイとしてスカウトされる。ヒトラーはこの時に初めて大学でゴットフリート・フェーダーなどの知識人の専門的な講義を聴く機会を持ち、潜入調査に必要な教養を与えられた。

1919年7月、ヒトラーは正式に共和国軍の情報提供者 (Verbindungsmann) の名簿に軍属情報員 (Aufklärungskommando) として登録され、諜報組織の末端となった。彼に割り当てられた任務は革命政権を支持する兵士達への政治宣伝と、その一方で台頭しつつあったドイツ労働者党 (DAP) の調査であった。ところがヒトラーはドイツ労働者党で党首アントン・ドレクスラー反ユダヤ主義反資本主義の演説に感銘を受けて逆に取り込まれてしまう。ドレクスラーの側もヒトラーの演説の才を高く評価し、1919年9月12日に55人目の党員に加えた。ドレクスラーは革命の失敗は資本主義を牛耳るユダヤ教徒出身の革命家による陰謀であり、ユダヤ教徒の排斥なしに社会主義革命はありえないという極左的な民族主義を抱いていた。ドイツ労働者党で出会った人物にオカルト的な秘密結社トゥーレ協会に所属する思想家ディートリヒ・エッカートがいる。

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ヒトラーが軍や諜報機関を離れた時期は定かではないが、いつしか政治活動自体にのめり込んでドイツ労働者党の専従職員になったのは間違いないと見られている。彼は周辺国や国内の政治団体への過激な演説で名前を知られるようになり、ドイツ労働者党でも有力な政治家と目されていった。「Du(お前)」と呼び合う関係であったエルンスト・レーム元陸軍大尉やエッカート、ルドルフ・ヘスらはヒトラー派を形成し、党内を次第に制圧するようになった。1920年2月24日、党内協議により党名を「国家社会主義ドイツ労働者党」(NSDAP、蔑称ナチス)へと改名する。1921年7月29日、労働者党内で分派闘争が起きると一時的にドレクスラーによって党内から追放されるが、党執行部のクーデターによりドレスクラーは名誉議長として実権を奪われ、代わりにヒトラーが第一議長に指名された。この頃からヒトラーは支持者から「Führer」(指導者)と呼ばれるようになり、次第に党内に定着した。すでにイタリアで一党独裁政治を行うムッソリーニが採用していたローマ式敬礼に倣って、ナチス式敬礼を取り入れたのもこの頃のことである。

突撃隊の活動などでミュンヘン政界でも知られる存在となったヒトラーは、エッカート、エルンスト・ハンフシュテングルマックス・エルヴィン・フォン・ショイブナー=リヒターらの紹介で、ミュンヘンの社交界でも知られるようになった。ピアノメーカーベヒシュタインのオーナー未亡人であったヘレーネ・ベヒシュタインなどの上流階級婦人が熱心な後援者となり、生活の援助をしたほか、ヒトラーに紳士の立ち振る舞いを身につけさせた。

ミュンヘン一揆

党勢を拡大したナチス党を含んだ右派政党の団体であるドイツ闘争連盟イタリアファシスト党が行ったローマ進軍を真似てベルリン進軍を望むようになった。バイエルン州で独裁権を握っていたバイエルン総督グスタフ・フォン・カールも同様にベルリン進軍を望んでおり(バイエルンは伝統的に反ベルリン気質があり、独立意識が強かった)、ドイツ闘争連盟と接触を図っていたが、カール総督は中央政府の圧力を受けてやがてベルリン進軍の動きを鈍くした。

不満を感じたヒトラーはカール総督にベルリン進軍を決意させるため、1923年11月8日夜にドイツ闘争連盟を率いてカールが演説中のビアホールビュルガーブロイケラー」を占拠し、カールの身柄を押さえた。ヒトラーから連絡を受けた前大戦の英雄エーリヒ・ルーデンドルフ将軍も駆け付け、ルーデンドルフの説得を受けてカールも一度は一揆への協力を表明した。しかしヒトラーが「ビュルガーブロイケラー」を空けた隙にカールらはルーデンドルフを言いくるめて脱出し、一揆の鎮圧を命じた。

11月9日朝にヒトラーとルーデンドルフはドイツ闘争連盟を率いてミュンヘン中心部へ向けて行進を開始した。ヒトラーもルーデンドルフも一次大戦の英雄であるルーデンドルフに対して軍も警察も発砲はしまいという過信があった。しかしバイエルン州警察は構わず発砲し、一揆は総崩れとなった。ヒトラーは逃亡を図り、党員エルンスト・ハンフシュテングルの別荘に潜伏したが、11月11日には逮捕された。逮捕直前にヒトラーは自殺を試み、ハンフシュテングルの妻ヘレーネによって制止された。収監後、しばらくは虚脱状態となり、絶食した。失意のヒトラーをヘレーネやドレクスラーら複数の人物が激励したとしている。

逮捕後の裁判はヒトラーの独壇場であり、弁解を行わず一揆の全責任を引き受け自らの主張を述べる戦術を取り、ルーデンドルフと並ぶ大物と見られるようになった。花束を持った女性支持者が連日留置場に押しかけ、ヒトラーの使った浴槽で入浴させてくれと言う者も現れた。司法の側もヒトラーに極めて同情的であり、主任検事が起訴状で「ドイツ精神に対する自信を回復させようとした彼の誠実な尽力は、なんと言おうとも一つの功績であり続ける。演説家としての無類の才能を駆使して意義あることを成し遂げた」と評するほどであった

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1924年4月1日、ヒトラーは要塞禁錮5年の判決を受けランツベルク要塞刑務所に収容されるが、所内では特別待遇を受けた。オーストリア国籍を持っていたヒトラーは国外追放されるおそれがあったが、判決では「ヒトラーほどドイツ人的な思考、感情の持ち主はいない」として国外追放は適用されなかった。この間、ヒトラーは禁止されていた党をアルフレート・ローゼンベルクの指導に任せていたが、ドイツ北部の実力者グレゴール・シュトラッサーらとの反目が激しくなった。シュトラッサーらは5月にルーデンドルフと連携した偽装政党国家社会主義自由運動を立ち上げて国会議席を獲得し、さらに党をルーデンドルフのドイツ民族自由党と合同させた。これによりローゼンベルク、ヘルマン・エッサーらミュンヘン派、シュトラッサーらの北部派(ナチス左派)の関係は悪化したが、ヒトラーは介入しなかった。7月7日には著書の執筆を理由として「国家社会主義運動の指導者たることを止めて、刑期が終わるまで一切の政治活動から手を引く」ことを発表する。ルドルフ・ヘスによる口述筆記で執筆されたのが『我が闘争』である。ヒトラーは職員や所長まで信服させ、9月頃には所長から仮釈放の申請が行われ始めた。州政府は抵抗したが裁判を行った判事がヒトラーのためにアピールを行うという通告もあり、12月20日に釈放された。シュトラッサーの運動は内部抗争によって分裂し、12月の選挙でも大敗を喫した。

権力闘争

1925年2月27日、禁止が解除されたナチ党は再建された。しかし大規模集会で政府批判を行ったため、州政府からヒトラーに対して2年間の演説禁止処分が下され、他の州も追随した。この間にヒトラーはミュンヘンの派閥をまとめ上げ、4月には突撃隊の実力者であったレームを引退させた。私生活ではこの頃オーストリア市民権抹消手続きをとり、移民の許可をとった。また『我が闘争』の執筆作業を行い、7月18日に第一巻が発売された。

秋頃には社会主義色の強いシュトラッサーら北部派と、ミュンヘン派の対立が激化した。一時はシュトラッサーの秘書ヨーゼフ・ゲッベルスらが「日和見主義者」ヒトラーの除名を提案するほどであったが、1926年2月24日のバンベルク会議によって「指導者ヒトラー」の指導者原理による党内独裁体制が確立した。一方シュトラッサーは党内役職を与えられて懐柔され、ゲッベルスはヒトラーに信服するようになり、党内左派勢力は大きく減退した。

1928年5月20日には、ナチ党として初めての国会議員選挙に挑んだが、黄金の20年代と呼ばれる好景気に沸いていた状況で支持は広がらず、12人の当選にとどまった。この間にヒトラーは『ヒトラー第二の書』(続・我が闘争)と呼ばれる本を執筆したが、出版はされなかった。

ヒトラーの財政状況は悪くなく、オーバーザルツベルクに別荘「ベルクホーフ」を買う余裕もできた。また1929年頃には党の公式写真家であったハインリヒ・ホフマンの経営する写真店の店員エヴァ・ブラウン(エファ・ブラウン)と知り合い、愛人関係になった。

ナチ党の躍進

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1929年の世界恐慌によって急速に景気の悪化したドイツでは、街に大量の失業者が溢れかえり社会情勢は不安の一途をたどっていた。さらにヤング案への反発がドイツ社会民主党政府への反感の元となった。

同じくドイツ共産党も社会的混乱に乗じて伸張し、1930年の国会選挙ではナチスが得票率18%、共産党が得票率13%を獲得し、社会民主党の得票率24.5%に次ぐ第2党と第3党に成長し、各地の都市でナチス党の私兵部隊「突撃隊」と共産党の私兵部隊「赤色戦線戦士同盟」の私闘が激化するようになった。党勢の拡大にもかかわらず待遇が改善されない突撃隊には幹部に対する反感が生まれ、ヒトラーは突撃隊を押さえるためにレームを呼び戻さざるを得なくなった。

1931年9月18日には溺愛していた姪のゲリ・ラウバルが自殺したことにヒトラーは大きな衝撃を受けた。一時は政界からの引退もほのめかしたが、数日後に復帰した。しかしこの後菜食を宣言し、肉食を断った。

1932年2月25日には党幹部ヴィルヘルム・フリックの手配により、のベルリン駐在州公使館付参事官となった。これは名目上のことであり、公務員に自動的に与えられるドイツ国籍を取得するためのものであった。したヒトラーは、大統領選挙に出馬する。大統領選挙では現職のパウル・フォン・ヒンデンブルクドイツ共産党エルンスト・テールマン鉄兜団代表で国家人民党の支持を受けたテオドール・デュスターベルク、作家の5名が立候補した。

選挙では「ヒンデンブルクに敬意を、ヒトラーに投票を」をスローガンにし、膨大な量のビラをまき、数百万枚のポスター、財界からの支援で購入した飛行機を使った遊説や当時はまだ新しいメディアだったラジオなどで国民に鮮烈なイメージを残した。第1次選挙の結果はヒンデンブルク1865万1497票(得票率49.6%)、ヒトラー1133万9446票(得票率30.2%)、テールマン498万3341票(得票率13.2%)、デュスターベルク255万7729票(得票率6.8%)、ヴィンター11万1423票(得票率0.3%)となり、ヒトラーは他の候補と大きく差をつけた2位となっただけでなく、現役大統領ヒンデンブルクの得票率過半数獲得を防ぐ善戦をした。

しかし大統領になるには過半数の得票率が必要であったため、上位者3名による決選投票が行われた。その投票でヒンデンブルク1935万9983(得票率53.1%)、ヒトラー1341万8517票(得票率36.7%)、テールマン370万6759票(得票率10.1%)をそれぞれ獲得し、ヒトラーはヒンデンブルクに敗れるが1次選挙よりも大きく得票を増やして存在感を見せつけた。ドイツ共産党にとってはナチスとの差が決定的となったことを物語る選挙となった。

ヒトラーは大統領選には敗れたものの、続く1932年7月の国会議員選挙ではナチ党は37.8%(1930年選挙時18.3%)の得票率を得て230議席(改選前107議席)を獲得し、改選前第1党だった社会民主党を抜いて国会の第1党となった。

首相就任

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1932年11月にはパーペン内閣に不信任案を提出して可決、選挙を迎えた(1932年11月ドイツ国会選挙)。この時ベルリン大管区指導者ゲッベルスはドイツ共産党が主導する大規模な交通ストライキに突撃隊員を参加させた。しかしこのような暴力的手法に訴えるやり方が財界ベルリン市民から危機感をもたれ、ナチ党の得票率は4%ほど落ちて33.1%になり、議席数も196に減少したが、第1党の地位は保持した。

しかしこの選挙で共産党が得票を伸ばしていたことに、保守層は危機感を抱いた。財界や伝統的保守主義者などの富裕層ナチスのイデオロギーにも懐疑的であったが、それ以上に共産党がこれ以上伸張してロシア革命の二の舞のような事態だけは避けなくてはならず、ナチ党は共産党に対抗できる政党とみなされた。ナチ党への献金は増加したが、この段階でも政財界からの政治献金の圧倒的な量は反ナチ勢力に流れており、この時点での党財政の大半は党費収入によるものであった。

一方で事態を打開することができなかったパーペン内閣はクルト・フォン・シュライヒャーの策動により崩壊し、後継内閣はシュライヒャーが組織した。シュライヒャーはシュトラッサーらナチス左派を取り込もうとしたが失敗した。シュライヒャーに反発したパーペンの協力もあり、ヒンデンブルク大統領の承認を得たヒトラーは国家人民党の協力を取り付けることに成功し1933年1月30日、ついにヒトラー内閣が発足した。

ヒトラー新首相は就任した30日夜にフリック新内相を通じた談話で、(1) 国際社会との平和裏の共存、(2) ワイマール憲法の遵守、(3) 共産党を弾圧しないといった施政方針を表明した。しかし、これらが嘘であることは後述の通りすぐに明らかになった。

独裁政権

内閣発足の2日後に当たる2月1日に議会を解散し、国会議員選挙日を3月5日と決定した。2月27日の深夜、国会議事堂が炎上する事件が発生した(ドイツ国会議事堂放火事件)。ヒトラーとゲーリングは「共産主義者蜂起の始まり」と断定し、直ちに共産主義者の逮捕を始めた。翌28日にヒンデンブルク大統領に憲法の基本的人権条項を停止し、共産党員などを法手続に拠らずに逮捕できる大統領緊急令を発令させた。この状況下の3月5日の選挙ではナチスは議席数で45%の288議席を獲得したが、単独過半数は獲得できなかった。しかし、共産党議員はすでに逮捕・拘禁されており、さらに社会民主党や諸派の一部議員も逮捕された。これらの議員を「出席したが、投票に参加しない者と見なす」ように議院運営規則を改正することで、ナチ党は憲法改正的法令に必要な3分の2の賛成を獲得できるようになった。

3月21日、新国会が開かれた。この日は「ポツダムの日」と呼ばれ、1871年に帝国宰相ビスマルクが最初の帝国議会を開いた日でもあった。これを記念する式典では、空席の皇帝の座の後ろにかつての皇太子ヴィルヘルムが着席した。ただし「故大統領に敬意を表して」、大統領 (Reichspräsident) という称号は使用せず、自身のことは従来通り「Führer(指導者)」と呼ぶよう国民に求めた。この措置は8月19日にを行い、89.93%という支持率を得て承認された。これ以降、日本の報道でヒトラーの地位を「総統」と呼ぶことが始まった。指導者は国家や法の上に立つ存在であり、その意思が最高法規となる存在であるとされた。

権力掌握以降、ヒトラー崇拝は国民的なものとなった。1935年1月22日には公務員・一般労働者が右手を挙げて「ハイル・ヒトラー」と挨拶することや、公文書・私文書の末尾に「ハイル・ヒトラー」と記載することが義務付けられた。民衆が党や体制に対する不満を持つことがあっても、地方・中央の党幹部に批判が向けられ、ヒトラー自身が対象となることはほとんどなかった。

国家元首に就任して以降国際的な行動を実行する日はしばしば土曜日を選んだ。週末は他国政府の対応が遅くなるという理由からである。1935年3月16日のドイツ再軍備宣言、1936年3月7日のラインラント進駐はどちらも土曜日である。

政治

ヒトラーは従来合議制であった閣議をほとんど開催せず、書類の回覧によって決裁を行った。また重要な方針については大筋の方針を決めるだけで、詳細は所轄官庁に任せた。この「口頭政治」により、1941年に成立した法律は、回覧による制定法11、総統布告24、総統命令9、国防閣僚評議会命令27に対し、所轄官庁命令が373に達している。このため各官庁とヒトラーの間に立って調整を行う、総統官邸長官ハンス・ハインリヒ・ラマースや、後にはマルティン・ボルマンの権力が高まった。一方で親衛隊を含む党、ヒトラーが任命する全権や国家弁務官などが並立したため、それぞれの組織の自立性が高まる一方で、法と行政の統一性は失われた。指導者原理によって組織の指導者はヒトラーに与えられた権力の範囲内で絶大な権力を持つが、権力が相互に重複する相手との衝突や混乱が絶えなかった。これは指導者間の衝突や混乱を唯一調停しえる存在となったヒトラーへの従属をますます強めることとなり、ヒトラーもわざとその闘争を放置することすらあった。ヨアヒム・フェストはヒトラーの支配するドイツを「ヒトラーだけにしか全体を眺望し得ない国家」と評している。

個別の政策では、党と国家の一体化を推し進める一方で、航空省の設置などヴェルサイユ条約で禁止されていた再軍備を推し進めた。また同時に行われていたラインハルト計画により、1933年には600万人を数えていた失業者も1934年には300万人に減少している。一方で新聞の統制化も行い、1934年には三百紙の新聞が廃刊となった。営業不振となった新聞社・雑誌社はナチ党の出版社に買収され、情報の一元化が進んでいった。1935年3月16日にはヴェルサイユ条約の軍事条項を破棄(ドイツ再軍備宣言)、公然と軍備拡張を行った。

1936年には非武装地帯とされていたラインラントへの進駐を行った。ヒトラー自身も連合国が対抗措置を採る可能性を完全に払拭し切れていたわけではなかったが、連合国は動かず、一か八かの賭けに勝利したヒトラーの威信はさらに向上した。また同年にはガルミッシュパルテンキルヒェンオリンピックベルリンオリンピックの二大会がドイツで行われた。ヒトラーはレニ・リーフェンシュタールに対して、「自分はユダヤ人が牛耳るオリンピックには関心がない」と漏らしていたが、1933年3月にはベルリン大会支持の声明を出している。またこれまで都市主催であったオリンピックに国家が積極的に介入することで、ベルリンオリンピックはかつてない大規模なものとなった。また、リーフェンシュタールが撮影した記録映画『オリンピア』は世界で高い評価を得た。

オリンピック開催前後には諸外国からの批判を受け、一時的にユダヤ人迫害政策を緩和したが、その後は国力の増強とともに、ドイツ国民の圧倒的な支持の下「ゲルマン民族の優越」と「反ユダヤ主義」を掲げ、ユダヤ人に対する人種差別を基にした迫害を再び強化していく。

外交と生存圏

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ナチス政権下時代の外交政策は、一般にヒトラーの能動的な計画に帰す「ヒトラー中心主義」的解釈が行われることが多い。ヒトラーが時に外交政策に大きく関与したことは事実であるが、近年ではヨアヒム・フォン・リッベントロップやドイツ外務省、ゲーリングといった国内諸勢力の影響も研究対象となり、「ドイツの(外交)政策を、ヒトラーと同一視し続けることができるであろうか」という歴史家ウィリアム・カーの指摘も存在する。

1922年からヒトラーが訴えてきた基本的な外交方針は親英伊・反仏ソであり、当時のドイツ外務省の方針とは対ソビエト連邦政策を除いて大きく異ならなかった。対英接近策は1935年の締結となって実を結び、フランスにとっては大きな打撃となった。

1936年3月にはヴェルサイユ条約ロカルノ条約に反して非武装地帯と定められていたラインラントへの進駐を実行した。フランス軍からの攻撃はなかった。ヒトラーは「ラインラントへ兵を進めた後の48時間は私の人生で最も不安なときであった。もし、フランス軍がラインラントに進軍してきたら、貧弱な軍備のドイツ軍部隊は、反撃できずに、尻尾を巻いて逃げ出さなければいけなかった」と後に述べている。この成功はヒトラーに対外進出への自信をつけさせた。また同年にはスペイン内戦においてフランシスコ・フランコの反乱軍を支援し、1937年4月26日にはドイツ空軍「コンドル軍団」によるゲルニカ空爆が行われた。

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1931年に発生した満州事変以降、ソ連やイギリス、アメリカとの間の関係悪化が鮮明化していた日本との関係が親密化を増し、1936年11月には、駐独日本国特命全権大使武者小路公共とドイツ外相ヨアヒム・フォン・リッベントロップの間で日独防共協定が結ばれ、ヨシフ・スターリン率いるソビエト連邦への対抗を目指した。同協定は翌1937年11月6日にイタリアも入り日独伊防共協定となった。

1937年11月5日には陸海空軍の首脳を集め、「東方生存圏」獲得のための戦争計画を告げた(ホスバッハ覚書)。計画に批判的であったブロンベルク国防相らは陰謀によって追放され、独立傾向があった軍を完全に掌握した(ブロンベルク罷免事件)。

1938年3月には武力による威嚇でオーストリアの首相にアルトゥル・ザイス=インクヴァルトを就任させ、オーストリア併合にこぎつけた。かつてのオーストリア=ハンガリー帝国皇太子オットー・フォン・ハプスブルクがドイツの侵略計画に対抗する構えをみせたが、ヒトラーはこの動きを押さえつけてオーストリアの内閣を交代させたのである。なお、ヒトラーはハプスブルク家を憎悪しており、オットーがオーストリア政府の頂点に立った場合はただちにオーストリアに侵攻する計画を練っていた。その名も、ハプスブルク家当主オットーの名を冠した「」というものだった。

こうしてオーストリア国内の抵抗勢力を封じ込めた後、3月12日にはヒトラー自身がオーストリアに入り、ウィーンや生まれ故郷リンツに戻った。ヒトラーは故郷リンツでこのように演説した。「もし神がドイツ国家の指導者たるべく私をこの町に召したのだとすれば、それは私に一つの任務を授けるためである。その任務とはわが愛する故国をドイツ国家に還付することである。私はその任務を信じた。私はそのために生き、そのために戦ってきた。そして今その任務を果たしたと信じる」。なお、この時、ヒトラーは、父親の生地を演習地に選び破壊している。

オーストリアを支配下に入れたヒトラーは続いてチェコスロバキアを狙い、まずドイツ系住民がほとんどを占めるズデーテン地方を併合しようとした。1938年9月29日にはイギリス首相ネヴィル・チェンバレン、フランス首相エドゥアール・ダラディエ、イタリア首相ムッソリーニを招いてミュンヘン会談を行い、ズデーテンをドイツに譲ることが確定した。イギリスとフランスからも屈服を要求されたチェコスロバキアはズデーテンを差し出すしかなかった。

さらにこの後、スロバキアなどで独立運動が激化し、混乱に乗じてハンガリーがチェコスロバキア侵略をほのめかすようになった。チェコスロバキアはドイツに応援を依頼するしかなくなり、1939年3月15日総統官邸に赴いたエミール・ハーハ大統領に対し、ヒトラーはすでにドイツ軍が侵攻準備を開始していると恫喝した。ハーハはドイツ軍の介入要請文書に署名することを余儀なくされた。ヒトラーの指示により傀儡国家のスロバキア共和国が成立し、チェコはドイツの保護領「ベーメン・メーレン保護領」となった(チェコスロバキア併合)。この直後の1939年3月23日にはリトアニア政府にメーメルを割譲させることにも成功している。これらのドイツの拡張政策に対してイギリスやフランスは懸念を表明したものの、直接的な軍事対立を避けるために積極策を採らなかった。ヒトラーはこれらの宥和政策を英仏の黙認と捉え、さらなる領土要求を継続することになる。

第二次世界大戦

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ヒトラーはさらにポーランドに対して、自由都市ダンツィヒの管理権の放棄と、ダンツィヒと西プロイセンの間にある回廊地帯の自由通行権を要求したが、ポーランドは強く抵抗した。また英仏も次々にポーランドに保障を与える条約を締結した。

しかしヒトラーは夏頃までに交渉が妥結しなければポーランドに軍事作戦を行うこととし、3月31日に完成したポーランド侵攻作戦「白作戦()」の政治条項を自ら手書きで書き込んでいるが、その中でも戦争をポーランド戦だけに局限することを目標としていた。そのためにも英仏の戦争参加を思いとどまらせる方策が必要であり、かねてから敵と公言していたソ連との接触を水面下で開始し、8月23日にドイツはソ連との間に独ソ不可侵条約を結んで世界を驚かせた。

開戦

独ソ不可侵条約締結直後の9月1日にソ連との秘密協定を元にポーランド侵攻を開始した。同9月3日にはこれに対してイギリスとフランスがドイツへの宣戦布告を行い、これによって第二次世界大戦が開始された。10月中にポーランドはほぼ制圧され、ヒトラーの視線は西に向かった。

1940年に入ると、北ヨーロッパのデンマークノルウェー相次いで占領。5月10日ヒトラーはと呼ばれる前線指揮所に移り、そこでベネルクス三国フランスへの侵攻の指揮をとった。ヒトラーはこれ以降大半を各地の前線指揮所で過ごすことになるが、この指揮所は総統大本営と呼ばれている。ヒトラーは作戦の概要だけではなく細部にも口を出し、ダンケルクの戦いでは疲弊した連合軍の相手は空軍で十分と考え、戦車部隊による攻撃を停止させた。この判断は災いし、ダイナモ作戦によって多くの連合軍将兵の脱出を許すこととなった。しかしフランス侵攻自体は順調に進み、6月6日にはヒトラーも前線に近いベルギー南部のに移った。

6月21日にフィリップ・ペタンを首班とするフランス政府はドイツに休戦を申し込み、ヒトラー自ら第一次世界大戦の降伏文書の調印場である、因縁のコンピエーニュの森でのフランス代表との降伏調印式に臨み、その後パリ市内の視察を行った。その後の対英戦ではヒトラーは空軍によって制空権を獲得した後にイギリス上陸を考えていた(アシカ作戦)。しかしバトル・オブ・ブリテンでドイツ空軍は撃退され、イギリスの抗戦意思はゆるがなかった。7月30日、ヒトラーは「ヨーロッパ大陸最後の戦争」である対ソ戦の開始を軍首脳達に告げ、「ソ連が粉砕されれば、英国の最後の望みも打破される」として対ソ戦の準備を命じた。

一方で8月30日のウィーン裁定とその後のクラヨーヴァ条約でハンガリー、ルーマニア、ブルガリアの領土問題を調停し、9月27日には1937年に締結されていた日独伊防共協定の強化を画策していた日本とイタリアとの3国の間で「日独伊三国条約」を結ぶなど親ドイツ諸国と関係を強化し、枢軸国を形成しつつあった。しかし10月22日に行われたスペインの独裁者フランシスコ・フランコとの会談は不調に終わり、味方に引き込むことはできなかった。

1941年にはユーゴスラビア侵攻を行うとともに、ギリシアを占領してバルカン半島を制圧し、北アフリカ戦線ではイギリス軍の前に敗退を続けていたイタリア軍を援けて攻勢に転じた。

独ソ戦

同年6月22日、バルバロッサ作戦が発動し、ドイツ軍はソ連に侵攻を開始した。ヒトラーは「作戦は5ヶ月間で終了する」と、独ソ戦の先行きについてはきわめて楽観視していた。6月22日に東プロイセンに置かれた総統大本営「ヴォルフスシャンツェ(狼の巣)」に移り、1944年11月20日までの大半をここで過ごすことになった。ヴォルフスシャンツェは防空の観点から森の中に置かれたために昼でも薄暗く、不眠症となったヒトラーは深夜まで秘書や側近を相手にして一方的に語るようになった。また8月には胸の痛みを訴えるようになり、冠状動脈硬化症を発症したことを知った主治医のテオドール・モレルは、ヒトラーにも秘密で心臓病薬の投与を始めた。

一方戦線は順調に進み、完全な奇襲を受けたソ連軍を各地で撃破した。しかし7月にはヒトラーと軍首脳の間で意見の相違が生まれた。軍首脳はモスクワ攻略を主張したが、ヒトラーはウクライナドネツ工業地帯やレニングラードの攻略を優先させるよう命令し、モスクワ方面への攻撃を停止させた。ところが8月末にはヒトラーの気が変わり、再度モスクワ進撃を命令した。ドイツ軍は進撃を再開したが、10月には早くも冬が到来し、降雪とラスプティツァ(rasputisa、泥濘)が進撃速度と補給を低下させた。そこにソ連軍の反攻が開始され、現場指揮官達の間で一時後退論が高まった。ヒトラーは12月19日に陸軍総司令官のヴァルター・フォン・ブラウヒッチュ元帥など複数の将官を更迭した上に自ら陸軍総司令官を兼任し、東部戦線のドイツ軍に後退を厳禁した。このことで戦線の全面崩壊は免れた。

対ソ戦におけるドイツ軍の最初の後退が行われた直後の12月11日に、同7日に行われた日本海軍によるイギリス領マレー半島への侵攻(マレー作戦)と、それに続いて行われたアメリカの準州であるハワイ真珠湾攻撃を受けて、これまで直接対峙することのなかったアメリカへの宣戦布告に踏み切る。これに対しヒトラーは「負けたことのない日本軍の参戦は大きな力を与えてくれる」と喜んだといわれる。

1942年中盤に日本軍がイギリス軍をインド洋から放逐したことを受けて、インド洋における通商破壊戦を行うことを目的にUボート封鎖突破船を派遣し、日本軍占領下のペナンの日本海軍基地を拠点にして日本海軍と共同作戦を行ったほか、ヒトラー自らの指示でUボートを日本海軍に提供した。また日本海軍もドイツ軍からの依頼を受けて潜水艦と特殊潜航艇をヴィシー政権軍とイギリス軍が戦っていたアフリカ南部のマダガスカル島に送り、イギリス海軍艦艇を攻撃し撃沈するなど被害を与えたほか、遣独潜水艦作戦を行うなどいくつかの共同作戦を展開した。

なお、これらの共同作戦のうちいくつかにはイタリア軍も参加し、さらに共同作戦自体もドイツの降伏に至るまで続けられることとなるものの、両国の戦況の好転に大きく貢献することはなかった。

守勢転換

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同年には東部戦線での春季攻勢が計画され、参謀本部は「ジークフリート」計画を提出した。しかしヒトラーはこの計画を修正し、主作戦に当たる部分は自ら書き替え、ヴォロネジスターリングラードの攻略を主眼とするブラウ作戦(青作戦)を命令した。4月26日にはドイツ国における最後の国会が開催され、ヒトラーは既存の権利や法によらず処罰や解任を行う権利があると宣言された。

ブラウ作戦は当初順調に進んだものの、スターリングラードの攻略に失敗、ドイツ軍は守勢に転換せざるを得なくなった上に第6軍が包囲される事態となった(スターリングラード攻防戦)。ヒトラーは撤退や降伏も許さず、「ドイツ陸軍史上、降伏した元帥はいない」という理由で第6軍司令官のフリードリヒ・パウルス大将を元帥に昇格させ、暗に自決を求めた。しかしパウルスは1943年1月31日に降伏し、ヒトラーを激怒させた。またエル・アラメインの戦いトーチ作戦などでの敗北により、北アフリカ戦線における枢軸国の勢力は一掃された。戦局の退勢が明らかになったことで、国内におけるヒトラー崇拝にも陰りが見え始めた。

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1943年にはクルスクで突出したソ連軍を包囲するツィタデレ作戦(城塞作戦)が計画されたが、ヒトラーはこの計画を何度も延期させ、攻勢開始は7月までずれ込んだ。7月5日から開始されたこの攻撃(クルスクの戦い)は激戦となったが、7月13日にヒトラーは作戦の中止を命令した。ヒトラーはシチリア島に連合軍が上陸したことでイタリアの政治情勢が不安定となったという報告を受けており、その情勢に気を取られていた。またソ連軍に与えた損害を過大評価していたことや、弾道ミサイルV2ロケット)や電動UボートUボートXXI型)などの新兵器によって、翌年にはドイツ軍の圧倒的な優位が保たれると考えていた。

7月25日にイタリアでムッソリーニが失脚、その後9月8日にバドリオ政権が休戦を発表し(イタリアの降伏)、連合国軍はイタリア本土に上陸した。しかし9月12日にオットー・スコルツェニー率いる特殊部隊によりムッソリーニを救出し(グラン・サッソ襲撃)、ドイツが支配下に置いた北イタリアに、ムッソリーニを首班とするイタリア社会共和国を成立させた。こうして南部の連合軍と北部の枢軸軍によるイタリア戦線が形成された。

連合軍によるドイツへの戦略爆撃が激しくなると、ヒトラーはドイツから爆撃機が去るまで眠ろうとしなかった。スターリングラードの敗戦以後は好きな音楽を聴くことも止め、側近に同じような話を連日連夜語るようになった。なおこの頃には日本軍も体勢を立て直したイギリス軍やアメリカ軍に対して各地で劣勢を強いられるようになってきた。このこともあり、ヒトラーの不眠症は激しくなり、健康状態はますます悪化した。

暗殺未遂事件

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1944年には、東部ではソ連の3月からの大攻勢(バグラチオン作戦)により中央軍集団が壊滅し、西部ではノルマンディー上陸作戦の成功による第二戦線が確立した。

7月20日に、ドイツ陸軍のクラウス・フォン・シュタウフェンベルク大佐が仕掛けた爆弾による暗殺未遂事件が起こり、数人の側近が死亡し、参席者全員が負傷したがヒトラーは奇跡的に軽傷で済んだ。事件直後に暗殺計画関係者の追及を行い、処罰を行った人数は、死刑となったヴィルヘルム・フランツ・カナリス海軍大将(国防軍情報部長)、エルヴィン・フォン・ヴィッツレーベン元帥、フリードリヒ・フロム上級大将をはじめ4,000名に及んだ。また、かつては英雄視されたエルヴィン・ロンメル元帥も、関わりを疑われて自殺を強要された。ヒトラーが奇跡的に死を免れたことは、彼が特別な能力を持っている証拠であるとされ、国民のヒトラーに対する忠誠心もやや持ち直した。

その後ヴィシー政権や東欧の同盟国は次々に脱落し、ドイツ軍は完全に敗勢に陥った。特にプロイエシュティ油田を抱えるルーマニアの脱落はドイツの石油供給を逼迫させた。労働力も不足に陥り、国内の秘密工場で働かせるために、東方の収容所やハンガリーのユダヤ人が移送され、多くの犠牲者が出た。

西部戦線の連合軍がライン川に迫ると、ヒトラーは大きな賭けに出ることを決断し、アルデンヌからアントワープまでドイツ軍を突進させ、連合軍の補給を断つ作戦を自ら立案した。ヒトラーは米英軍に大きな打撃を与えれば、米英は戦争の休戦とドイツ軍に対する援助を行い、独・英・米とソ連による「東西戦争」が発生すると確信していた。ヒトラーは作戦の準備と声帯ポリープの手術のため11月20日にヴォルフスシャンツェからベルリンの総統官邸に移った。

12月16日に開始されるドイツ軍の反攻作戦「ラインの守り」のため、ヒトラーは12月11日にフランス国境近くに設置されたに移った。「ラインの守り」作戦は当初成功し、連合国軍を一時的に大きく押し戻した。しかし天候が回復すると空軍の支援を受けた連合国軍に圧倒され、戦線に一時的に大きな突出部を作るに留まった。こうしてヒトラーの反攻作戦はドイツ軍最後の予備兵力・資材をいたずらに損耗する結果となった(バルジの戦い)。

敗戦

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1945年1月からソ連軍はヴィスワ=オーデル攻勢を開始した。これを受けてヒトラーは1月15日にベルリンの総統官邸に戻ったが有効な手は打てず、2月にはドイツ軍がオーデル川のほとりまで押し込まれた。また3月には米英軍がライン川を突破した。またハンガリー戦線も危機的になり、ハンガリー領内の油田失陥の可能性が高まった。3月15日よりハンガリーの首都であるブダペストの奪還と油田の安全確保のため春の目覚め作戦を行うが失敗し、戦力を大きく減退させた。ヒトラーは3月頃からラジオ放送も止めベルリンの総統官邸の地下にある総統地下壕に籠もりきりとなり、ほとんど庭に出ることもなくなった。視力や脚力も衰え、支え無しに30歩以上歩くことも困難になった。この頃になると利害が異なる各官庁からの意見調整もままならず、3週間の間に全く方針が異なる総統命令を出す有様であった。

3月19日、ヒトラーは連合軍に利用されうるドイツ国内の生産施設を全て破壊するよう命ずる「ネロ指令」と呼ばれる命令を発したが、戦後の国民生活に差し障ると軍需大臣のシュペーアに反対された。しかしヒトラーは「戦争に負ければ国民もおしまいだ。(中略)なぜなら我が国民は弱者であることが証明され、未来はより強力な東方国家(ソ連)に属するからだ。いずれにしろ優秀な人間はすでに死んでしまったから、この戦争の後に生き残るのは劣った人間だけだろう。」と述べ、国民生活を顧みることはなかった。シュペーアはこの命令を無視し、焦土作戦はほとんど実行されなかった。

4月16日にソ連軍はベルリン占領を目的とするベルリン作戦を発動した(ベルリンの戦い)。側近や高官はヒトラーに避難を勧めたが、ヒトラーは拒絶した。4月20日に総統誕生日を祝うために、軍とナチス高官が総統官邸に集まった。この日開催された軍事会議で、連合軍によってドイツが南北に分断された場合に備え、北部をカール・デーニッツ元帥が指揮することになったが、南部の指揮権は明示されなかった。また、各種政府機関も即時ベルリンを退去することが決まり、ゲーリングら主要な幹部も立ち去っていった。この頃になると自らの親衛隊すら信用できなくなり、「全員が私をあざむいた。誰も私に真実を話さなかった」と言うほどであった。

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ソ連軍はベルリン市内に砲撃を加え、じりじりとベルリン市に迫ってきた。ヒトラーはなおもベルリンの門前で大打撃を与え、戦局が劇的に変わると言い続けていた。しかし4月22日の作戦会議でヒトラーはついに「戦争は負けだ」と語り、ベルリンで死ぬと宣言した。しかしその後は態度を変化させ、再び指揮を執り始めた。しかしこれを受けて4月23日には、総統地下壕を脱出したカール・コラー空軍参謀総長が、国防軍最高司令部作戦部長アルフレート・ヨードル上級大将の伝言を携えゲーリングの元を訪れる。ヨードルの伝言は「総統が自決する意志を固め、連合軍との交渉はゲーリングが適任だと言った」という内容だった。ゲーリングは不仲であったボルマンの工作を疑い、総統地下壕に1941年の総統布告に基づく権限委譲の確認を求めた電報を送る。電報を受け取ったボルマンは、「ゲーリングに反逆の意図がある」とヒトラーに告げ、激怒したヒトラーはゲーリングの逮捕と全官職からの解任、そして別荘への監禁を命じた。しかしシュペーアによると、この2時間後にヒトラーは「よろしい、ゲーリングに交渉をさせよう」とつぶやいた。早期の降伏を考えていたシュペーアはゲーリングが降伏責任者となれば交渉で時間稼ぎをすると考え、飛行機に乗って連合軍と交渉しようとした際に備えて撃墜命令を出している。

自殺

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4月29日、親衛隊全国指導者ヒムラーがヒトラーの許可を得ることなく英米に対し降伏を申し出たことが世界中に放送され、ヒトラーに最後の打撃を与えた。ヒトラーは激怒し、ヒムラーを解任するとともにその逮捕命令が出されたが、もはやドイツ国内はその執行すらできない状態であった。

終末が近づいたことを悟ったヒトラーは、個人的、政治的遺書の口述を行った。この政治的遺書の中で戦争はユダヤ人に責任があるとしたほか、大統領兼国防軍最高司令官職にカール・デーニッツ海軍元帥、首相に宣伝相ゲッベルス、ナチ党担当大臣にボルマンをそれぞれ指名した。さらに「国際ユダヤ人」に対する抵抗の継続を訴えた。個人的遺書では恋人エヴァとの結婚と、自殺後に遺体を焼却することを述べた。この遺書をタイプした秘書トラウドル・ユンゲにヒトラーは「ドイツ人は私の(ナチズム)運動に値しないことを自ら証明した」と語り、自らの運動が終焉したことを認めた。

遺書をタイプした後の午前2時、長年の恋人エヴァ・ブラウンと結婚式を挙げた。そして4月30日、毒薬の効果を確かめるため愛犬ブロンディを毒殺した後、午後3時に妻エヴァと共に総統地下壕の自室に入り、自殺した。ほぼ生涯にわたって独身を通し、死の直前に結婚したので、他の第二次世界大戦指導者と異なり、直系の子孫はいない(報道などに登場する「子孫」は再従兄弟、または異母兄弟の子孫)。

自殺の際ヒトラーは拳銃を用い(青酸カリを使ったとする説もある)、エヴァは毒を仰いだ。遺体が連合軍の手に渡るのを恐れて140リットルのガソリンがかけられ焼却された。ひどく損壊した遺体はソ連軍が回収し、検死もソ連軍医師のみによるものだった。しかも、その検視結果の報告を受ける立場にあったスターリンはジャーナリストからの質疑に対し、ヒトラーの死を否定し、南米へ逃走したと断定した。また側近らの証言も曖昧で矛盾したものが多かった為、長い間ヒトラーの死の詳細は西側諸国には伝わらなかった。これらのことが「ヒトラー生存説」が唱えられる原因となった(主な保険会社もヒトラーのベルリンでの死に対して「保険金は出せない」としている。要するに根拠が無さすぎたのである)。

なお日本は、先に死去したアメリカのフランクリン・D・ルーズヴェルト大統領の死去に際し、外交儀礼に則り鈴木貫太郎首相の名で正式に弔意を示す声明を発表したものの、ドイツという最大の同盟国の国家元首であるヒトラーの自殺の報に対しては、弔意を示す声明や半旗の掲揚を行わなかった。

さらに、駐日ドイツ大使館は恐らく世界の公的機関として唯一の追悼式を行ってヒトラーの死を悼んだが、日本政府はこれに対して外務省の儀典課長が式典に参列したのみであった。当時朝日新聞では、訃報に「ヒ総統薨去」の見出しを用い、外務省政務局の『世界情勢ノ動向』においても「『ヒットラー』総統薨去」という表現を用いている。

略年表

  • 1889年(0歳):オーストリア・ハンガリー帝国のブラウナウ地方でバイエルン人の税関吏アロイス・ヒトラーの4男として生まれる。
  • 1895年(6歳):父アロイスの農業事業のためにバイエルン王国パッサウ地方に移住。
  • 1897年(8歳):父の事業が失敗し、一家はオーストリアへ戻る。アロイスとヒトラーとの諍いが始まる。
  • 1900年(11歳):小学校を卒業。大学予備課程(ギムナジウム)には進めず、リンツの実技学校(リアルシューレ)に入学する。
  • 1901年(12歳):二年生への進級試験に失敗、留年
  • 1903年(14歳):アロイス病没。リンツ実技学校中退。
  • 1904年(15歳):シュタイアー実技学校入学。
  • 1905年(16歳):シュタイアー実技学校中退。以後、正規教育は受けず。
  • 1906年(17歳):遺族年金の一部を母から援助されてウィーン美術アカデミーを受験するも不合格。以降、下宿生活を続ける。
  • 1908年(19歳):アカデミー受験を断念。下宿生活を終えて住居を転々とする。
  • 1909年(20歳):住所不定の浮浪者として警察に補導される。独身者向けの公営住宅に入居。
  • 1911年(22歳):遺族年金を妹に譲るように一族から非難され、仕送りが止まる。水彩の絵葉書売りなどで生計を立てる。
  • 1913年(24歳):オーストリア軍への兵役回避の為に国外逃亡。翌年に強制送還されるが「不適合」として徴兵されず。
  • 1914年(25歳):第一次世界大戦にドイツ帝国が参戦するとバイエルン軍に義勇兵として志願。
  • 1918年(29歳):マスタードガスによる一時失明とヒステリーにより野戦病院に収監、入院中に第一次世界大戦が終結する。最終階級は伍長勤務上等兵。
  • 1919年(30歳):革命中のバイエルンレーテに参加し、大隊の評議員となる。革命政権崩壊後、ミュンヘンを占領した政府軍に軍属諜報員として雇用され、ドイツ労働者党への潜入調査を担当する。
  • 1920年(31歳):ドイツ労働者党の活動に傾倒し、軍を除隊。党は国家社会主義ドイツ労働者党に改名される。
  • 1921年(32歳):党内抗争で初代党首アントン・ドレクスラーを失脚させ、第一議長に就任する。Führer(フューラー)の呼称がこの頃から始まる。
  • 1923年(34歳):ベニート・ムッソリーニローマ進軍に触発されてミュンヘン一揆を起こすが失敗。警察に逮捕される。
  • 1924年(35歳):禁錮5年の判決を受けてランツベルク要塞刑務所に収監。12月20日、仮釈放される。
  • 1926年(37歳):『我が闘争』出版。党内左派の勢力を弾圧し、指導者原理による党内運営を確立(バンベルク会議)。
  • 1928年(39歳):ナチ党としての最初の国政選挙。12の国会議席を獲得。
  • 1930年(41歳):ナチ党が第二党に躍進。
  • 1932年(43歳):ドイツ国籍を取得。大統領選に出馬、決選投票でヒンデンブルクに敗北して落選。しかし国会選挙では第一党に躍進してさらに影響力を高める。
  • 1933年(44歳):ヒンデンブルク大統領から首相指名を受ける。全権委任法制定、一党独裁体制を確立。
  • 1934年(45歳):突撃隊幹部を粛清して独裁体制を強化(長いナイフの夜)。ヒンデンブルク病没。大統領の職能を継承し、国家元首となる(総統)。
  • 1936年(47歳):非武装地帯であったラインラントに軍を進駐させる(ラインラント進駐)。ベルリンオリンピック開催。
  • 1938年(49歳):オーストリアを武力恫喝し、併合する(アンシュルス)。ウィーンに凱旋。ミュンヘン会談ズデーテン地方を獲得。
  • 1939年(50歳):チェコスロバキアへ武力恫喝、チェコを保護領に、スロバキアを保護国化(チェコスロバキア併合)。同年に独ソ不可侵協定を締結、ポーランド侵攻を開始、第二次世界大戦が勃発する。以降大半を各地の総統大本営で過ごす。
  • 1940年(51歳):ドイツ軍がノルウェー、デンマーク、オランダ、ベルギー、ルクセンブルク、フランスに侵攻。フランス降伏後、パリを訪れる。
  • 1941年(52歳):ソビエト連邦に侵攻を開始(独ソ戦)。年末には日本に追随してアメリカに宣戦布告。
  • 1943年(54歳):スターリングラードの戦いで大敗。また連合軍が北アフリカ、南欧に攻撃を開始、イタリアが降伏する。
  • 1944年(55歳):ソ連軍の一大反攻(バグラチオン作戦)により東部戦線が崩壊、連合軍が北フランスに大規模部隊を上陸させる(ノルマンディー上陸作戦)。7月20日、自身に対する暗殺未遂事件によって負傷。
  • 1945年(56歳):エヴァ・ブラウンと結婚。ベルリン内の総統地下壕内で自殺。

反ユダヤ主義

本人の著作や発言等から、ヒトラーは少年時から様々な反ユダヤ主義に影響された「生粋のアーリア人至上主義者」と見なされる傾向が強い。それはキリスト教社会であったヨーロッパ全体に広がっていた差別意識を発見し政治的に活用した色彩が強く、ヒトラー個人と付き合いがあった人々の証言からは、ヒトラーがいつそのような差別意識を身につけたのか判断するのは難しいとしている。

ヒトラーが幼い頃に母親と通った質屋の主人がユダヤ人であり、その主人がヒトラー親子の品を安値でしか買い取ってくれず、そのためヒトラーはユダヤ人に対して不信感を抱くようになったという俗説もあるが、父の恩給を受給していたヒトラー一家が経済的に困窮していた事実はない。なお、この頃ヒトラーの母親を治療した医師エドゥアルド・ブロッホはユダヤ人であった。ブロッホは後にユダヤ人迫害が開始された後も「」として手厚く保護され、その後外国に解放されたという。ヒトラーは自分が恩義を受けた相手にはユダヤ人であっても例外的に扱ったのではないかという指摘もある。このような待遇を受けた人物としては、第一次世界大戦下でヒトラーの叙勲を推薦した上官や、ヒトラー山荘に勤務した料理人マレーネ・フォン・エクスナーがいる。エルンスト・ヘスはナチ党政権掌握後、ナチス政府に迫害を受けていたが、ヒトラーに迫害の中止を訴え、待遇が改善されている。しかし1941年になると強制収容所に送られた。エクスナー夫人はヒトラーお気に入りの調理人であったが、ボルマンの調査によってユダヤ系の血が入っていたことが発覚し、ヒトラーは彼女を解雇する代わりに彼女と家族に「名誉アーリア人」待遇を与えた。また、ナチス政権下で、「名誉アーリア人」として航空省次官となったエアハルト・ミルヒの父親はユダヤ人であったという説がある。

ヒトラー自身も言っていたように、ウィーン生活を送る1910年夏頃に反ユダヤ主義的思想を固めたと見られている。ウィーン時代の友人にユダヤ人がいたとされている。ただ、その友人と金銭トラブルがあったようで、このことは警察にも記録されていることから、このことがヒトラーに大きな影響を与えたという説を唱える者もある。また、ヒトラーの友人であったクビツェクはウィーンで同居していた頃に、すでに反ユダヤ的思想を持っていたと証言している。それ以降にヒトラーと関係があったユダヤ人には、第一次世界大戦後にヒトラーがミュンヘンで住んだアパートの管理人がいる。ヒトラーは管理人が作った食事を食べながら党幹部と打ち合わせを度々行っていたが、党勢の拡大とともにヒトラーはアパートを引き払った。

いずれにせよ、入党後の1920年8月23日には『ホーフブロイハウス』で「ユダヤ人は寄生動物であり、彼らを殺す以外にはその被害から逃れる方法はない」と演説するほどの確固たる反ユダヤ主義者となっていた。一方でユダヤ人のブロニスラフ・フーベルマンアルトゥル・シュナーベルのレコードを所持していた。

著作

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ナチズム聖典というべきヒトラーの著書『わが闘争』は、ナチ党政権時代のドイツで聖書と同じくらいの部数が発行されたともいわれている。その内容は自らの半生と世界観を語った第1部「民族主義的世界観」と、今後の政策方針を示した第2部「国民社会主義運動」の2つに分かれる。この中でヒトラーは「アーリア民族人種的優越、東方における生存圏の獲得」を説いている。

近代ドイツ最大の哲学者ニーチェの著作である『権力への意志』の影響が強く見られ、ヒトラーの思想を、「力こそが全て」というニーチェの書からの誤読、もしくは自分なりに解釈し直しているのではないかと指摘されることが多い。ナチス政権時の発行数からは「ナチス公認の最重要文献」として扱われていたことが窺える。しかしヒトラーは後に「わが闘争は古い本だ。私はあんな昔から多くのことを決め付けすぎていた」と語っている。またハンス・フランクには「結局私は物書きではなかった」「思想は書くことによって私から逃げ出してしまった」「もしも私が、1924年にやがて首相になることを知っていたら、私はあの本を書かなかっただろう」と語っている。

1928年には、マックス・アマンに口述して執筆した第二の著作が完成した。生前のヒトラーは「」(続・我が闘争)と呼ばれるこの本の公表を許さなかった。

「現在のドイツでは『わが闘争』は民衆扇動罪による発禁本のリストの中に入っている」とよく誤解されるが、実際の理由は、著作権と出版権を委ねられているバイエルン州政府がどの出版社にも著作権を渡さないことにあった。しかし保護期間は2015年までのため、2016年以降は出版は自由となった。

ヒトラー自身の思想を伝える物は、公の場で行われた演説、政治的文書のほかには関係者による記録が存在する。「ヒトラーのテーブル・トーク」と呼ばれる物は、1941年から1944年にかけてヒトラーが私的な場で語ったものを、マルティン・ボルマンの命令によって記録したものである。このほかにボルマンが書き留めたとされる、1945年2月と4月のヒトラーの談話が存在する()。ただしこの文書は、ヒュー・トレヴァー=ローパーアンドレ・フランソワ=ポンセが支持したものの、ドイツ語版原文が発見されておらず、イアン・カーショーなど複数の歴史家はきわめて疑わしいと考えている。

幹部であったシュペーア、、エルンスト・ハンフシュテングル、側近である秘書のトラウデル・ユンゲや護衛兵であったローフス・ミシュなどがヒトラーの言動を記した著書を残している。

宗教観

ヒトラーは表面上こそキリスト教徒であるとしていたが、教会に対してはナチズムに従順な「積極的キリスト教」の立場を望んでいた。またイエス・キリスト処女懐胎のためユダヤ人の血に染まっていないとし、彼の生涯をユダヤ人との戦いと捉え、「キリストが始めたが完成できなかった仕事を、わたしが―アドルフ・ヒトラーが―実現させるのだ」と唱えた。また内々の談話では「聖書がドイツ語に翻訳されたのはドイツ人にとっての不幸」「ローマ帝国が滅んだのはフン族やゲルマン民族のせいではなくキリスト教のせいである」等とキリスト教や聖職者を批判する発言をしていた。ただしヒトラーは無神論者ではなく、自然の中に全能の存在がいると語っていた。

対日本・日本人観

ヒトラーは日本や日本人を蔑視しているが、日独伊三国同盟以降、親日派であるハインリヒ・ヒムラーなどの側近達を通して日本を学び、次第に肯定的な発言が増えていった。

ヒトラーは『わが闘争』の中で、日本人について、「文化的には創造性を欠いた民族である」とし、日本語の発音を鵞鳥のようだと酷評している。『わが闘争』には日本人に対して差別的見解が多く、原文で読んだ井上成美は「ヒトラーは日本人を想像力の欠如した劣等民族、ただしドイツの手先として使うなら小器用・小利口で役に立つ存在と見ている」として、ヒトラーやナチズムの根底には強固な反日主義・差別主義があるとみている。大日本帝国海軍によるマレー作戦真珠湾攻撃の成功の報告を受けた際には「我々は戦争に負けるはずがない。我々は3000年間一度も負けたことのない味方ができたのだ」と語り対米宣戦を行ったが、当時の日本の快進撃を誇大発表と感じており、日本の発表を直接報道しない措置を承認している。

ナチズムが最もこだわる人種主義思想からすれば、白人かつ北方人種と考えられていたアングロサクソンの英米を心情的に応援するのは当然であったし、「アジア人によるアジア統治」を唱える大アジア主義大東亜共栄圏は悪夢でしかなかった(特にインドの脱植民地化には猛反発していた)。つまるところ、日独の同盟は政治的利点による行動であって、思想的には非難すべき行動と見ていたのであることからも、ヒトラーの美術展訪問はあくまで儀礼的なものであった。ヒトラーは「ユダヤ人は日本人こそが彼らの手の届かない相手だと見ている。日本人には鋭い直観が備わっており、さすがのユダヤ人も内から日本を攻撃できないということが分かっているのだ」と述べ、イギリスとアメリカが日本と和解すれば多大な利益を得られるが、その和解を妨害しているのがユダヤ人だと語っている。ボルマンメモの1945年2月13日付の記述では「私は中国人と日本人が我々より劣っていると見做したことはない。彼等は古代文明に属しており、彼等の過去が我々より優れていたと率直に認める。我々が我々の文明を誇れる権利があるように、彼等は過去に誇りを持つ権利がある。彼等が人種としての誇りを強固にすればするほど、私は彼等と容易に協力し合えるだろう」と述べている。

これらの経緯や政治的理由から日本人が「名誉アーリア人」としての扱いを受けたという説もあるが、などヒトラーが裁可した人種差別法で明示的に厚遇を受けたわけではない。1934年に日本人が関わった事件の報道の際、人種法について触れないようにするという通達が行われたように、あくまで政治的配慮によって手心を加える範囲のものであった。また「我々ドイツ人は日本人に親近感など抱いてはいない。日本人は生活様式も文化もあまりにも違和感が大きすぎるからだ」とも述べている。

ホロコースト

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1940年にヒトラーは、ドイツ国内のユダヤ人をマダガスカルに移送させる計画(マダガスカル計画)を検討させた。これはドイツの影響下からユダヤ勢力を排除するための作戦であり絶滅作戦ではなかったが、戦局の悪化により移送は不可能になった。1941年12月には閣僚の提案によってユダヤ人滅亡作戦を指示した。1942年1月にはドイツ国内や占領地区におけるユダヤ人の強制収容所への移送や強制収容所内での大量虐殺などの、いわゆるホロコーストの方針を決定づける「ヴァンゼー会議」が行われた。しかしながら、文章上では「絶滅」や「殺害」と言った直接的な語句は使われず、「追放」や「移民」と言った語句が最後まで使用された。

政権奪取以降、ユダヤ人迫害政策を指揮、指導していたヒトラー自身が、ユダヤ人絶滅自体を命じたという書類は現存していない。このため、ホロコーストの命令に関しては「ヒトラーが包括的・決定的・集中的な一回限りの絶滅命令を口頭で指令した」というジェラルド・フレミング、らの説、「正規の集中的絶滅命令は存在せず、軍政・民政・党・親衛隊の各部局が部分的絶滅政策を行った。ヒトラーはこれらの政策に同意や支持を与えていた」とし、絶滅政策が一貫したものではなく即興性を持つものであるというミュンヘンの現代史研究所所長、、ラウル・ヒルバーグらの説がある。

しかし、1941年12月12日に全国指導者や大管区指導者を集めて行われた会議 (en) においてヒトラーは「ユダヤ人の絶滅は必然的結果でなければならない」と演説しており、その演説はゲッベルスの日記に記録されている。内々でも「この戦争の終結はユダヤ民族の絶滅を意味する」と語っている。

党写真家ハインリヒ・ホフマンの娘でヒトラー・ユーゲント指導者バルドゥール・フォン・シーラッハの夫人であったの回想は、ヒトラーがホロコーストに関してそれを指示し、賛同する立場であったことを証明するものとされている。ヘンリエッテは、ドイツ占領下の地に住むユダヤ人が次々と逮捕され、列車に詰め込まれ収容所に送られていることを知り、ヒトラーに直訴することを考えた。1943年4月7日にパーティの場でヘンリエッテがそのことを告げると、ヒトラーは激怒して「あなたはセンチメンタリストだ!いったいあなたと何の関係がある!ユダヤ女のことなどほっといてもらいたい!」と怒鳴りつけた。その後、ヘンリエッテは2度とヒトラーから招待を受けることはなかったという。

健康政策

ヒトラーはドイツ民族の健康を守ることにも強い関心を持っていた。特に、1907年に母親クララを乳癌で失ったヒトラーにとって、癌の治療は特別な意味を持っていた。厚生事業のスローガンとして「健康は国民の義務」を定め、喫煙に対しても反タバコ運動を積極的に行った。環境や職場における危険を排除し(発癌性のある殺虫剤や着色料の禁止)、早期発見を推奨した。医師達はとくにタバコの害を熱心に訴え、彼らは世界で最も早く喫煙肺癌と結び付けた。

「健全な民族の未来は女性にある」として女性の体育を奨励したことでも知られる。そのため現在のドイツでは、政府による過度の健康問題への介入や禁煙禁酒運動を「ナチズムを彷彿させるもの」としてタブー視する傾向にある。

演説

ヒトラーは「人を味方につけるには、書かれた言葉よりも語られた言葉のほうが役立ち、この世の偉大な運動はいずれも、偉大な書き手ではなく偉大な演説家のおかげで拡大する」と演説の力を極めて高く評価していた。

ヒトラーは若年の頃から演説をする癖を持っており、親友であったクビツェクもその演説をたびたび聴かされている。第一次世界大戦直後に軍の情報員として働いていたころから初めて多くの人々の前で演説することになり、大きな喝采を得た。ヒトラーは「私は演説することができた」と回顧している。ナチ党の指導者になってからも「大衆を興奮させ、感激させる術を心得ており、」「俗物の大きなうなり声と金切り声で大衆を魅了した」。またヒトラー自身も『我が闘争』において、「大学教授に与える印象によってではなく、民衆に及ぼす効果」によって演説の価値が量られるとしている。ヒトラーの演説は一見その場のアドリブのように見えるが、実際には詳細なメモ書きによって構成されていた。一見変わった言い方をしている場合にも、大衆の興味をひく意図があってあえて変更していることもあった。ミュンヘン一揆後にはバイエルン州などによって演説を禁じられ、アドルフ・ヴァーグナーに演説を代読させることもあった。対比法平行法を駆使し、修辞的な面でにもヒトラーの演説は1925年頃にすでに完成の域に達していた。

しかしヒトラーの発声術は独学によるものであり、1932年頃には声帯を損傷する恐れもでてきた。そこでヒトラーはオペラ歌手の指導を受け、声帯に負担をかけずよく通る発声術や、効果的なジェスチャーを身につけた。デフリーントはヒトラーがプロパガンダのために、同じ内容の演説を繰り返すことに辟易していた様を記録に残している。

政権獲得後にはラジオによる演説も行われるようになったが、大衆が飽きるのも早く、1934年頃からヒトラー演説の放送は次第に減少し、娯楽番組が多く流されるようになった。亡命の通信員も、ヒトラー演説の聴取を義務づけられた大衆が冷たい反応を示している様を記録に残している。

戦局が苦しくなると、ヒトラーの演説は次第に減少し、大規模なラジオ演説は1940年に9回、1941年に7回、1942年に5回、1943年には3回にまで減少した。迫力のある演説も減少し、原稿をただ読み上げるだけの演説が、聴衆の無い会場で収録されたものが放送されるようになった。1945年1月30日に放送された、ドイツ国民にむけた演説が最後のものとなった。

部下の支配

ヒトラーは自身の行動を評価する組織の存在も許さなかったし、制約する規範や法律の制定を認めなかった。また部下が決定を迫ることで自らに圧力をかけることも嫌い、そのような事態が起きればわざと決定を延期することもしばしばあった。軍事に関してもそうであったが、もともと記憶力には優れたものがあったヒトラーは会議の前に統計や文書を暗記し、会議が始まると膨大なデータ量で聞き手をうんざりさせ、早く終わらせたいと思わせて自分があらかじめ考えていた案を呑ませることを行っていた。

ヒトラーと軍事

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ヒトラーは軍事力を極めて重視しており、「世の中に武力によらず、経済によって建設された国家など無い」と、軍事力こそが国家の礎であると主張していた。また政権掌握直後には国防軍首脳といち早く協議を行い、突撃隊を押さえ込んで協力体制を構築しようとした。ヒトラーは膨大な資産と、国家の財産から将軍達に個人的な下賜金、土地の供与を行い、彼らの歓心を買おうとした。ヒンデンブルクは所有していたノイデック荘園が2倍の規模になるほどの優遇措置を受け、アウグスト・フォン・マッケンゼン元帥も広大な荘園の贈与と優遇措置を受けている。一方でブロンベルク罷免事件以降は軍の権力を押さえることにも力を入れるようになった。

ヒトラーは軍事指導に異常な程の熱意を注いだことも、他の独裁者に比べて顕著であった。大戦中期間、ほとんどを前線に近い総統大本営で好んで過ごした。また1942年からは自ら陸軍総司令官を兼任、1942年9月から11月までは前線のA軍集団司令官を兼任して指揮するなど元首として異例の行動を採った。またアルデンヌ反攻作戦など自ら作戦を発案するなど、作戦の細部にまで関わった。その中でヒトラーは退却や降伏を徹底して嫌い、精神論に基づいた考えを軍に強要した。同様に自らの直感を重視してラインハルト・ゲーレンのような不利な報告を行う者、戦略的撤退や防御など「退嬰的」な提案をする参謀本部との関係が険悪になった。

そればかりか敗戦が続くのは自らの命令を正確に行わない将軍達の「裏切り」が原因であるとし、側近や軍幹部に当たり散らした。1944年7月20日の暗殺未遂事件は参謀本部を形成する高級軍人達への不信感を決定的なものとした。1945年4月30日という自殺の日になっても、独ソ戦敗因は堕落した参謀本部と将軍にあると語り、官邸内や地下壕内にスパイがいるとして、自らの責任については言及することはなかった。

芸術やメディアの政治利用

当時の最新メディアであったラジオテレビ映画などを活用してプロパガンダを広めるなど、メディアの力を重視していた。情報を素早く伝達させるため、ラジオを安値で普及させた(国民ラジオ)。また、これらの一環としてベルリンオリンピックでは、女性監督のレニ・リーフェンシュタールによる2部作の記録映画『オリンピア』を制作させている。

若年期芸術家を志して挫折した過去があるためか、ヴェルナー・フォン・ブラウンハンナ・ライチュフェルディナント・ポルシェをはじめとした若く才気あふれると認めた人物には大いに援助をした。

体格

身長については中肉中背で、特に高身長ではないが小柄でもなかった。細かい数値では172cmから173cmなどとされている資料がしばしば見受けられるものの、1914年のザルツブルクでの徴兵検査で175cmと記されているため、これが正確な数字であると見られている。「ヒトラーは自分の身長が高官たちに比して低いことにコンプレックスを抱いており、靴の中に細工をしたりして身長を高く見せようとしたり、自分の机は段差の上に置いたりしていた」などの話はあるが、これは戦後ヒトラーを小物として印象づけるために成されたデマの一つである(もっとも車については多くのパレード用リムジンと同じように、同乗者より自身を目立たせるために座っていた座席と車の床のかさ上げが行われていた)。遺体検証の際、後述する病の影響で萎縮した体格から「推定163cmほど」と記録されたことが小柄というイメージにより拍車をかけたと思われる。体重は時期によって大きく変わるが、運動不足から1944年1月には体重が230ポンド(約104kg)に達したという。

瞳は青色で髪も幼少時までは金髪であったが、長じるに従い色素が沈着して青年期には黒髪になった。現実のナチス高官は理想的な「アーリア人種」の体格(金髪碧眼かつ大柄で健康的)とはほど遠い人物が多く、当時流行ったジョークにも「理想的アーリア人とはヒトラーのように金髪で、ゲーリングのようにスマートで、ゲッベルスのように背が高いこと」(エーミール・ルートヴィヒ)と皮肉られている。

他に口元に小さく髭を蓄えていた事は有名であり、小柄なイメージと相まって「チビのチョビ髭」というイメージがチャーリー・チャップリンの映画『独裁者』以降定着するようになった(ヒトラーは『独裁者』を二度鑑賞しているが、感想は残されていない)。この小さく切り揃えた筆状のヒゲは当世風のヒゲであったものの、エヴァ・ブラウンはヒトラーと出会った当時、おかしな口髭と思っていたようである(エヴァ・ブラウン#ヒトラーとの出会い)。第二次大戦中に連合国軍はヒトラーに女性ホルモンを摂取させて女性化した彼にヒゲを剃らせてしまおうと計画した(ヒトラー女性化計画)。七三に分けた髪形も特徴的だが、ヒトラーは遺伝的に薄毛で前頭部から生え際が後退していることが写真で確認できる。

記録

テレビ番組などでは彼の映像はもっぱら白黒が用いられるが、実際にはカラー映像も数多く残されている(例:ベルリンオリンピック開会式やエヴァがベルヒテスガーデンで撮影したプライベートフィルム等)。ただし、当時はカラーフィルム黎明期で価格も高く、技術的に未成熟でまだまだ珍しく、彼の登場する公的記録映像(演説シーンなど)のほとんどは信頼性が高い白黒で撮影されている。

健康状態

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ヒトラーは体が弱いほうではなかったが、母親ががんで苦しむのを見ていたため、自らもがんで死ぬのではないかという不安にとりつかれていた。父親も脳卒中で亡くなっており、家系的な病気に神経質なほどに気を使っていたが、その不安自体が悪循環に精神の病(不安障害)として体調不良につながっていった。第一次世界大戦時に敵軍が投下した化学兵器に動揺して、ヒステリーによる失明症状を起こして精神科医による治療を受けている。1928年頃、不安による強迫観念から逃れるため、精神科に通院して治療を試みているがうまくいかなかった。

衛生面への気遣いも人一倍で、一日に何回も風呂に入っては念入りに体を洗うのが日課だった。しかし、口内衛生については大の歯科医嫌いであったようで極めて悪く、歯科医が1945年に記録したカルテでは下顎の前歯をはじめとした5本を除いてほとんどが金属製あるいは陶器製の義歯やブリッジ、あるいは被せ物を施されており、上顎の奥歯は全て抜け落ちて放置されたままだった。これは伴侶のエヴァの歯の状態が治療の必要性がないと評されるほど良好であったのとは対照的だった。

ウィーンを深夜徘徊するなど青年時代からすでに不眠症気味で、乱れた生活を送っていた。夜型であったため、独裁者になってからも会議は深夜に行われることも多く、会議がない時でも明け方近くまで側近達を集めてティー・パーティを開いた。側近達は途中で退席することもできず、ヒトラーが眠るまでつきあわされた。このため昼間の業務も行わなくてはならない側近達は非常に苦労したという。ヒトラーが眠りにつくと、なにがあろうと起こすことは許されなかったが、これが災いしてノルマンディー上陸作戦の対応に遅れたとも言われている。

1933年頃になると消化器官の不調に悩まされ、50歳に近づいた1936年頃には胃けいれん不眠、とめどない放屁に加え、足の湿疹にも悩まされるようになる。持病の治療に悩んでいたヒトラーに恋人であるエヴァ・ブラウンが紹介したのが医師テオドール・モレルであった。モレルの処方した薬には劇物が多かったため依存性や副作用が強く、ヒトラーの症状は一時的に改善されたが、次第に副作用が心身をむしばんでいった。モレルの診断や処方する劇薬に他の医師達は懐疑的であり、紹介したエヴァをはじめとする側近達も次第に不信感を強めたが、症状回復を望んでいたヒトラーの信頼は厚く、最期を迎える寸前までモレルは主治医を務めた。

大戦中の1942年頃からヒトラーは左手が震えるようになった。左手の震えは、徹底した撮影アングルの規制と検閲によって記録フィルムからカットされたが、検閲に漏れたニュース・フィルムと、カットされたものの破棄されずに残った一部のフィルムによって確認されている。映像を見た小長谷正明などの神経科医や、晩年のヒトラーと接見した親衛隊大佐兼国防軍軍医のエルンスト=ギュンター・シェンク教授はパーキンソン病と断定している。当時は治療法がなく、症状は確実に進み、肉体と思考能力を低下させていった。食事の際も震えは止まらず、右手も不自由になりしばしばスープをこぼしてしみが付いた。このパーキンソン病は1941年頃から発症し、それがかつての柔軟な外交政策を取った頃と異なり、頑迷で無理な戦争指導につながった側面がある。

1944年頃になると震えに加えて猫背になり、よちよち歩きをするようになった。まだ55歳であったにもかかわらず、衰えた容貌から70代の老人に見えたという。精神的にも戦局の悪化などかんしゃくを起こすようなできごとが多くなり、不眠症に拍車を掛けた。そのため体力も急速に衰えはじめ、数十メートルほどしか歩けなくなり、従者の体に寄りかかったり、総統専用のベンチに座って休憩をしなければならなくなった。シュペーアの証言では、晩年には美術学生時代の技術は失われ、対面した際地図に直線を引くつもりが線は次第に曲がっていった。署名も判読できなくなり、ボルマンに悪用されることになった。視力も著しく衰え、専用の通常より3倍も大きな文字で打たれた書類ですら大きな虫眼鏡で目を通さなければならなかった。青年期からの誇大妄想やパラノイアも悪化して、周囲をほとんど信用しなくなった。

健康法

一般的な健康法である運動は好まず、色白で汗をかかない姿から不健康な人物という印象を与える事もしばしばだった。本人は運動不足を心配した医者に「私にとっての最大のスポーツは演説だ」と反論したことがあるが、事実あまりにも激しい熱弁を振るった後の彼の体重は数kgも減少していたという。第一次大戦時の負傷や、ミュンヘン一揆での肩の脱臼などで激しいスポーツができなかったという部分もあった。運動嫌いのヒトラーは食事を菜食中心に努め、飲酒や喫煙も控える事で健康的な生活を試みている。後に宿敵となるスターリンチャーチルが大酒飲みでヘビースモーカーであったのとは対照的であった。

ウィーンを放浪していた時期を知る人物によると、若い時代からヒトラーはあまり酒やタバコに手は出さなかったという。禁煙についてはボルマンが聞いた内容によれば、青年時代には喫煙をしていたが金が底をついた為に辞める決意をし、タバコを川へ捨てたというヒトラー自身の回想が触れられている。母親が煙草嫌いであった事も影響したという見方もある。部下や党高官が喫煙するのを見た時には、「体に悪いから」と禁煙を勧めるほどであったという。エヴァ・ブラウンを含め、ヒトラーの部下や周辺人物のほとんどが喫煙者であったが、ヒトラーの前やヒトラーが出入りする部屋で喫煙することは厳禁であった。しかし終戦間際の総統地下壕では威厳も薄れ、ヒトラーが近くを通っても皆平然と煙草を吸っていたという。禁酒については上記の父が飲酒している時に脳卒中になった事から避けるようになった。バルジの戦いの初期、軍の攻勢が順調に進んでいることを祝ってヒトラーがワインを口にするのを見て驚いたという側近の証言が残されている。

菜食主義については溺愛しためいのゲリ・ラウバルの自殺後になったともされるが、実際にはレバーのダンプリングを食べることもあり、それほど徹底してはいなかった。伝記作家のロバート・ペインによると、ヒトラーはソーセージが好物であり、ヒトラーが厳格な菜食主義者であったとする神話は、ゲッベルスによる印象操作であると主張している。一方で戦時中に菜食主義者団体を弾圧したという説については、アメリカベジタリアン協会歴史アドバイザーのらに否定されている。

対人関係

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ヒトラーは対人コミュニケーションにいささか問題があったようで、シュペーアによれば「彼は気取らないリラックスした会話ができなかったようだ」と観察し、「不機嫌な時の言葉は学童とほぼ同じ程度だった」と証言した。粛清されたエルンスト・レームも「彼は批判されるのが嫌いで、党内で彼の提案が疑問視されるとすぐさまその場から消え、自分が通じていない話をするのも嫌がった」と記している。

ただし客として面会した人間を魅了することはよく知られており、多くのドイツ人や、デビッド・ロイド・ジョージといった外国人もヒトラーと面会した際には好印象を持ったと語っている。しかしいったん敵となった人物に対しては口をきわめて罵った。たとえば1933年のニューヨーク・タイムズのインタビューでは、フランクリン・ルーズベルト大統領に対して「共感を覚える」「ヨーロッパにおいて大統領の方法や動機に理解をしめした唯一の指導者」などと語っていたが、アメリカの参戦以降の評価はきわめて辛辣なものとなった。また枢軸国の首脳などには高額な贈り物を行い、ホルティ・ミクローシュは65万ライヒスマルクの機関付きヨットの贈与を受けている。

学者や官僚などの高等教育を受けた知的エリートを「知識はあるが感性のない連中」と嫌うなど、自らの教育水準(中等教育の途中放棄)にコンプレックスを抱いていたことが複数の人物から証言されている。青年期に図書館で書物を読み漁って独学に励んだり、後年にも専門的な議論へ必要以上に口を挟みたがった。地政学を提唱した学者のカール・ハウスホーファーは自身の理論を積極的に引用していたヒトラーと面会したが、「正規の教育を受けた者に対して、半独学者特有の不信感を抱いている」とする感想を残している。独学で学んだ知識については確かにある程度は博識なものの、独学者にありがちな偏った知識や表面的な理解のみという部分があり、先のハウスホーファーも「地政学を全く理解できていなかった」と指摘している。

こうしたヒトラーを特徴付ける劣等感は学識だけではなく、軍歴においてもそうであった。軍隊生活の最終階級が低かったため、元帥であるヒンデンブルク大統領、現役軍人においてもゲルト・フォン・ルントシュテットエーリヒ・フォン・マンシュタインら国防軍将官からは「ボヘミアの伍長」としばしば蔑視されていた。逆にヒトラーのお気に入りの軍人は、ドイツが攻勢であった大戦前半は、華々しい攻勢作戦を指揮したロンメル、エーリヒ・フォン・マンシュタイン、ハインツ・グデーリアンらであったが、守勢に立たされて以降は、頑強な守備作戦の指揮に定評のあった、ヴァルター・モーデルフェルディナント・シェルナーらがこれに代わった。また、ゲルト・フォン・ルントシュテット元帥はその旧プロイセン軍人風の威厳が好まれて、何度も解任されてはまた重要なポストに再起用された。

社会階級的にもいわゆる貴族階級やユンカーなどの上流階級を憎み、自身が「プロレタリアート(労働者階級)」であることを演説において強調した。このことは党内で家柄ではなく生物学的な条件で選抜した親衛隊を指導層に置いたり、帝政ドイツ時代の皇帝ヴィルヘルム2世の会見要請にも応じないなどの姿勢に現れている。プロイセン軍時代からの伝統を引き継ぐ国防軍において、ユンカーとの対立は上記の経緯と共に軍上層部との対立を生んだ。戦争中には参謀本部に対する不信をあらわにして何度も参謀総長を更迭した。さらに平民出身者が多数を占める親衛隊の武装部門(武装親衛隊)を巨大化させ、国防軍上層部から党へと軍権力を分散させようとした。大戦末期にはヒトラー暗殺計画の関係者に多くのユンカーが加わり、ヒトラーの側も敗戦の責任をユンカーが多数を占める陸軍参謀本部が原因としている。

ベニート・ムッソリーニ

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同時代の政治家では政界入りを志してから政権獲得まで、イタリアのベニート・ムッソリーニに心酔に近い感情を抱いていたことで知られている。教師出身で豊富な学識から新しい政治思想「ファシズム」を理論化し、政治家としてもイタリアでの独裁権獲得と経済立て直しに成功していたムッソリーニをヒトラーは自らの手本としていた。バイエルン時代には自らが設計した党本部の執務室にフリードリヒ大王の絵画と共に、ムッソリーニの胸像を掲げていたという。同盟国の要人を表彰するべくドイツ鷲勲章(ドイツ鷲騎士団)を自ら創設すると、その最高等級である「ダイヤモンド付ドイツ金鷲大十字勲章」(Grosskreuz des Deutschen Adlerordens in Gold und Brillanten) をムッソリーニのみに授与している。ハンガリーのホルティ・ミクローシュ、ルーマニアのイオン・アントネスク、フィンランドのカール・グスタフ・エミール・マンネルヘイムら他の枢軸国の元首・軍首脳への授与が他の等級に留まっていることとは明らかに対照的である。

こうした熱烈なヒトラーからの親愛とは裏腹にムッソリーニの側はヒトラーを「無学な新参者」と見下している向きがあった。「私は二流国の一流指導者だが、彼は一流国の二流指導者だ」と皮肉る発言をし、また北方人種論や反ユダヤ主義などの人種主義にも嫌悪感を抱いていた。初会談の席を設けられた時もヒトラーを「道化者」と酷評しており、むしろヒトラーと敵対するオーストリアのエンゲルベルト・ドルフースの方に好感情を抱いていた。しかし独伊両国が侵略政策で孤立し始めると急速に接近するようになり、ムッソリーニもヒトラーの親愛に応じるようになった。公式に開かれた独伊首脳会談だけで16回も行われ、歴訪についてもムッソリーニがドイツに一回、ヒトラーがイタリアに二回赴いて行っている。その中でもムッソリーニの第一次ドイツ歴訪でのヒトラーの歓待ぶりは良く知られているが、ムッソリーニもヒトラーへの心配りを忘れなかった。

ヒトラーの第二次イタリア歴訪ではローマ、ナポリ、フィレンツェなどを周遊したが、最後に訪れたフィレンツェでヒトラーの古典芸術趣味を知っていたムッソリーニが街中の美術館を全て貸し切りにし、公式行事を全て後回しにしてヒトラーと芸術鑑賞をするというサプライズを用意した。ヒトラーの喜びようは尋常ではなく、ミケランジェロの絵画を陶酔した目で眺め、フィレンツェの街並を一望した時には笑いながら「とうとう、とうとう私はベックリンフォイエルバッハが分かった!」と叫ぶ有様だった。ムッソリーニは想像を超えるヒトラーの上機嫌さはともかく、どの美術館でも最後に必ず「ボリシェヴィキが到来すれば、この世界全てが破壊される」と同じ台詞を口にするのには呆れた様子だった。ミケランジェロ聖家族を見た後にヒトラーが「ボリシェビキが来れば…」と言いつつ振り返ると、ムッソリーニは「全てが破壊される」と苦笑いしながらドイツ語で答えている。

第二次世界大戦勃発後は目覚しい圧勝を重ねるドイツに対して、軍事的に従属するイタリアの発言権は弱まっていった。これに従いヒトラーとムッソリーニの間柄も主導権が入れ替わり、クーデターでムッソリーニが失脚すると立場は完全に逆転した。一方でヒトラーの友情や尊敬の念は変わらず、イタリア社会共和国を建国する際、親独的な姿勢から当初予定されていたロベルト・ファリナッチがムッソリーニを批判する発言をしたことに激怒して決定を撤回している。ヒトラーにとってムッソリーニはただの傀儡ではなく紛れもない友であった。ムッソリーニがパルチザンに処刑された報告を聞いた際、ヒトラーは激しい動揺を示している。

クーデンホーフ=カレルギー

パン・ヨーロッパ連合主宰者の日系オーストリア人貴族リヒャルト・ニコラウス・栄次郎・クーデンホーフ=カレルギー伯爵、博士)に対しては、「全世界的な雑種のクーデンホーフ」(= Coudenhove アラーヴェルツバスターデン・クーデンホーフ)であると1928年執筆(死後の1961年出版)の自著『』で形容して嫌っていた。クーデンホーフ=カレルギーは根無し草、コスモポリタン(世界人)、エリート主義の混血で、ハプスブルク一味であった過去の失敗を大陸規模でやるというのが、ヒトラーにとってのクーデンホーフ=カレルギー像であった。

クーデンホーフ=カレルギーの側からもヒトラーへの批判があり、その後、表立ってのさまざまな応酬を繰り返してクーデンホーフ=カレルギーを米国亡命に追い込んだ。

女性関係

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ヒトラーは死の直前まで結婚しなかった。これについては色々な理由があるが、基本的にはヒトラーが女性に対して紳士であろうと努めていたことに加え、「結婚すれば多くの婦人票を失うことになる」と恐れていた為であるという。ミュンヘン時代の下宿先であるアンネ・ポップ婦人は当時のヒトラーについて彼が夫妻の部屋に入る時は必ずノックし、入室を許可しても「入っていいですか」と重ねて尋ねた。「そんな堅苦しい礼儀はいい」と夫妻が言ってもヒトラーはそれを続け、ヒトラーの顔がやせていることを気にした夫が食べ物を与えようとしても断った。それを見て彼女はヒトラーのことを「これほど礼儀正しい青年はなかなかいない」と感じたと証言している。ヒトラーは身近な女性や子供に対しては親切で寛容であったという。秘書や使用人のミスに怒声を上げたこともなく、専属の調理婦には常に敬意をもって接していた。恰幅の良い女性に弱かったという証言もある。この傾向は敗戦が近づくにつれ顕著になっていった。個人的に接した子供たちからは「アディおじさん」と呼ばれて親しまれ、ヒトラー自身も子供を可愛がった。たとえば、宣伝相ゲッベルスに対しては常に、彼とマクダ夫人との間に生まれた6人の子供の近況を話すように求めたという。

ただし恋人エヴァの前で「インテリは単純な愚かな女をめとるほうがいい」と語るほど女性の知性を信頼していなかったヒトラーは、女性が政治に関与することは認めていなかった。「女性の部屋にいて、政治的なことに干渉されるのはまっぴらだ」と公言していたこともあり、女性関係がヒトラーの政策に影響を与えることはほとんど無かった。また、ヒトラーには戦場で鼠径部を負傷した際に生殖能力を失っていたという説も根強く存在している。睾丸が一つしかなかったともいわれるが、ヒトラーの主治医らはこれを否定している。しかし実際にヒトラーの睾丸を確認したかは定かではなく、またソ連軍の遺体検証では左睾丸がなく、わざわざ恥骨に引っ込んでいるのではないかと調査しても見つからなかったという記録がある。

女性恐怖症であった事はなく、私生活では男性より女性と会話する事を好み、ジョークや物真似といったくだけた会話も行っていたという。ヒトラーの女性の好みは単純明快で、ふくよかな丸顔と脚線美を持つ女性を美人と見なした。青年期の友人であったアウグスト・クビツェクによると、リンツ時代のヒトラーはシュテファニーという背の高い美しい女性に一目惚れしたが、声をかける勇気が無く彼女が決まって散歩をする道を2人で待ち伏せして見つめたり、あわただしい行動をとって関心をひこうとしたにとどまった。この時ヒトラーはなかなか踏み込めない自分に嫌悪感を持ち相当落ち込んでいたようで、クビツェクに「俺は彼女にどう話しかけたらいいんだ」としばしば助言を求めていたという。ヒトラーからアプローチを受けたと称する女性や、ユニティ・ヴァルキリー・ミットフォードヴィニフレート・ワーグナーなど噂になった女性も少なからず存在している。中でもヴィニフレートは、ワーグナーの息子ジークフリートの未亡人であり、ワグネリアンとして有名であったヒトラーの強い後援を受けていたため、彼女の主宰するバイロイト音楽祭は国家行事化していた。当時もヒトラーとヴィニフレートの結婚の噂が何度も流れている。姪のゲリ・ラウバルには通常の叔父と姪の関係を超えた愛情を注ぎ、近親相姦関係にあったという説も唱えられている。しかしゲリは1931年に自殺し、ヒトラーは大きな衝撃を受けた。

エヴァ・ブラウン

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確実にヒトラーと恋人関係になったといえるのは最期を共にしたエヴァ・ブラウンのみである。エヴァ・ブラウンとヒトラーが知り合ったのは1927年10月初めのことで、ナチ党専属写真師ハインリヒ・ホフマンの写真館に勤めるエヴァに魅かれたヒトラーが食事や映画に誘うようになったという。ヒトラーは秘書のに「エヴァは好ましい女性だ。しかし、私の生涯で本当に情熱をかき立てさせられたのは、ゲリだけだ。エヴァとの結婚は考えられない。生涯を結びつけることができる女性は、ただ一人、ゲリだけだった」。ナチスが弱小政党だった1920年代初頭にナチス党財政の金策に私財を投じて質素な生活を送っていた中で車に執着し、自分の資産で買える範囲として初めて購入した車が天蓋がない中古車であった(ただし、ヒトラー自身が車を運転をすることはなかった)。

1933年にヒトラーは首相時代に自動車設計者のフェルディナント・ポルシェがナチスに送った高性能小型大衆車構想に興味を示して、ポルシェと会談を行った。その後に、ベルリン自動車ショーの席上でアウトバーン建設と共に、国民車構想計画を打ち出して具現化が進む。しかし、ヒトラーはポルシェに対して国民車について低価格、頑丈性、低燃費、高速性能、空冷など条件を突きつけたことで難航する(もっとも、ヒトラーの条件は価格を除けばポルシェの目指していた国民車コンセプトに多く合致していた)。しかし1938年には最終プロトタイプが完成し、1939年に工場建設も終了目前になり量産化目前になったが、第二次世界大戦勃発によって軍用車生産が優先となったため、この計画による大衆車生産が中止となった。しかし、この大衆車構想は戦争の中でも工業基盤が残り、最終プロトタイプは1945年に戦争が終了した後でフォルクスワーゲン・ビートルとなってドイツの国民車として浸透した。ビートルは2003年に生産終了となるまで65年の長期にわたって生産させ続ける伝説的大衆車となった。なお、ヒトラーがフォルクスワーゲンの試作車に乗っている写真が存在する。

競馬

1945年4月30日にヒトラーは愛妻・エヴァ・ブラウンとともに心中するが、彼が亡き後にナチス後任者になったカール・デーニッツは、多くの美術品同様に、種牡馬達も美術品と同格に扱い、フランス等に送り返す際に専任将校と小隊を置くほど周知徹底した。そしてヒトラー死後ちょうど50年後の1995年、東京競馬場で行われた第15回ジャパンカップで、ジャパンカップ史上初のドイツ産馬のランドが6番人気ながらジャパンカップを制するのだが、このランドの血統を紐解いていくと、かつてヒトラーのトラケーネンファームでの軽種馬育種であることが証明され、ヒトラーの長年の夢が半世紀を過ぎて競馬界に栄光を残した。

ディズニー
巨大な物への関心

資産

ヒトラーは『我が闘争』などで困窮したことをアピールしているが、第一次世界大戦後には軍や、ナチ党の党首となってからはパトロンの支援もあり、運転手付きの自動車を乗り回すなど、経済状態はかなり良かった。『我が闘争』の出版などで一定の財産ができると、税務当局はヒトラーに納税を促した。しかし、ヒトラーは1924年から1925年にかけては完全な無収入であったと弁明したほか、政治的な経費が掛かるとして、税務署の要求に従わなかった。1933年に首相になった時点でヒトラーが滞納していた額は40万ライヒスマルクに上る。

1933年2月、『フェルキッシャー・ベオバハター』は、ヒトラーが首相の給与を受け取っていないという記事を掲載し、財産より清貧さを求める人物としてアピールした。しかし、1934年の国家元首就任の際には彼の首相としての給与を扱う事務処理が行われており、ヒトラーは国家元首と首相としての給与を受け取るようになった。1934年12月、ミュンヘン税務署は総統は非課税となるという措置を行った。

ヒトラーの首相兼国家元首としての給与は年額4万5000ライヒスマルク程度であったが。その他に帝国郵政が印刷する自らの肖像切手の肖像使用料も受け取っていた。さらにかつて大統領が裁量で利用できる基金が存在したが、ヒトラーはこれを会計検査院や国会の審査無しで使用することができた。また財界から拠出された金で設立されたも、ヒトラー自身の裁量で自由に使用できる性質の基金であり、事実上ヒトラーの個人財産であった。その総額は700万ライヒスマルクに及ぶ。また、ヒトラーが自殺した時に座っていたソファーの断片に付着した血痕からDNAを抽出することに成功したが、アメリカ在住のヒトラーの近親者(兄アロイス2世の子孫)から比較サンプルの提供を拒否され、同定に至っていない。ただし同年12月8日に先の報道についてロシア連邦保安庁 (FSB) は現存している顎の骨をコネチカット大学が入手したことはないと否定しているとインタファクス通信で報道された。

2015年11月15日付の英紙デイリー・メール等によると、コロンビアジャーナリスト、ホセ・カルデナスが1990年代に機密指定解除されたCIA元極秘文書の中にヒトラーに関する資料があることを発見、ツイッターで公開したことでヒトラー生存説が注目を集めている。同文書にはヒトラーが戦後、コロンビアに逃亡し、元ナチス党員のコミュニティを形成しているという情報が載せられており、1954年にコロンビアのトゥンハで撮影されたとされる写真も同封されているという。そこにはインフォーマントであるフィリッピ・シトロエンとともにヒトラーらしき人物が写っている。

同文書によると、シトロエンは鉄道会社に勤務していた時、トゥンハの“レシデンシエス・コロニアス(殖民住居)”で“長老総統”と呼ばれるヒトラーに酷似した人物を紹介された。トゥンハには元ナチス兵士や党員と思われるドイツ人が多数居住しており、長老総統にナチス式敬礼をしていたという。シトロエンはCIAエージェントに長老総統の写真を見せたが、真剣に取り合ってもらえなかった。しかし、1955年に「Cimelody-3」というコードネームの男がエージェントに接触し、シトロエンの話は真実であり、今も定期的に長老総統と連絡を取り合っているが、長老総統自身は1955年にコロンビアからアルゼンチンに渡り、すでにトゥンハにはいないと語った。この話に興味を抱いたエージェントは上司に報告したが、「確実な証拠を掴むためには多大な努力を要する」との理由で闇に葬られた。

子供

ヒトラーが第一次世界大戦に従軍した際、部隊の駐屯地であったフランス北部サン=カンタンで現地の女性と親しい関係になり、男の子が生まれたという説がある。

この説は1978年6月にミュンヘン現代史研究所のヴェルナー・マーザーが発表した。マーザーはその子供を、現地でドイツ兵の私生児として知られていたジャン=マリー・ロレ (Jean-Marie Loret) と推定した。ロレは母親が死ぬ際に父親がヒトラーであると語ったと証言していた。ロレの証言によると、ロレが生まれた時にはヒトラーは目の負傷により後方に送られていたため、ロレの存在は彼に伝えられなかったとしている。また、ロレは第二次世界大戦時には対独レジスタンスに加わり、ドイツ軍に逮捕されたこともあるが出自への同情からか釈放され、後は経済的支援を受けたと主張していた。

このニュースは世界中で話題となり、日本にもTBSのテレビ番組に出演するためにロレが訪れている。同年TBSブリタニカから『ヒトラー・ある息子の父親』という書籍も発売されている。

しかし、ロレの叔母はロレの母親の相手であるドイツ兵はヒトラーではないと主張しており、ロレの母親が『ドイツ人の息子』と言っただけであるのに『ヒトラー』と勘違いしたとしている。その他多くの矛盾点も見つかり、マーザーの説を支持する者は少数派となった。1979年にアシャッフェンブルクで開かれた歴史討論会においてこの問題が議論された際、マーザーは当初は静かだったが、突然「ヒトラーに非嫡出子がいたかどうかが問題」だと宣言し、以降の議論において完全に沈黙した。マーザーは経済的な理由でロレとも衝突し、以降ロレに言及することは無くなった。ロレはその後自叙伝を出したが、1985年に死亡した。

2008年になりベルギーのジャーナリストはヒトラーの血縁者のDNA、およびロレのDNAを専門機関に送り比較検査させた。その結果として「ロレはヒトラーの子供ではない」という結論を発表している。

この他に、エヴァ・ブラウンが書き残したとされるタイプ打ち日記の記述から、1942年の夏にエヴァがドレスデンで男児を出産しており、その男児はこれまで実子がいないとされてきたヒトラーの子供ではないかとする説がある。

映画

テレビ映画

テレビ番組

舞台

ドキュメンタリー

ヒトラーの生涯とナチの盛衰を描いた、典型的なヒトラーのドキュメンタリー。
誕生日が4日違いのヒトラーとチャップリンの生涯を、「独裁者」完成までのストーリーを織り交ぜつつ対比させているドキュメンタリー。
ヒトラーの持病と噂されてきたパーキンソン病梅毒について検証。
ヒトラーの家系・家族に焦点を当てたドキュメンタリー。
  • 『ヒトラーの山荘』(Exploring Hitler’s Mountain) - 2005年、ドイツSpiegel TV。監督:マイケル・クロフト
1945年までベルヒテスガーデンにあったヒトラーの山荘「ベルクホーフ」を中心に、ヒトラーが構想した戦略を扱ったドキュメンタリー。
  • 『ヒットラーと将軍たち』- 2005年、ドイツ
ヒトラーとカイテルロンメルカナリスパウルスマンシュタイン元帥との関係から、ヒトラーと国防軍の人物に迫った5部作のドキュメンタリー。
第二次世界大戦終結直後、ヒトラーの遺体と自殺の事実を隠蔽し、生存説を流布させ続けた旧ソ連スターリン書記長の思惑を解説。

小説

ゲーム

  • ペルソナ2〜罪」- 物語の鍵を握る奇書「イン・ラケチ」により広まった噂に基づき、物語の舞台である珠閒瑠市にラスト・バタリオンを率いて襲来してくる。本人というわけではなく、物語の黒幕・ニャルラトホテプの化身の一つ。PSP版では顔グラフィックに一部修正がされ、「フューラー」と名乗り登場する(またムービー「ラスト・バタリオン襲来」も一部修正されている)。

漫画

アニメ

  • トラップ一家物語』(1991年、フジテレビ)- 終盤でナチスがオーストリアへ侵攻したこと、ミュンヘンで主人公たちが偶然ヒトラーを目撃したことが描かれている。

参考文献

関連書籍

  • 著書・語録・書簡集
    • 完訳わが闘争角川文庫 上下、初版1973年、改版2001年) ISBN 404322401X、ISBN 4043224028
    • 続 わが闘争―生存圏と領土問題(角川文庫、2004年) ISBN 4043224036
      • 別訳 「ヒトラー第二の書」―自身が刊行を禁じた続・わが闘争(成甲書房、2004年)
    • ヒトラーのテーブル・トーク 1941-1944 (三交社 上、1994年、下、1995年)ISBN 4879191221、ISBN 487919123X
    • ヒトラーの遺言 1945年2月4日-4月2日 (原書房1991年) ISBN 4562022469
    • アンドレ・フランソワ=ポンセ編 『ヒトラー=ムッソリーニ秘密往復書簡』 (大久保昭男訳、草思社、1996年)ISBN 4794207255
    • ヴェルナー・マーザー編 『ヒトラー自身のヒトラー』 (西義之訳、読売新聞社、1974年)
    • アイバンホー・プレダウ編 『ヒトラー語録』 (小松光昭訳、原書房、2011年/旧版『ヒットラーはこう語った』、初版1976年)ISBN 456204702X
  • 回想・証言
    • アルベルト・シュペーア第三帝国の神殿にて ナチス軍需相の証言』 (品田豊治訳、中公文庫(新版) 上下、2001年)
    • アウグスト・クビツェク 『アドルフ・ヒトラーの青春 親友クビツェクの回想と証言』 (橘正樹訳、三交社、2005年)
    • ゲルハルト・エンゲル 『第三帝国の中枢にて 総統付き陸軍副官の日記』 (八木正三訳、バジリコ、2008年)
    • トラウデル・ユンゲ私はヒトラーの秘書だった』 (足立ラーベ加代・高島市子訳、草思社、2004年) ISBN 4794212763
    • ローフス・ミッシュ 『ヒトラーの死を見とどけた男 地下壕最後の生き残りの証言』 (小林修訳、草思社、2006年)
    • エレーナ・ルジェフスカヤ 『ヒトラーの最期 ソ連軍女性通訳の回想』 (松本幸重訳、白水社、2011年)
    • 『ヒトラー・コード』 ヘンリク・エーベルレ、マティアス・ウール編 (高木玲訳、講談社、2006年)
    • 『KGB秘調書 ヒトラー最期の真実』 (佐々洋子ほか訳、光文社 2001年)
    • 『ヒトラーは語る 1931年の秘密会談の記録』 カリック編 (鹿毛達雄訳、中央公論社、1977年)
    • 『君はヒトラーを見たか―同時代人の証言としてのヒトラー体験(ワルター・ケンポウスキ編、到津十三男訳) (1973年) 、サイマル出版会
  • 伝記(研究伝記の主要な著作、上記も以下も品切絶版を含む)
    • 第三帝国の興亡 (全5巻、新訳2008年-09年、東京創元社ウイリアム・シャイラー
    • ヒトラーとスターリン 対比列伝 (全3巻、草思社、2003年) アラン・ブロック著
    • ヒトラーとスターリン 死の抱擁の瞬間 (上下、2001年、みすず書房) 
      アンソニー・リード/デーヴィッド・フィッシャー共著
    • ヒトラーの秘密図書館 (2010年、文藝春秋、2012年、文春文庫)、ティモシー・ライバック著
    • アドルフ・ヒトラー 五つの肖像 (2004年、原書房グイド・クノップ
    • ヒトラー 権力掌握の二〇カ月(2010年、中央公論新社)グイド・クノップ著
    • ヒトラーという男 史上最大のデマゴーグ (1998年、講談社選書メチエ)ハラルト・シュテファン著
    • ヒトラーとは何か (2013年、草思社(新訳版)、のち草思社文庫) セバスチャン・ハフナー著
    • ヒトラー ある<革命家>の肖像 (2002年、三交社) マーティン・ハウスデン著
    • ヒトラー伝 人間としてのヒトラー/政治家としてのヒトラー
       (全2巻、1976年サイマル出版会)、ヴェルナー・マーザー著
    • ヒトラー最期の日 (1975年、復刊1985年、筑摩叢書) ヒュー・トレヴァー=ローパー
    • ヒトラー最期の日 50年目の新事実 (1996年、原書房) エイダ・ペトロヴァ/ピーター・ワトソン著
    • ヒトラー検死報告 法医学からみた死の真実(1996年、同朋舎出版) ヒュー・トマス
    • ヒトラー 最期の12日間 (2004年、岩波書店) ヨアヒム・フェスト著 ISBN 4000019341
  • 戦前戦中期の文献
    • 『ヒトラーの獅子吼 復興独逸の英雄ヒトラー首相演説集』滝清訳(日本講演社、1933年)
      • 原題(Das junge Deutschland will Arbeit und Frieden 1933年)
    • 『ナチとは何か』佐藤荘一郎訳(青年書房、1939年)
      • (Adolf Hitlers Reden 第二版 1933年の訳)
    • 『わが闘争』 大久保康雄訳 (三笠書房、1937年) 抄訳
    • 『ヒットラー語録』西村隆三郎編訳(ヘラルド雑誌社、1939年)
    • 『青年に檄す』近藤春雄編訳(三省堂、1940年)
    • 『ヒトラー総統演説集』工藤長祝訳(鉄十字社、1940年)
    • 『我が新秩序(上巻)』堀真人訳(青年書房、1942年)
    • 『独逸の決戦態度 ヒトラー総統最近の宣言』工藤長祝訳(鉄十字社、1943年)
  • 研究書
    • 斉藤孝 『ヨーロッパの一九三〇年代』 (岩波書店、1990年)ISBN4-00-004560-1
    • 石田勇治 『ヒトラーとナチ・ドイツ』(講談社現代新書、2015年)
    • 大澤武男 『ヒトラーとユダヤ人』(講談社現代新書、1995年)
    • ヒトラー全記録 20645日の軌跡 1889 - 1945 (柏書房 2001年)、阿部良男編著
    • ヒトラーとは何者だったのか? 厳選220冊から読み解く (学研M文庫 2008年)、阿部良男編著
      • ヒトラーを読む3000冊 (刀水書房、1995年)、阿部良男編著-この2冊はブックガイドの正続篇
    • Christin-Désirée Rudolph 『ヒトラーの論文のリーク: Eine Psychopathographie』(ルドルフ 2016)ISBN 978-3-00-053332-7

アードルフ・ヒトラー』に 関連する人気アイテム

わが闘争―民族主義的世界観

5つ星のうち 3.0弱肉強食的世界観

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1973年に訳出された本。著者はいわずと知れたヒトラー。根拠不明な話も多いのだが、終始断定的であり、議論を拒否するような単調な力強さがある。弱肉強食的世界観とアーリアの優越性、それにともなう敵の認定、といったところがメインテーマか。
曰く・・・
15歳ですでに王党的「愛国主義」と民族主義的「国家主義」の区別を理解した。
父はヒトラーを官吏にしたかったが、ヒトラー自身は画家になりたかった。13歳のときに父が突然死ぬ。ヒトラーはその後、病気になったこともあり、母は美術学校に行くことを承知したが、すぐにその母も亡くなった。


隣人愛の仮面のもとにさまよっているペスト(社会民主主義やマルクシズムのこと)をできるだけ早く地上から追放すべきである。
西欧民主主義はマルクシズムの先駆であり、マルクシズムはそれなしにはまったく考えられない。民主主義がまずこの世界的ペストに培養基を与えた。
ユダヤ的民主主義は、正直で誠実で個人的責任をとる覚悟がある男はそれを憎まねばならない。これに対立しているのが行動に対してすべての責任を完全に引受ける義務を負う指導者を自由に選ぶゲルマン的民主主義である。そこには個々の問題に対する多数決はなく、ただ自己の決断に対して能力と生命をかけるただ一人の決定だけがある。
ドイツは毎年ほぼ90万人の人口増加がある。これに対処するには4つの道がある。
(1)出生の増加を大幅に制限する。しかし、ドイツ民族の増加を自ら制限するという方法でドイツ民族にその生存を確保しようとするものは、同時にドイツ民族から未来を奪うものである。
(2)国土開発をする。文化的には劣っているが残忍な民族はもっとも大きな生活圏をもつために増加をつづけることができるが、文化的には優れているが遠慮がちな人種がその制限された土地のためにその人口の増加を制限せねばならない。世界は、こうして文化的には価値が少ないが、実行力のある人類の所有に帰することになる。
軍事政策上も不利。民族の居住地域の大きさの中にはすでに、それだけで外的な安全性を決定する本質的要素がある。ある民族が自由に用いる地域の範囲が大きければ大きいほど、それだけ自然の守りも大きくなる。
(3)過剰人口を移住させるため、新しい土地を手に入れ、自給の原則で国民を養う。
(4)外国の需要に応じて商工業を興し、その売上高によって生活をまかなっていく。
経済拡張政策は、いつかはイギリスがわれわれの敵となる。
ヨーロッパの領土拡張政策はイギリスと連携しロシアを敵としてのみなしえる。植民地および貿易政策はロシアと結んでイギリスと対立することになる。
宣伝は学識あるインテリゲンツィアに対してのものではなく、教養の低い大衆に対するものである。宣伝は永久にただ大衆にのみ向けるべきである。宣伝は学問ではない。ポスターがその表現自体およそ芸術でないのと同じである。
宣伝はすべて大衆的であるべきであり、その知的水準は、宣伝が目指すべきものの中で最低級のものがわかる程度に調整すべきである。それゆえ獲得すべき大衆の人数が多くなればなるほど、純粋の知的高度はますます低くしなければならない。
宣伝は、鈍感な人びとに間断なく興味ある変化を供給してやることではなく、確信させるため、しかも大衆に確信させるためのものである。しかしこれは、大衆の鈍重さのために一つのことについて知識を持とうという気になるまでいつも一定の時間を要する。もっとも簡単な概念を何千回もくりかえすことだけが、けっきょく覚えさせることができる。
すべての広告は、商売の分野でも、政治の分野でも、継続とその利用のむらのない統一性が成果をもたらす。
国家は資本を国家の召使いにしておき、国民の支配者たると思わせないように配慮するべき。生活力のある国家的、独立的経済を維持し、他方では労働者の社会的権利を確保する。
国際金融資本に対する戦いは、ドイツ国民が経済的自立と自由を達成するための最も重要な綱領である。利子隷属の打破を遂行することによっておそるべき経済的結果が生ずると心配するのは、すべて余計なことである。
個人の所有権が徐々に排除され、株式会社の所有に全経済が次第に移行したことは、重大な経済的没落現象であった。
結婚も、それ自体を目的とするものではありえず、種と人種の増加および維持という、より偉大な目標に奉仕しなければならない。この点からして、早婚は正しい。
スポーツや、体操によって鉄のような鍛錬がなされた青年は、もっぱら精神的な食物を食べさせられて、部屋の中に閉じ込められていたものよりも、官能的満足の要求に負けることは少ない。合理的な教育はこの点を考えなければならない。
などなど。

ヒトラーが若い頃から「わが闘争」執筆に至るまでの馴れ初めが書かれています。
彼の考え方、生き方が記されたこの本はナチのバイブル的存在らしいですが、どちらかというと私には普通の子供がここまでの考えに至った経緯を知りたく購入しました。

内容はそれこそ幼少期から執筆した時期に至るまでの話が上下巻で書かれています。読んだ人によってそれぞれ感じることが違うと思うので、内容については詳しく記しません。

この評価にした理由はとても文章が読みにくい所にあります。


私の読解能力が低い可能性もありますが、それを除いたとしても変な文章だと感じました。
ヒトラーが本を書くセンスがなかったのか、翻訳者が翻訳のセンスがなかったのかわかりませんが、それなりの覚悟を持って購入する事をお勧めします。

専門用語やこの時代における大まかな政治の流れなどを知らない状況で読むと、更に意味のわからない本だと感じます。

とにかくかなり読みにくい本です笑

「我が闘争」でアドルフ・ヒトラーを理解した気になってはならない。
私は約八年前、アドルフ・ヒトラーという人物が未だ全く誤解されているのではないかという疑問によって「我が闘争」を買ったが、当時の私としては期待外れであった。
しかしそれは当然。この本はプロパガンダ、読書が覚束ない労働者に向けて書かれたものであり、総統自身の思想の発展については「ヒトラーのテーブルトーク」にこそ書いてある。

重ねて言うが「我が闘争」でアドルフ・ヒトラーを理解した気になってはならない。

Hitler's TabletalkのOstara Publications版、無ければ邦訳(オカルトおじさんが監訳している点だけ気に食わないが、誤訳は少ない)を読んでくれ。

わが闘争―国家社会主義運動

1973年に訳出された本。下巻になると、人種差別意識が上巻以上に露わとなる。
曰く・・・
人種は、言語の中にあるのではなく血の中にある。混血は、優秀な人種の水準の低下を意味する。
ある民族から、最高のエネルギーと実行力をもった一定数の者が、一つの目標のために団結して現れ、全体の支配者に高まる。世界史は少数者によって作られる。
民族主義国家は、子どもが最も貴重な財宝であることを明らかにせねばならない。健全である者だけが子どもを生むべきで、病身であり欠陥があるにもかかわらず子どもをつくることは恥辱であり、子どもを生むことを断念することが最高の名誉であるということに留意すべきである。


国家は、病気をもつ者、悪性の遺伝のある者には生殖不能と宣言し、それを実際に実施すべきである。その一方、健全なる女子の受胎が制限されることのないよう心がけねばならない。
兵役を終えた後、公的活動を許す権利証書としての国家市民証書と、結婚のため肉体的に健全たることを確認する健康証明書を交付すべき。
国家市民証書の授与は民族共同体と国家に対するおごそかな宣誓と結びつかねばならない。道路掃除夫としてドイツ国市民であるほうが、他国の王であるよりも、もっと大きな名誉であらねばならない。
ドイツの少女は国籍所有者であり、結婚によってはじめて市民となる。けれどもまた職業をもっているドイツ女子の国籍所有者には市民権を授与し得る。
女子教育の不動の目標は、将来の母たるべきことである。
95%までは若い頭脳が必要とせず、それゆえまた忘れてしまうようなことは一般に詰めこまれるべきではない。頭脳の負担過重はいけない。
カトリックは結婚禁止なので、つねに民族の大衆の中から後継者を引き抜かねばならない。これがカトリックの強健な力の下地である。教会は、大勢の民衆の中においてのみ永遠に存在するようなエネルギーと実行力の総和を確保できるから。ここからこの巨大な組織のおどろくべき若さ、精神的な弾力性、鋼鉄のような意志力が生まれる。
教育制度において、現在の知識層が下層からの新鮮な血の導入によって絶えず更新するよう配慮することは、民族主義国家の課題である。
全指導者の権威は下へ、そして責任は上へ。
集会のとき、ヤジを投げられ、乱闘がはじまり、ピストルの乱射まで発生した。昔の戦争の出来事のこういう再生に直面して、心は歓喜せんばかりであった。
前線では人は死ぬかも知れない。だが、逃亡兵は死なねばならない。
偉大な新しく形成された理念の欠如は、つねに闘争力の制限を意味する。最も残虐な武器すら用いる権利があるという確信は、つねにこの世の革命的新秩序の勝利の必然性に対する熱狂的な信念の存在と結びついている。
力に満ちた国家主義国家は、その市民たちの愛と忠誠心が大きいため、対内的には法律をあまり必要としない。国際的な奴隷国家は暴力によってのみ臣民に強制労働をさせることができる。
ドイツ民族にとって仮借のない不倶戴天の敵はいつの世でもフランスである。
ドイツがヨーロッパでの同盟者を探して見渡すとき、同盟できるのはイギリスとイタリアのみである。イギリスもイタリアも、フランスの強大化を望まない。
などなど。

上巻ではヒトラーの幼少期からナチス党を立ち上げるあたりまでに多くの紙面を割いていたが,下巻では既にナチス党が一定の権力を持ったところから始まる.ここには,いわゆるナチスの聖典的な基本理念が書かれている.

私はナチズムに賛同する者では無いし第二次世界大戦当時に生きた者でも無いが,それでも惹かれる内容がいくつも書かれている.当時の時代背景の中で生活していたドイツ国民であれば,大いに賛同したであろうことは想像に難く無い.惜しむらくは,ユダヤ人の対する偏執狂的とも言える異様な考え方である.

虐殺を正当化するような論理などあり得ない.この点に関しては当時を生きたドイツ国民であっても,多くは賛同しなかったであろうと推察する.

過去の過ちを知ることは,未来に同じ過ちを犯す危険性を防ぐことに繋がると思う.上巻の感想にも述べたが,正直読みやすい本では無いが,読んでおく価値はあると思った.

5つ星のうち 1.0読まずに捨てました

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わが闘争(上)が余りのも読むに耐えない内容なので読まずに捨てました。 ヒトラーが現れければ第二次世界大戦が起こらなかった。 それは無いです。 第一次世界大戦の賠償は変わらないので、別の独裁者が現れたと思います。 戦略を持たないチビの元伍長よりまともな独裁者が現れれば、第二次世界大戦更に悲惨で長期間になったと思います。 結局は総合国力で劣るドイツが敗戦する事は、変りは有りませんが... そういう意味ではヒトラーの方ががましだったという事になるのかな? 世界にとっても、ドイツにとっても...

ヒトラーのテーブル・トーク1941‐1944〈下〉

「ユダヤ人は荷づくりしてヨーロッパから消え去るべきである。ロシアに行けばよい。(略)我々がヨーロッパ全体の問題に注意を払うのはいたって自然なことである。ユダヤ人をドイツから追い払うだけでは十分ではない。彼らの撤退基地を我々の門前に許すことはできない。どんな形にしろ彼らの浸透の危険性は取り去っておきたいものである。」
これは本書の上巻368頁に記された1942年1月27日のヒトラーの発言である。
一方、下巻451頁の巻末年表には次のように記されている。
「1942年1月(20日)ヴァンゼー会議でユダヤ人絶滅計画(最終的解決)を作成」
矛盾しているではないか!

ユダヤ人問題の最終的解決とは、占領したロシアへの強制移住を意味していたのだ。


ポーランド地域に建設されたアウシュヴィッツをはじめとする収容所群はユダヤ人のロシア移住の中継地点であり、勝利の日まで彼らを労働力として利用するための施設であった。
だが、同盟国であるはずの日本が対ソ戦に加勢しないどころか中立国アメリカを参戦させたために移住計画は頓挫。
不衛生な収容所ではシラミによる発疹チフスが恒常的に蔓延し、アウシュヴィッツでは4年間で約13万人(1日平均90人)が死亡した。

1944年、ソヴィエト赤軍の接近により、ポーランド地域のユダヤ人の殆どがドイツ国内の収容所に移送された。
その結果、多くのチフス感染者を含んだユダヤ人によってドイツ国内の収容所はすし詰めとなり衛生状態は急速に悪化。

さらに1945年にはドイツ本土が戦場になるとともに激化する連合軍の空襲によってドイツの輸送機関は徹底的に破壊寸断された。(ドイツに投下された爆弾量は日本本土空襲の約18倍)
食糧医薬品の供給が途絶えた収容所は飢餓とチフス蔓延により、連合軍が到着した1945年5月にはドイツ各地の収容所は痩せ衰えた無数の死体で埋め尽くされていた。

すべての収容所にはシラミの付着した衣類をシアン化水素ガス(殺虫剤ツィクロンB)で消毒するための燻蒸処理室が設置されており、ドイツ人はそれを単にガス室(Gaskammer)と呼称していた。
収容所から「無数の死体」と「ガス室」を発見した連合軍が、それらを格好の宣伝材料に「殺人ガス室」「ユダヤ人絶滅計画」などのプロパガンダを全世界に発信したのだ。(当然、連合軍はガス殺死体も、絶滅政策の証拠も発見していない)

現在、アウシュヴィッツの主要な殺人ガス室とされる第2収容所ビルケナウの火葬場の地下室は、地下の冷気を利用したただの死体安置室である。
ナチス収容所では約70万人が犠牲になり、その多くがユダヤ人だったことは悲劇だが、決して絶滅政策に基づく殺人ガス室での数百万人規模の大量殺戮が行われていたのではない。
ヒトラーがユダヤ人のロシア移住を計画していた一次資料が存在しているにもかかわらず、なぜその事実から目を逸らすのか理解できない。

アドルフ・ヒトラー―我が青春の友

この本を読んでいるとき、折しも欧米で「もし過去に戻って赤ん坊のヒトラーを殺せるなら、あなたは殺すか」という
質問が話題になっているというニュースを見た。
なんと、42%もの人が、「殺す」と答えたそうである。
もちろん、私はそれぞれが考える正義を否定はしない。だが、この質問に答えるまえに、まずはこの本を読んでみてほしい。

私はこの本を読み終えてしばらくのあいだ、人間の運命の不可解さについて考えをめぐらせずにはいられなかった。
もちろん、「総統ヒトラー」が悪人であるということを、私は否定できない。


だが、ここに描かれている「青年アドルフ」を、だれが悪人であるなどといって断罪できるだろうか。
芸術を愛好し、社会的不正を許さず、夢想家で、怒りっぽいが情に厚く、礼儀を重んじる。
こういった人間を愛すべき青年といわずになんと呼ぶのか。
そして、本書の著者でありアドルフの無二の親友だったアウグスト・クビツェクは、
もしアドルフと出会うことがなければ、ウィーンへ音楽修業にいくことなど考えにもおよばず、
椅子張り職人として一生を過ごし、ともすればその職業ゆえに病に冒され、早くに亡くなっていたかもしれないのだ。
クビツェクは戦後、「なぜ総統ヒトラーと再会したときに彼を殺さなかったのか」と聞かれ
「友人だったから」と答えたそうだ。
私は、アウグスト・クビツェクという人物のアドルフ・ヒトラーに対する友情のもとに、
「青年アドルフ」を悪人として断罪することはできない。

歴史にたらればはナンセンスであるが、彼が愛する芸術の道を断念し、政治の道へとつきすすんでいく過程に、
社会的な背景もおおきく影を落としていたことを考えれば、
彼が、独裁者ではなく、たとえ貧しくとも愛する芸術にその人生をささげることができた世界を考えずにはいられない。

5つ星のうち 5.0悪党ヒトラー

(参考になった人 10/13 人)

ヒトラーは悪人である。おそらく教科書レベルでしか知らない人にとってはただのイカれた虐殺者、人種差別者、最悪の独裁者程度にしか認知されていないだろう。無論、これらは間違いでは無い。しかし、多くの人が知らないであろうヒトラーの側面を垣間見る事ができる一冊である。1人の親友と共に夢を目指し、切磋琢磨し合い艱難辛苦の中で力強く人生を歩む2人の青年の姿が描かれており、熱い青春ストーリーを読んでいるかのような錯覚に陥る。ヒトラーは少年期から異常なまでに芯が強く、悪く言えば自己中的であり、彼の力によりこの友人の人生は大きく突き動かされた。

驚く事に、良い方向にである。椅子造りの家業を継ぐだけの一生であったこの友人はヒトラーの影響により長年の夢であったオーケストラの指揮者として成功を収めるに至る。不覚にもこんな友人を持てばさぞかし実りある人生を送れるであろうと思わずにはいられなかった。そして、ヒトラーはまた人一倍情に厚い人間であった。自分の目標の為にはまさに動かざる事山の如しで突き進むヒトラー少年も母の病床の際には一切を投げ打って彼女を看取った。また、母の死後、献身的に看病してくれた1人の医者に対し「この恩は一生忘れません。いつか必ず。」と言う旨を伝え、総統となった際ホロコーストの中真っ先にこの医者を探し当て国外に逃亡させている。この医者はユダヤ人であった。
ここに、如何に悪名轟かせた人間であっても性悪説は通用しないと言う課題が否が応でも突きつけられる。是非多くの人々がこの本を手に取り人間の何たるかについて思慮して頂きたい一冊である

5つ星のうち 5.0ヒトラーの愛人

(参考になった人 6/7 人)

古今東西、権力者に女漁りは常である。トランプ大統領は開陳している。「有名で金と権力があれば美女はいくらでもすり寄ってくる」と。
彼らしくまことに正直である。
かのムッソリーニと毛沢東も共に死に至るまで女には手当り次第であった。そこにいささかの道徳律もない。翻って我らのヒトラーはどうであろうか。これが驚くことに、彼にはセックスを対象にした女性はエバブラウン嬢以外に見当たらない。あれほどの権威をもちながら何ということだろう。しかしそのエバにあってさえ、ヒトラーと関係があったのは知り合った最初の頃だけで、あとはよく知られているように、愛人とはほど遠い愛玩用の犬並みのあつかいとなり、もっとあとには、メイド並みになりはてて、そのはちきれんばかりの優美な肢体を完全にもてあましてしまった。


エバが終戦間際のベルリン総統地下壕になだれこみ、侍医のモレルに「総統が女に興奮するような注射を打って欲しい」とたびたび懇願したのには、なるほどそれなりの理由があった訳である。今考えれば、実に不憫な女性であった。
今日、われわれは、十代の若き日に一人の恋人も得られなかった孤高で、空虚で潔癖症のこの若者をどう評価すればよいのだろう。
虚弱な若者はその後、歴史に類を見ない最大最高最強の権力者にのぼりつめた。
これは作り話などではなく本当にあった物語である。われわれはクビツェクに感謝すべきだろうか。

第二次世界大戦 ヒトラーの戦い〈1〉

題名からは、ヒトラー1人に焦点を当てた本のように見えるかもしれませんが、主としてドイツの視点からではありますが第二次大戦全般をくわしくたどった本で、フランスやイギリスやソ連などの指導者たちが何を考えていたかも克明にたどっています。ヒトラー1人を悪者と見なすような見方がなされることが多いと思いますが、これを読むと、連合国側の指導者たちも、ずいぶんいい加減だし愚劣だし、チェコやポーランドの人たちを人間とも思わないような態度を平気でとっているし、彼らがもっと的確で正当な判断をしていたらヒトラーにあそこまで暴走を許すことはなくて済んだのではないか、とつくづく思わされます。

小説のようなスタイルで書かれているので、10巻という分量の多さがまったく気にならず、一気に読破できます。

ただし。色々と注文をつけたくなるところも少なくはありません。密室での会話でもまるで見てきたように再現されていますが、実際にこのとおりの会話があったことを立証する資料はあるのか、疑問になる場合があるので、ちょっと註かなんかで資料を指摘してほしかった。ところどころに地図などが挿入されてはいますが、もっと図版を豊富に掲載してくれないと、地理的関係などがわかりにくい場合が多い。それと何より、この著者はドイツ語が読めません。時々、ひっくりかえりそうな発音のドイツ語を知ったかぶってカタカナで書き入れてますが、これはおやめになった方がよろしいかと思います。ドイツの戦争を描くと称する本で、英語圏の資料しか利用していないというのは、いかがなものか、という疑問はぬぐえません。

わが国では(というか世界中で)ナチスとヒトラーは悪者扱いされている
勝てば官軍、負ければ賊軍なので、それは当たり前なのだが
しかし、戦争や軍事、国家の方針で、絶対善や絶対悪なんてのはありえない
ただ、「利益」についてのみ言えば、第二次世界大戦は英仏が損をして、米ソ(そしてその後の中共)が得をした、それだけでしかない
日独は敗戦したとはいえなぜか経済大国になっているし

とにかくヒトラーという男は、政治的には希代の天才であったことはよく分かる
しかも合法的に政権をとっている(ミュンヘン蜂起で投獄された反省かもしれないが)
なぜ失敗したのか、それを考えると、現代の政治・経済の問題点もみえてくると思う

ヒトラーと欧州戦線の独軍の流れが非常にわかりやすい本 ただし、ヒトラーのユダヤ人政策や戦時占領地政策など暗黒面は あまり詳しく触れられていない 当時のドイツ軍の戦略的な背景として、ドイツはわずか20数年前の第一次世界大戦で、 ロシア戦線で圧勝して圧倒的有利な講和条約を結ばせた従軍体験が色濃く残っており、 当時のドイツの将軍たちにも圧勝した第一次世界大戦の東部戦線の従軍経験者が多く ヒトラーならずとも独ソ戦が今日考えられているより、非常に楽観して (もちろん 第一次世界大戦で勝てなかったフランス戦線よりも)始められたことなどの 内情があまり述べられていないのが残念である

アードルフ・ヒトラー』by Google Search

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